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幻想の「みんな」と戦ってしまう。【分析してください!】

「みんな」は狡猾でしっかりしていて、計算高く、弱点がない。例え弱点があるとしてもそれは、その人の魅力にもなっている。つまり、すべてその人にとってよいように働く。 「みんな」は絶えず、私の悪い所を探そうとしている。そのような能力のない人は、私を理解しようとしない(積極的に認識の外に置く)。 そんな「みんな」を作りだし、街を歩いて入るときなど、心の中でつい戦ってしまいます。でも、これは幻想だと言う事は分かっているのです。癖なのかもしれません。 僕がこのように思いこんで苦しんでいる原因として、考えられるのは、 1.具体的な個人との接点が少ない。 2.ずっと、恋人がいない(長時間他人と同じ時間を共有するという経験がない)。 3.他人と時間を過ごしたことがない(サークルや部活などに入らない、2.など)。ということが劣等感となって心に蓄積している。 などです。 誰か僕の心理を分析してください。よろしくお願いします。

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  • Syo-ya
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回答No.7

以前も回答させていただいた者です。頑張ってますね。 私も同じような経験がありますし、もう本当に、痛いくらい気持ちが分かるのですが、是非、この言葉を覚えて欲しいんですが、いかなる問題もそれを創り出したのと同じ意識によっては解決することはできないんです。 脳の仕組みで説明しますと、過去の何かがキッカケで一度出来上がってしまった神経細胞の繋がりを行ったり来たりしているだけで、そこには別の世界への抜け道は無いんです。 最初はちょとだけ森に出来たはずの獣道だって、何度も、何度も行ったり来たりを繰り返しているとドンドン太くて、広い道になってしまうんです。そのうち、そこを大勢の人が通り、自動車が通り、気が付いたら『メイン通り』になってしまうんです。 メインの思考パターンだから、そのパターンに従って一生懸命悩んでしまいますが、この獣道には解決への抜け道は無いんです。 一生懸命、横道を探して、迷い続けているのは分かりますが、それを創ったのと同じ意識では解決できないんです。 (こんな説明で伝わりますでしょうか) ですから「新しい自分になりたい」と思ったら、新しい自分になってしまえば良いんです。思い悩むのは、古い自分の仕事ですから、新しい自分には成れないんです。 ですから、今日からでも、成りたい自分を明確にイメージして、そのように振舞ってしまうことが大切です。 その一歩が別の獣道を創り、いつかはメイン通りになるんです。 「彼女が欲しい」と思ったら、既に彼女がいるとイメージしてしまえば良いんです。既に欲しいものはあるという満足のイメージが、心持を良くしてくれます。 心持が良くなれば、晴れやかな気持ちになります。 晴れやかな気持ちになれば、笑顔も出ます。 笑顔が出れば、表情も明るく穏やかになってきて、 そして良い表情をしてれば、果ては本当に彼女が出来るんです。 そうして気が付けば、そこがメイン通りになってるんです。 まさに、風が吹けば桶屋が儲かるのメカニズムなんです。 だって、考えてもみてください。 「彼女が23年間いない、ああ、なんと情けない・・・」 と、責め続けていれば気持ちが暗くなってきます。 気持ちが暗くなってくれば、発想も暗くなります。 発想が暗くなれば、表情も暗く挙動も怪しくなってきます。 表情が暗く挙動も不信になれば、当然彼女もできません。 そして果てはネット・カフェから心理分析を依頼するようになるんです(笑) これも桶屋メカニズムそのものです。 どうです? 凄いでしょ? 桶屋メカニズムを信じたくなったでしょ?(笑 もし、信じるのならば、成りたい自分をイメージして、そのように振舞ってしまうことの重要性に気が付いてください。 現状がどんなに悲惨でも、そんなことはどうでも良いんです。 いずれ現実や事実を創るのも「イメージ」だからです。 大切なのはイメージ力です。 http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=802073 こちらの#5にも、同じような駄長文を書いてますので、是非、一読してください。 佐藤富雄氏の口癖に関する本もお薦めします。 図書館にならあるでしょう。

tricleore
質問者

お礼

とても分かり易い回答ありがとうございました。わかりやすすぎてひきこまれそうww でも、言っている事は分かります。そうですね。イメージが大切だ!自己イメージをどう持つかですね~。

その他の回答 (7)

