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明治から昭和初期の住み込み使用人の一生
- 明治から昭和初期にかけて、住み込み使用人として働く人々の一生について探求します。
- この時代、住み込み使用人として働く人々は、中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で生まれ、若年時から住み込みで働くことがありました。
- 住み込み使用人の求人は、主家がアピールしたり仲介したりする方法が一般的でした。
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回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられます。 また身元がしっかりしていることが条件なので、あまり斡旋所(桂庵)などの利用はなかったと思います。 大家族制で、未婚の弟妹が同居しているのが普通でした。女中が里帰りしていても、家事に差し支えることは少なかったのではないでしょうか。 詳しいことは、たとえば小泉和子『女中のいた昭和』などがお役に立つと思います。末尾にある読者の書評も面白い。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309727921/chickensoupwi-22/
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- tanuki4u
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2) http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/04/pdf/066-069.pdf 1931年以前においては、民営紹介業が公営紹介業が上回っていた 5) http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1540.html 日本は結婚大好き国家だったので、戦前の生涯未婚率は非常に低かった
補足
回答をいただきありがとうございます。 昔、家政婦紹介所というのがあったのを思い出しました。今でもありますよね。 もともと、口入れ屋は落後や漫画などにもしなしば出て来るので、存在は知っています。 そういうところを通じて住み込み使用人を紹介してもらい確保していたんですね。 すっかり忘れていました。 未婚率はちょっとどうなのでしょう。 女の場合の未婚率が、30~34才で4%前後、50歳以上で2%弱となっています。 普通?なら30前に結婚するでしょうから、結婚できなかった人が4%くらいいて、その半数が生涯結婚できないと読むのでしょうか。この時代、結婚できないで女が生活をするには、性をベースにするか、手習い教授などか、住み込みというのがメインになりそうです。 この時代30歳過ぎでは性の商品としての価値もあまりないでしょうから、一番多いのは下女、飯炊き、住み込みではないでしょうか。 100人に4人あるいは2人ということは、使用人を持たない普通の30代の主婦が50~60人、数人の使用人を使う30代の主婦が1~2名という感じなのでしょうか。
補足・・・すごい頭の回転ですね~ 部分的な回答になりそうですみませんが・・・ 残念ながら・・男性には召集令状というものがありました。 長男の後継者だけはギリギリまで逃れられた時期もあったらしいですが また、戦場には必ずあった、女性の働き口 そして日本は、様々な手段で余剰人口を国外へも放出しています。 天国のような国が外国にはあるんだ!・・・と 一部の優秀な人以外の悲惨な最期・・・ >死んでしまった使用人の葬儀や墓などは、どうしていたのでしょう。 葬儀、墓等・・必要ありません。 使用人=物 物に、葬儀・墓、なんていらない・・という考えだったのでしょうね。 (現代でも、無縁仏の合同墓?のようなものがありますね お骨を抱えて、お金に困った人が、墓苑の隅に放置していくとか 多いようです・・・) それでも最後まで雇用主に面倒見てもらえた人はまだマシです。 働けなくなった人は、放りだされる場合も少なくありません。 放り出された人が行きつく先・・・ ここら辺は多少は書物等にも残っていますね。 >住み込み使用人を辞めては行き先がなくなるように思えます。 当然・・ありません。 だから病気になったと自覚があっても、ギリギリまでは 周囲に隠して、必死に働きます。行く所は無いのですから。 病気になって医者に観てもらえるのは、雇用側だけです。 こうした色々な理由から・・寿命も短かかったのですね。 こういった歴史は、目をそむけて知らん顔する現代人が多いですが・・・ 日本の悲惨な歴史は・・忘れてはならないようにも思います。 ありがとうございました。
