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都城の宮城が北の中央にある理由を教えて下さい。
平城京からは 中国の都城をまねて 宮城は北の中央に置かれる様になったそうで、 北の中央に置かれるのは [天子南面思想]の考え方があるからとの事ですが 天子南面思想の考え方があったからと言って 日本の城などで 天守閣が端っこにある…という事はないはずで… 敵から身を守るには都城の中央の方が安全で、 城壁のすぐそばに宮城があったら 敵はその城壁側から攻めてきて危ないのではないでしょうか? その危険性を考えても 中国の都城の宮城を北の中央に置いていた理由は何なのでしょうか? それとも 北の中央の方が安全な理由があるのでしょうか? 宜しくお願い致します。
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>中国の都城の宮城を北の中央に置いていた理由は何なのでしょうか? 宮城を北の中央に置いてあったのは日本が手本としたとされる長安と洛陽の都市デザインですが中国でも例外です。 北京城のように中央に城壁に囲まれた王宮(紫禁城)を設けて、更にその周辺の庶民が暮らしている市街地全体を包囲するように城壁を設けるのが主流でした。 長安と洛陽がなぜ例外的な都市デザインになっていたのかは現在も不明です。 手本にした本家本元の理由が分かっていませんので確たる理由はわかりません。 「君子南面す」とか風水によるものだとか言う理由付けは後から付けられたものです。 >日本の城などで 天守閣が端っこにある…という事はないはずで… 天守閣というものは極めて実用性の乏しい建物でした。 城の中枢は本丸内にある木造の建物でした。 この本丸の周囲に設けられていた隅櫓の一番大きなものが天守閣と呼ばれていただけです。 天守閣が本丸の隅にあるのはこのためです。 江戸城の天守閣が明暦の大火で焼け落ちましたが時の幕府は天守閣など無用の長物として再建しませんでした。 以降210年間江戸時代を通じて江戸城には天守閣はありませんでした。 >敵から身を守るには都城の中央の方が安全で、城壁のすぐそばに宮城があったら 敵はその城壁側から攻めてきて危ないのではないでしょうか? 平城京にせよ平安京にせよ城壁で囲まれていません。 朱雀門とか羅城門とか門だけが建てられていました。 城壁で取り囲まれた城塞都市というのはヨーロッパや中国など大陸国特有のものです。 異民族間の戦争が続いた大陸国では占領された城塞都市の内部は徹底的に破壊され略奪されました。 生き残った住人は奴隷として連れ去られました。 日本の戦が最高責任者が死亡した時点で終了としていたのとは根本的に違います。 日本では城壁で囲まれた城郭都市というものが発達しませんでした。 類似のものとしては後北条氏が作った小田原城だけです。 京都市内に残っている土塁は秀吉が後から作ったものです。 漢字の「くに」という文字は現在は「国」ですが旧漢字と言われる元々の字は「國」でした。 地域の域の字の一部が囲みの中にある文字です。 古代中国では城壁で囲まれた内部だけが國でした。 中国の都市が巨大な城壁で囲まれているのは従来は防御のためだったと考えられていましたが、最近は住民を囲い込んで逃亡を防ぐためだったのではないか、と考えれています。
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- jkpawapuro
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天使南面思想といいますが、 おそらくその起こりは都城制都市においては北に富裕層が、南に貧民層が住んだことが背景です。理由は城壁のせいで南は日当たりが悪いからです。 その結果南ほど貧乏・北ほど金持ちという階層が都市内でできあがり、北に偉い人が住む流れが出たのでしょう。 よって外敵に対する備えより階級の象徴や治安の都合が背景として起こった思想と思われます。
お礼
ありがとうございましたm(__)m。
- SPS700
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天子は天下を統治するのが仕事で、暖かい南を向いて座っていればいいのです。これに対して将軍の仕事は戦争に勝つことで、機動性が大切です。 天皇は、天子です。その下に征(夷狄蛮戎)大「将軍」が位したわけですから、分業制で、居場所が違ったのでしょう。
お礼
ありがとうございましたm(__)m。
お礼
ご回答ありがとうございましたm(_ _)m。 『長安と洛陽の方が例外的な都市デザイン』だったのですね。 納得できました。ありがとうございました。