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.8

再びの7です。しつこくすいません。m(_ _)m この際ですから追記します。 tricleoreさんも、悪いイメージが心身を蝕んで行く凄まじいまでの世界を経験された んですから、是非、今後はイメージについて研究・実践して欲しいと思います。 tricleoreさんがとても聡明な人で、バランス感覚も優れているのは分かっていますが、 どんなに頭脳明晰でIQが高く、情緒指数のEQが高い人でも 良いイメージ・良い想念には勝ることは出来ないんです。 注意して欲しいのは、あとは思考力・分析力や意思力の問題では無いということです。 私自身がイメージの力を勉強して活かしたいと思ったのが、以下の自分の体験からでした。 http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=803969(こちらの#8) あえて言えば、求められるのは「素直さだけ」かも知れません。  ちょっと試しにイメージしてみてください。 身体の中に光る玉があって、強いエネルギーを発しています。 この玉が光を放つと、沢山の光る粒子が湧いてきて体内に染み込んでいくんです。 粒子が全身各所の、ありとあらゆる細胞の中に染み込んで行くんです。 この光る玉にマイナスのイメージ映像を入れれば、その通りになっていきます。 その逆に、プラスのイメージ映像を入れれば、その通りになっていきます。 今までもこの光る玉は存在していました。 そして私達の想いを増幅して、現実のものにしようと働いていてくれてました。 ただ、余りにも情報過多で、複雑な生き方を求められる世の中ですから、 あまり良い想いが出来ずに居た為、光る玉の威力もマイナス方向に働いてしまっていました。 ですから、今日からは成りたい自分の姿を明確にイメージして、この玉に送り込みます。  こういう子供っぽいSF的な誘導があると、さらにイメージが誘発されると思いませんか? これはイメージ・スクリプトというものです。馬鹿には出来ません。 試しにレモンをイメージしてみてください。 スッパそうなレモンをイメージするだけで、奥のほうからツバが溢れてきませんか? これは私達の脳や神経組織が、現実とイメージを区別できていない証拠なんです。 また、イメージが人間の生理機能に働きかける力を持っている証拠なんです。 つまり人間は想像によって物理的な具体を動かし「自分」を創造をしているんです。 私はこれは神が人間に与えた、神と同じ能力だと思います。だって「創造」には想像と、 実現する為の具体が必要ですが、私達にはこの両方が与えられているんです。 http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=802609 こちらの2も読んでみてください。 あと必要なのは、素直さです。 これは呼吸法で実現できます(笑) 吐く息に重点を置いて、細く、長く息を吐き、吸う息はあくまでも受動的に行います。 何故ならば、吐く息の時は副交感神経が優位に働くので、リラックスできるんです。 気持ち良くリラックスできると脳波がアルファ波という状態にもなります。 こういう状態(変性意識状態)になれば、暴れる猿でも素直になるんです(笑) http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=795284 こちらの3を読んでみてください。 http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=780285 こちらの2も参考になりますでしょうか。  またまた長蛇乱文になりましたが、伝わりますでしょうか。 これらは心療内科のパイオニアの(故)池見酉次郎氏も治療に取り入れていた セルフ・コントロール術にも通じますし、それ以上のものだと思います。 ちなみにこの光の玉のある部分を下っ腹の「丹田」という場所としてください。 常に「丹田」に意識を置いて、良いイメージを送るようにしてみてください。 いろいろ紹介してます本も是非、ご覧になってください。 原久子さんの呼吸と瞑想の本も一読の価値ありです。

tricleore
質問者

お礼

回答ありがとうございます。御礼が遅れてしまって吸いません。 心は身体と繋がっていますから、(心と身体は同じかな?)身体を変えることによって心が変わるというのは身にしみて(?)わかります! なんども低ないな回答ありがとうございました!