補足
3回目の回答をいただき、ありがとうございます。 一般論として、資産もない、特別の縁故や能力もない人がいて、人口増加が経済成長を上回る場合は、悲惨な状況がたくさん出て来るのはわかります。浮浪者や渡世人、鉱山労働、工場労働などでもそうした人が多く、大変だったのはわかります。政府が拡大政策をとり、朝鮮、中国・台湾をなんとかものにしようとしたのもそうしたことが背景の一つかもしれません。移民も多かった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%BB%E6%B0%91#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E7.A7.BB.E6.B0.91 その他にも北海道開拓や軍の徴兵などもそうしたものかもしれません。 ただ、個別には色々なことが起きます。 豪農は屋敷も大きいです。酒屋、醤油屋、問屋なども構えは大きく通いの従業員だけでなく、住み込みの使用人の棟をもっていたり、二階屋根裏は使用人の居室だったりしているのは多いです。 恵まれた生活ができていたとは思いませんが、流浪しその日のその日の薪や食事にも事欠く人よりはましだった可能性は結構あると思っています。 アメリカでも南部の奴隷の生活は、奴隷ではない自由民の下層のものの生活よりはよかったそうです。 日本でも住み込み使用人が一律だったとは思いません。 綿糸工場や蟹工船ではなくても、そうした形で雇われている人と、住み込み使用人で働いている人は、きっと違いがあるのだろうと思います。 何となく、「住み込み使用人は家庭・家族を持てない・子孫を残せない」のではないかと思います。しかし、労働強度などでは、工場労働や鉱山労働よりもましだったのではないかと思うのです。(事実を知らないし、明確な根拠があって思っているのではないです) そうした住み込み使用人の、就職事情・病気になったときや高齢になったとき・あるいは死んだときはどうなるのかを知りたいのです。 住み込み使用人の多くが結婚できて住み込みではなくなって生活し子孫を残して一生を終えたということなら、そういうことを知りたいのです。 No.3の回答phjさんの回答で「そうなのか」と思うことが多いのですが、ちょっと違うんじゃないというようなことがありましたら、よろしくお教えください。 虫の良いお願いで済みませんが、よろしくお願いいたします。
- phj
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まず、使用人というものであっても、都市部にある商家と農村部にある庄屋などでは、少し扱いが違ったはずです。 )中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの事情で住み込みで働くようになるのでしょうか。 特に家督相続に加われない次男・三男は都会に出て、商家や千石船などで働き、暖簾を分けてもらって独立することを目指しました。これは江戸時代にはそのような方法が出来上がっており、そのために男の子には読み書きそろばんを特に念入りに仕込んだようです。読み書きができないと、商家に入っても番頭になれず、船に乗っても船頭(船長)になれない、と言われていました。 明治期以降はこれに軍人になることが加わるのですが、いずれにしても家督相続できない次男以降は、そのようにして都会の商家に住み込みで働くようになっていたようです。 地方の農家、豪農ではそういう意味での住み込み小作人はあまり多くなかったのではないでしょうか。もちろん、小作人が雇い主の家の敷地内に住み、小作に従事することはあったでしょうが、その場合、家作に住まわせ、小作人の取り分からさらに家賃分を吸い上げる、というようなこともあったと思います。 その代わり、小作人は結婚することは自由でした。 2)どういった仲介などの方法があったのでしょうか。 農家の場合は、基本的には近隣の仲介人ぐらいでしょう。商家の場合は女郎の女衒のように、地方を歩いて口減らしの子供を買い取って、都会の商家に売るようなこともあったと思います。 