  • Ahooo
  • ベストアンサー率11% (5/44)
回答No.6

とても一所懸命な人だと感じました。直向な人柄が伝わってきます。私のような気楽な人間が云うのも変ですが、御参考までに。 私の場合、ものの本によると“反社会性人格障害”に当てはまり、「みんな」はいつも不平不満の対象になります。道を歩いていても、電車に乗っていても、“だらしない大人”が目に付き勝手に苛苛rしています。テレビをつければ、勘違いしたニュースキャスターに怒り、能の無い芸能人に腹を立て、無責任な‘評論家’を称す輩に密かに罵声を浴びせております。これは“ゴマメ歯軋り”という奴で、無意味あることは判っていますが、これをどのように無意味にしないかを日日考えております。これが解決の一であり、生き方でも在ります。 世の中を一つの価値観で観てしまうと、混乱が起きます。ある人の一つの行動がその人の総てではない様に、世の中を一つの具象的な「みんな」にしてしまうと、総ての人が“良く”観えてしまうかも知れません。私の場合は“悪く”観えてしまうのですが... 他人と接点が無いことは様様な“違い”を生むかも知れませんが、それが悪いわけではない。それによって総ての人がノーベル賞をとったり、犯罪者になったりする訳ではない。人間や国、世の中や世界を“概念”で観てはいけない。人生は現実に存在し、その個人にとっては、可視的であり、手に触れられるものです。他者はあくまでも他者で、それを気にし過ぎるのは得策ではない。疎外感や排他的なものを感じることは多多在りますが“それが原因で...”と叫んでみても、責任は自分に有る訳で、その責任を「みんな」に押し付けてはつまらない。 人にはそれぞれ適正というものがあり、それによって世の中(「みんな」)は成り立っている。話が得意でない人は黙っていればよいし、喋りたきゃ喋ればよい。他人に害を与えない範囲で、やりたい様にやればよい。得意分野があって優秀なら、それで世界と勝負すればよい。もし自分を変えたいのなら変えればよい。 思い込んでいる原因が、1,2,3のどれでもなく自分の心が自分の“外”に原因を探しているからでないだろうか。 以上、分析にはならなかったようだが。

tricleore
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 僕にとっては新しい考え方でした。ありがとう。

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3286)
回答No.5

ちょっと追いつめられている感じですね。 適度な闘争心というものは、自分自身を向上させるきっかけ となることもあるのですが、過度な意識はやはりマイナス面が 大きいと思います。 気分転換も兼ねて、少し自己分析を試してみてはどうでしょうか。 私のお勧めは『エニアグラム』です。 自分の性格タイプが把握できれば、過度な自己批判の原因と 対策も理解できるようになるかと思います。 『エニアグラム ホームページ』  http://www.enneagram.gr.jp/enneagram/enia.html 『千年堂エニアグラム性格鑑定室』  http://member.nifty.ne.jp/tak-morita/index2.html 『究極のエニアグラム』  http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/

参考URL:
http://member.nifty.ne.jp/tak-morita/index2.html,http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/
tricleore
質問者

お礼

回答ありがとうございます。もう、つらいです。 外に出てオアシスと感じるのは、ネットカフェくらいです。今も、ネットカフェに入り込んで書き込みしています。 自殺したいなどといってつらさをアピールし、他人に頼れば少しは他人に気づいてもらえるかもしれませんが、僕はそれをするにはいたらないということを知っています。そういう分別があるのでそのような行動を起こすことはないでしょう。このまま、今のような孤独な状態のままで死を迎えると考えるとつらくて泣きたくなります。この状態は、中学校のときに気づいてから、23歳の今に至るまでずっと継続して続いています。もう、つらい。

  • jume
  • ベストアンサー率46% (71/152)
回答No.4

tricleoreさんは「戦う」という表現をされました。 「戦い」は、「自分との戦い」という場合でさえ、自分を二重化させることで、なんらかの「他者(相手、敵)」を想定しており、その関係において自己が他者に対して、優位性を獲得することを期待し、起こす行動のことです。それは、つまり自分の勝ちを期待し、相手の負けを期待する、一種の権力闘争ということになります。 tricleoreさんが「みんな」(=他者)と戦っているのだとすれば、tricleoreさんはその権力闘争に参加しているということです。そして、「戦う」という表現を用いた以上、tricleoreさんは、「みんな」に対して自己の優位性を期待しているわけです。 しかし、tricleoreさんによれば、「『みんな』は狡猾でしっかりしていて、計算高く、弱点がない」。そして、「『みんな』は絶えず、私の悪い所を探そうとして」おり、「そのような能力のない人は、私を理解しようとしない」。それを言い換えるなら、優位性が「みんな」の方にある、とtricleoreさんは考えてらっしゃるようです。ちょっとここがわかりにくいのですが、そうなると、題名で言及されている「戦い」は、tricleoreさんが負け越しているということなのでしょうか? さて、「みんな」との「戦い」において、tricleoreさんが負けているのか、勝っているのか、それはひとまず置いておいて、次に、その「戦い」はほんとうにあったのか?と問うてみましょう。というのも、tricleoreさんご自身が、「このように思いこんで苦しんでいる」と述べておられるように、「みんな」との「戦い」そのものが、「思いこみ」である可能性があるからです。ちなみに、No.1で回答を寄せておられる方はtricleoreさんの「思いこみ」説を支持しておられるようです。また、No.2の方も基本的には同じ立場でいらっしゃるようですが、さらに一歩踏み込んで「幻想」、「妄想」、「おかしな事」と結論されています。 その「戦い」はほんとうにあったのか? それを考えるために、まず「みんな」が誰か考えてみましょう。「みんな」は、「みんな」というからには単数ではなく、複数でしょう。そして固有名ではない。つまり、特定の個人ではない。それは、tricleoreさんもご自身が「具体的な個人との接点が少ない」とおっしゃっているように、具体性を持った誰かではなく、群衆的な「みんな」である、と想像できます。群衆には顔がありません。しかし、群衆は思考しない。計算問題を解く、ということを考えてみてください。問題を解くのは個人であり、群衆ではありません。つまり、「狡猾でしっかりしていて、計算高く、弱点がない」という「みんな」は、いわゆる群衆ではありません。 では、「みんな」とは、いったい誰なのでしょうか? それは、実は、原理的に、僕には解けない問いです。というのも、それは、あらかじめ答えのない問いだからです。たとえば、フロイトに始まる精神分析は、「反復」や「転移」といった概念を用いて、幼児期の対象関係を説明するでしょう。精神分析では、人間は幼児期の重要な大人との対象関係を大人になっても反復する、と考えるので、tricleoreさんの場合、「狡猾でしっかりしていて、計算高く、弱点がない」、一種の「完璧」とも言える大人との関係があった、というふうに解釈されるかもしれません。tricleoreさんは、そのためにその「完璧」な大人と違っている自分を「劣等」であると評価してしまう。そして、対人関係も「劣等感」にまみれたものになる…といったふうに。しかし、これは、精神分析が非科学的だと言われるように、なんの根拠もない「解釈」「物語」に過ぎません。 しかし、精神分析を参考にするならば、「みんな」とは、過去の対人関係を基礎にしてtricleoreさんの中で独自に構築された「自己観/他者観」のことであり、「戦い」とは、それへのtricleoreさんなりの必死のレジスタンスであると言えるかもしれません。「みんな」という語彙のもつ複数性は、その「自己観/他者観」が一般化されているということなのでしょう。もともとは誰かだったのが、他の対人関係でも反復されるようになり、一般化されたのです。みんなとの関係が、同じようなものとなったので、最初の誰かは誰かであったことが忘却され、「みんな」となったのだと…うーん、抽象的でわかりづらいですね(笑)。 いずれにしても、「戦い」とは、tricleoreさんによって心理的に構成されたものだと思います。つまり、一般的な「真実」ではないということです。しかし、今は、あまりに「完璧」な他者に押しつぶされないために必要なことなのかもしれません。しかし、あまりにも孤独な「戦い」…。その勝ちはtricleoreさんの中にだけあるもので、僕や他の方には共有されていないでしょう? それは、tricleoreさんの「戦い」や「劣等感(=負け)」も、同じだと思います。それが僕が先に書いた「孤独な戦い」ということです。まるで風車と戦うドン・キホーテ・デ・ラマンチャです。 実は、僕は過去の経験がtricleoreさんのおっしゃることと酷似しており、ほとんど自己分析に近いことを書いています。今も対人関係ではかなり不自由しています。そこで劣等感を感じてもいます。 ところで戦わなければ勝たないけれど、負けません。蛇足ですが、似たタイプの人間として僕自身が心掛けていることを書かせていただければ、喧嘩は買わないのが良いと思います。tricleoreさんは売られてない喧嘩まで買ってしまってるような気がします。戦いの枠組みを脱臼させる、と僕は表現してますが、自分や他者によって設定された枠組みを少しずらしてみると、世界が違って見えてくるかもしれません。あとは少しづつ、対人関係のリハビリを、ぜひ。

tricleore
質問者

お礼

とても丁寧な回答ありがとうございました。非常に分かり易かったです。しかし、jumeさんと僕の違いは、僕は「みんな」を単数形で考えることが多いということでしょうね。これは、幼稚な考え方かもしれませんね。 マイクル・クライトンというアメリカの作家がいますが(「ジュラシックパーク」「タイム・ライン」など)、彼の最新作で「PREY」というものがあります。そのなかで、単純な機能しかないロボットが「集団」で行動し、「集団で」思考するという描写があります。単純な機能であっても、それが連絡することによって複雑な作業が可能になるのです。彼の小説は化学の最先端を扱うもので(前作タイム・ラインでは量子力学を用いた量子コンピュータ時間旅行でした)、この作品も最近の科学の成果が反映されていると思います。 僕は、「集団」は「思考する」と思っています。このとき、「集団」は単数形で表現されます。 「孤独な戦い」に関してですが、僕もそう思います。なので、これからは一歩前進して客観的な舞台で戦おうと思っています。最近、簿記2級の勉強をはじめましたw大学院に進学したり外国の院にも行きたかったのですが、お金がないし、もう、そういう「僕が作り出したみんなという幻想」と孤独に戦うことにも疲れたので、小さな企業に就職しました。ここで小さな、現実的な戦いをしていこうと思っています。 回答ありがとうございました。