「おしん」というドラマがありましたが、あれも農村部から中間都市部にある商家(材木店)が最初の奉公先になっています。 3)住み込み使用人を求める側は、住み込み使用人が欲しいことをどのようにしてアピールし、実現させたのでしょうか。 基本的には仲介人が「使用人の御用はありませんか」と御用聞きをしていたでしょう。逆に「来年には子供を奉公に出したいのだけれど」と、貧しい家から数年後の奉公先を探す依頼もうけていたはずです。これらの情報を組み合わせることで、双方が満足する形で仲介するのがいい仲介人であったでしょう。 4)住み込みで働くとき、藪入りのような形で里帰りするのだろうと思うのですが、例えば5人の住み込みを使用している主家では、全員がいなくなってしまうようなこともあったのでしょうか。日程をずらすのが普通でしょうか。ほとんど主家に住み込んだまま、時々休暇で私用をたすような人も多かったのでしょうか。 薮入りは基本的に全員帰ります。仕事もすべて止まりますから、現実的に居る必要はほとんどありません。その代わり、その家に自分の親類が集まることになります。身寄りのない奉公人は、主家に留まる事もあったようですが、よい主家であれば、多少の小遣いを与えて、近隣の寺社仏閣にお参りや見物に出かけられるようにしていたようです。 5)住み込みで働いていた人が100人いた場合、何人くらいが結婚したのでしょうか。住み込ん後ではもう結婚しないで一生を終えた人はどのくらいいたのでしょうか。 (感覚的な割合で結構です) これも農家と商家では違いますし、また都市の規模などによってもかなり違うでしょう。重要なのは、この時代、女性よりも男性が常に人口として多く、また都市部は男性のほうが多い状態でしたから、都市部のいる男性が結婚することは難しかった、ということです。 逆に農村部の小作農は結婚する割合が高かったはずです。農業の場合、女性もかなり重要な生産者の一人ですから、夫婦で畑を耕すことが一般的だったはずだからです。 農家の場合、農業の作業に耐えられない体力の低いもの、または庭師や大工などの特殊な技量をもつものは、住み込みとして働いて、嫁をもらうことがあれば、主家の敷地内か近隣に住宅を建てて主家に通うとうのが一般的だったと思います。 都市の商家の場合、のれんわけもされず結婚も出来なければ、部屋住みで一生を終えるものもいたはずです。 6)住み込みを辞めるということもあると思います。結婚してしまうから。通いに変更するから。単に使用人であることができなくなったから。死んでしまった。 住み込みの主家で一生を終えるというケースはどの程度あったのでしょうか。 分かりませんが、江戸時代の江戸(東京)は男10人に適齢期の女性一人ぐらいの割合だったそうです。ですの、都市部は総じてかなりの人数が部屋住みで一生を終えたのではないか、と思います。もちろん長屋のようなところに住んだものも多いでしょう。 7)住み込み使用人が事故、疾病、老齢などで死んでしまった場合、主家は葬儀や遺体にどの程度関与したのでしょう。【住み込み使用人に実家や身寄りで遺体引き取りをしそうな類縁がいないケースの場合で、どうだったのか】 主家はどう扱うことが多かったのか。 葬儀、埋葬や墓はどうしたのか。 基本的には主家が葬式をだしたはずです。特に明治期以降は火葬になりますので、腐乱する前に荼毘に附し、遺族が居ればお骨を渡す形式だったでしょう。 それでも身寄りのない場合は、付き合いのあるお寺に無縁仏として永代供養料を払って引きってもらったでしょう。うちの場合、明治期に先祖が家業をやっており、身寄りのない何人かはうち(主家)の墓に一緒に埋葬されたようです。実際にお墓の過去帳にまったく関係ない名前の方が何人か載っています。 さて、上記の内容は主に男性の場合です。女性の場合はまた少し違います。 女性であっても農村で口減らしのために、都会の商家に奉公に出されるのは同じです。しかし女性の場合は女衒によって、女郎として買われていく場合もあったわけです。その違いはどこにあるのか分かりませんが、たぶんに親の困窮度合いによって変わったのではないでしょうか、女郎になるほうが明らかに支払額は多かったはずだからです。 これらによって商家に奉公することになった女性たちは、女中として住み込みで働きます。先ほど書いたように、女性の数が男性より少ないですから、お見合いをすればほぼすべての女性が嫁として嫁いでいったはずです。しかし、様々な問題から嫁に行けない場合は、女中頭のように残り、一生をそこで終えるか、一定の年齢で故郷に帰ったことでしょう。 農村部の場合、主家に奉公するのはそもそもが「嫁入りのためのしつけ」です。農村の主家、豪農とか庄屋というのは、集落の行政的な役割も持っていましたので、主人が近隣の発展のために奉公している娘の家柄や家系などを元に、近隣の家に「○○を嫁にもらってはどうだい」とお見合いをさせていたものです。 これにより、女性はほぼ嫁に行き、小作の娘は小作人に、自前の田んぼを持つ家の娘なら同等のところに、そして近隣の集落との関係性で近隣に嫁がせることもあったでしょう。 女性の場合は、いずれにしても一旦奉公してから嫁に行き、子供を生む、というのが自然の流れだったはずです。 ・主家の事情 戦前から大きなお屋敷をもつような家だと、戦前までは「奉公人・使用人を一杯かかえ、入ってくる富を近隣に分配するのが努め」だったそうです。 つまり近代的な富の再分配システム(社会保障など)が整っていない時代では、豪農などは儲けた分を、奉公人などを通じて近隣社会に再分配していたようです。 そのため、庭であれば庭師を一杯抱えられるほうがよく、建物であれば使用人総出で雨戸を空け、廊下を拭き掃除するほうがよかったそうです。つまり、建物や庭の工夫で仕事を作り出していた、という部分もある、ということです。 都市部の商家であっても、同様な考えが根付いていました。農村部で食えなくなれば、すぐに都市部にあぶれ者がやってきて、都市部で仕事につけないとなると都市部の治安が悪くなり、そうなると商家は強盗に襲われる危険が出てくるからです。 なるべく仕事を作って、みんなが最低でも生活ができるようにしていく、というのが大店の主人の心得であり、それは奉公人だけでなく出入りの職人などの生活も見ていく、ということだったようです。 これらに呼応するかのように、火付け盗賊改め方の長谷川平蔵は、人足寄せ場を作って手に職がつけられるように教育をしていきます。これが江戸時代のことですから、明治期であってもほぼ同様な心構えがあったと思います。 この主従関係が壊れるようになったのは、近代的な工場生産による労働者が増えたことと、啓蒙主義的な社会主義・共産主義が出来て主をブルジョワジー、従をプロレタリアート、と区別して敵対的な関係性を持たせた時期からでしょう。 すべての主人が素晴らしかったわけではありませんが、それなりの心構えの主家も昔は多かったのだと思います。
補足
都合で閲覧しておらず、今、読ませていただきました。 失礼いたしました。 回答をいただきありがとうございます。 『うちの場合、明治期に先祖が家業をやっており、身寄りのない何人かはうち(主家)の墓に一緒に埋葬されたようです。実際にお墓の過去帳にまったく関係ない名前の方が何人か載っています。』とくに、ありがとうございます。なるほど、そうなのですか。 墓地によっては、その家の墓域の中に、数基のその家の方々の墓石ともに無縁一切精霊という墓銘の墓石があることもあるので、それもそのような住み込み使用人のためのものかもしれませんね。 『戦前から大きなお屋敷をもつような家だと、戦前までは「奉公人・使用人を一杯かかえ、入ってくる富を近隣に分配するのが努め」だったそうです。つまり近代的な富の再分配システム(社会保障など)が整っていない時代では、豪農などは儲けた分を、奉公人などを通じて近隣社会に再分配していたようです。』 ああ、それはよくわかります。商家でも、農家でも、あるいはそれなりの規模の家を持っている方の家で、見学できるような所では、使用人の部屋があり、説明を伺うと、狭い部屋に何人かが寝起きしていたようなので、(主家で人手が必要であること)+(使用人を抱えていることそのものがステータスとしての重要な要素)と考えると、わかるような気がします。 社会の経済成長率が高くない場合、人口がそう増加できないし、のれん分けや分家の余地はそれほどはないので、生まれた子どもで15才まで育ったものが全て結婚し子どもをつくったのでは、社会が破綻してしまいます。ある程度の人数は、未婚で部屋住みとか下働きの用人や下男下女、仕事し・職人として一生を過ごさざるを得ないし、そうした人々を受け入れる経済力のある家では、こうした人を住まわせたり、食客にも寛容な態度だったのでしょうね。 そうした人生を歩んだ方の総数は、人口全体の中では多くはなかったのでしょうけれども、大きな家ではそうした人を受け入れて、家の格を保つし、住み込みで働く人も衣食住を得られるという状態だったのでしょう。確かに社会の安定化の一翼を担っていたのかもしれません。 ありがとうございました。