  • megu_7
  • ベストアンサー率33% (147/438)
回答No.3

「ある分野に限って」上位に入っていらっしゃるとの事。 さぞや優秀な能力をお持ちなのだと思います。 そんなあなたが何故それほどにも「妄想」に苦しまれているのでしょうか。。。 ですが、人間とは実に素晴らしい生き物で、莫大な細胞から成り立っています。それらの細胞によって1人の人間が作り上げられ、そして生育環境や経験、その他様々な人生を通して、ただの「人間」から、味のある「人間」が作り上げられていくものです。 ごく限られた能力が例え他人より秀でていても・・・残念ながらそれはあなたのごく一部にしか過ぎません。氷山の一角です。 人間とは、もっと奥深いものです。 総合的にバランスの取れた人間こそが、ストレス社会に適応出来る大切な要素でもあると思います。 仮に能力の秀でた人間がいたとしても、それを上回る「人間味:人間性」がなければ、恐らく周囲の人間はその人に何ら魅力は感じないでしょう。 >「みんなはバカばっかり」ということは、よく聞くのですが信じられないんですよね。 学業面に於いて「バカ」である人が、必ずしも不幸な人生を送るとは限らず、その逆もまた然りです。 私にとっての「バカ:語弊はありますが」とは、能力があるにも関わらず、自身の能力を上手く生かせない人や、適応能力・柔軟性に欠ける人。 要するに、世の中の変化に順応し、ストレスを抱える事なく・・仮にストレスを抱えても自らの力で上手く乗り越える能力。それこそが本当の意味での「賢い」人でしょう。 あなたの場合、対人関係:人間関係の面に於いてやや能力的に劣っていらっしゃるのかもしれません。 それはご自身の抱いていらっしゃる価値観が邪魔をしているように感じます。 人それぞれ異なる能力は持ち備えています。 あなた自身、もう一歩踏み込んで、周囲の人とコミュニケーションを図ってみてはいかがでしょうか? 様々な人の人生観や価値観を知る事は、今のあなたにとって本当に勉強になると思います。 「周囲の奴はみなバカばっかり」と決めつけてしまってばかりでは、何の進展もありません。 自分と異なる考えを持つ人の話にも耳を貸し、柔軟性を持って人と関わっていかれると、自然にそのような「妄想」から脱出できるような気がします。 が、それらの「妄想」が今後も増大し、日々の生活にも支障をきたすまでになった場合、その時は、当然医療機関でのカウンセリング・治療が必要になる事もあります。

tricleore
質問者

お礼

ぼくは、「周囲のヤツはみなバカばっかり」と、思いこめないのです。#2さんの助言のように思いこめれば少しは楽になると思うのですけどね。最終的には、他人を評価しないようになりたいですね。 僕は少し柔軟性を持ち過ぎているのかもしれません。特技は他人のよいところを見つけることです。そして、「みんな」はひとりひとりのよい部分がすべてくっついて出来ています。 でも、思う事は基本的に「みんな」というのは存在しているという事実もあるということです。僕はそれが気になってしょうがないだけかもしれません。 回答ありがとうございました。

  • 1031janai
  • ベストアンサー率4% (14/299)
回答No.2

素人ですが分析していいですか? あなた暇でしょ??頭の中が暇だからいろんな幻想を抱くんです。なにかに打ち込んでいるときはそんな妄想をしないと思います。暇な人間て結構おかしな事考えてたりするもんです。 ちなみにあなたには自信が足りない気がします。「みんな」はバカばっかりです。なめてかかりましょう。

tricleore
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「みんなはバカばっかり」ということは、よく聞くのですが信じられないんですよね。実際僕は一つの分野で客観的に、同世代の上位3パーセントにいて、もう一つ、日本人の上位4パーセントに入っている分野もあります。それでも、その分野の結果に対してさえ疑ってしまいます。 (勘違いされないように説明しておきますが、これは、「ある分野に限って」上位に入っているということです。受験模試の全国成績という例が分かり易いと思います) だからやっぱり、「客観的」な数字より「主観的」な自信が必要なのだと感じています。

回答No.1

どうにかして気分転換できないでしょうか? 答えはあなたの考えるとおりで間違いないと 思います。

tricleore
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

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