補足・・・あぁ・・・ 昔の書物とかに書いてある内容とは 疑問点がちょっと違うんですね・・・ >そうしたやり方で独立させて世帯を持たせる例がそれほどあるとは想像出来ないのです 今で言う、チェーン店、支店、と考えてみると良いかと。 住み込みの使用人の給与自体が現代の感覚とは全く違いますし・・ 丁稚奉公の場合、家族に始めに代金が支払われ、本人には給与はありませんから。 給与としては無いけれど、最低限の衣食住の保証はされている。 ここらへんまでは、古い小説やらドラマでは多いですね。 昔のドラマで「あかんたれ」とか、よく見てました。 >住み込み運転手などは高齢で運転に不向きになったらどうしていたのでしょう。 >執事、農作業や諸事一般の労務をしていた人はどうしたのでしょう。 住み込みの「丁稚」の間は給与はありませんが 有る程度の役職を貰えると、給与が貰えるようになります (能力次第・・ですね) 最低限の衣食住が保証されて給与が貰えるとなると ここからようやく家族へ仕送りができるようになりますよね (家族が居る場合) 仕送りを続けていた家族が居る場合には 老後、家族が引き取る場合もあります。 身寄りが無い場合は、雇い主が面倒をみます・・・が 現代ほど医学は発達していません。 長年使えてくれた使用人だからといって、医者にかからせるとは限りません。 現代ほど寿命も長くはありません。 仕事ができなくなった、住み込みの使用人が どんな老後を送ったか・・・ こういった悲惨な背景は・・・書物に書かれることはあまりありませんよね。 だいたい、使用人の生活する部屋自体 一部屋に複数人が同居するわけで、プライバシーも何もありませんしね。 >主家のコスト負担は 現代の感覚でのコスト・・とはかけ離れると思いますよ。 通いにさせる使用人というのは かなり出世した人、それなりに利益をもたらす人だけです。 女性の使用人は、花嫁修業(お手伝いさん就業)をさせ できるだけ裕福な相手に嫁がせる その嫁が役に立てば立つほど、相手からは感謝され ステイタスにもなっていく あそこの使用人を嫁に貰えば黙ってどんな仕事でも耐えて便利・・・と 男性の使用人は、いかに仕事を覚えさせ 利益を出せるように教育するか? 支店を増やし、政略結婚で嫁を取らせる 現代よりは、社員教育はかなり、そうとう、厳しいものですが・・・ 支店を出せるまでにならなかった者は・・・ 悲惨な最期が待っているだけ・・・ 世界観も、人生観も、金銭感覚も 何もかもが現代とは違いますね。異次元?ってくらいに・・・ あまり参考にならなくてすみません。
補足
重ねて、素早いご回答をいただき、ありがとうございます。 住み込みの使用人に懸かるコストは少ないのはわかります。給料・奉公賃が金額にすればたいしたものではないこともわかります。 そうすると、住み込み使用人側からすると「これで住み込みはおしまい」というときに主家からそれなりの金銭をもらえたとしても、とてもその後の生計が成り立ちません。お役御免の状態ですから、イイ条件で仕事を見つけられることは希です。家賃支払にも事欠く状態でしょう。 のれん別けをしてもらえるようならその後の稼ぎも期待できますが、そういう恵まれた状況になる住み込み使用人は少ないでしょう。 嫁に出されてもらわれていける人も10人中何人いるでしょう。 経済的に自立できている人は良いところから嫁をもらうでしょう。 40歳過ぎた住み込み使用人の女性が嫁げる先は限られているでしょう。 40才過ぎまで住み込み使用人でいた男は健康ならたぶん50才過ぎまで住み込みを続けているでしょう。 そうすると、多くの住み込み使用人は、類縁、田舎の親戚などで養子の口とか、捨て扶持で労働力として働かせてもらえる口とかがないと、住み込み使用人を辞めては行き先がなくなるように思えます。 では、そうしたときに主家では、住み込み使用人が老齢化した、怪我した、病気になった、死んだという場合、どのようにしていたのでしょうか。 人数はわかりませんが、大きな家では、それなり人数の住み込み使用人がいたような感じを持っています。 住み込み使用人を2,3人以上常時使っていた家も、結構あったでしょう。 世帯数 1920年 1,122万世帯、1930年 1,271万世帯、、1940年 1,434万世帯、 仮に5000世帯に1軒が大きな家で数人の住み込み使用人を抱えているとしても、結構多くの家で住み込み使用人の人生の後半を見ていることになると思います。500軒に1軒ならばもっとすごくなります。村や町に数軒は数人の住み込み使用人を抱えている家はあったのだろうと思います。 身寄りや引き取り手のない年取った住み込み使用人の扱い、死んでしまった使用人の葬儀や墓などは、どうしていたのでしょう。
これだけの質問に、全部回答するには・・・ あまりに長くなり過ぎると思います。 昔の様々な書物を読んでみるほうが、いろいろ分かると思いますよ。 住み込み・・と一口に言っても 雇う側が、面倒見の良い人であるか、そうでないか かなり違います。 結婚という観点に於いても、現代とは全く違います。 自分の好きな人と自由にお付き合いするとか 付き合ってみて、合わないからやめるとか 昔はそんな自由はありません。 住み込み(丁稚奉公)に出る時点で 家族の生活が苦しいからであり、身売りしたも同然ですから 結婚相手も、雇い主が探し雇い主が決めたことに逆らうことはできません。 一度も会ったことも、話をしたことも無い人との結婚は当たり前 雇い主にとっては 自分の所の使用人を どれだけ良い縁談にまとめたか それもステータスとなりますし 政略結婚など、当たり前でもありました。 現代の雇用関係とは、全く異なるもので 使用人=持ち物、的な感覚ですからね。 昔の書物 または、御両親の話 御両親が祖父母から聞かされた話等 聞いてみるのも良いと思いますよ。
補足
早速のコメントありがとうございます。 妻及び両親に聞いても不明でした。昔の結婚の多くが両親や親戚、関係者あるいは世話役などの計らいによるものであることは知っています。数年間程度の短い期間昭和30年代に住み込んでいただいたお手伝いさんは私の家から嫁に出したような面も若干はありました。ただそれはただ1例ですし、何人もの使用人を継続してそれぞれの役目で使っている家ではないし、時代も違います。また、今回の質問は、行儀見習いなどで奉公にでるというのではなくて、それこそ使用人ですが、通いではなくて、自分の独立した住居は持たず、主家の一室あるいは別棟などに住み込んでいる状態の人です。下男、下女、下僕、下働き、召使い、女中、、よくわかりませんが、そんな感じです。住み込み運転手などは高齢で運転に不向きになったらどうしていたのでしょう。執事、農作業や諸事一般の労務をしていた人はどうしたのでしょう。 ある魚屋に聞いたところ、若い衆の多くは店を持たせてもらって別の場所で開業したそうなのです(5軒ほど似た屋号の魚屋になっています)。和菓子屋にもそうした例があります。ただ、そうしたやり方で独立させて世帯を持たせる例がそれほどあるとは想像出来ないのです。通い職人にして世帯を持たせるのもあると思いますが、それでも主家のコスト負担は、通いに変えると給金も増加してしまいます。 どうも、ああそうなのかと納得できるイメージが浮かばないので、ご存じの例を教えていただけると幸いです。
お礼
小泉和子『女中のいた昭和』とても良かったです。 とても参考になりました。 ありがとうございました。
補足
ありがとうございます。 「家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。」 とてもよくわかります。 そうだろうと思います。 住み込み使用人が女であるのはとてもよくわかります。 ただ、どうも一部の大きな家では男もいたらしいので、合わせて質問させていただきました。 「当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられます。」 これもよくわかります。 どのくらいの比率かわからないのですが、若くして女中になり、数年で結婚していくケースは相当にあったと思います。 ただ、小説などでは「婆や」のようなもう若くない使用人も登場するので、30歳以降の女中さんもある程度いたのだろうと思います。 その場合は、30過ぎで結婚して辞めていくのはそう多くはなくて、ずーっといることも多かったろうと思います。 斡旋所(桂庵)などの利用はなかったのではないかと、質問したときには思っていたのですが、今は、「いや、当時は、大きなお屋敷や町家、高給取りの家に斡旋する人がいたはずだ。それはその斡旋人が活動する地域での役目の上でも疎かにはできない案件となり、確実な神撫とを厳選して送り、斡旋人の面子が傷つくような人物は送り込まなかったハズだ」と思うようになってます。 「大家族制で、未婚の弟妹が同居しているのが普通でした。女中が里帰りしていても、家事に差し支えることは少なかったのではないでしょうか。」 確かに数日であれば、そうですね。ただ、同時期に一斉に返すというのではなくて、時期は主家の都合や、使用人の親族の問題があったときとかになっていたのかもしれません。 小泉和子『女中のいた昭和』知りませんでした。 読んでみようと思います。 ご紹介ありがとうございます。