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表に出てこない歴史
私たちの今は、長い先人の歴史の上にあるのだと考えています。その歴史は当然、光と影で成り立っています。教科書では主として光の部分あるいはそれに近い支配層の足跡を教えています。庶民の足跡をアップさせてこそバランスのとれた歴史認識ではないでしょうか?皆様の郷土に伝わる先人のご苦労を教えてください。キレイゴトでない事実にこそ私たちの土台があると考えます。よろしくお願い致します。
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質問者様には失礼かと存じますが、「庶民の歴史」を学校教材(教科書)に採り入れようとして、戦後の歴史学および歴史教育がどれほどの工夫を凝らしまた尽力してきたかをご存知でしょうか?。その象徴的存在が家永三郎氏による「教科書検定訴訟」や80年代に頻発した「教科書問題」です。 実際に「記述」に関しては、訴訟記録をはじめ様々な資料がありますので、それらをご覧になればお分かりになることと存じます。 しかし「庶民の足跡をアップさせてこそバランスのとれた歴史認識ではないでしょうか」、このご指摘には少しばかり違和感もおぼえます。確かに「歴史研究」の領域では在郷や地下のあり様を史料から丹念に炙り出す作業が続けられていて、それらは論文や発表によって専門の学会で新たな史料の提示や知見として提起されています。 けれども悲しいかな、日本では一般の歴史認識がそこまでのレベルに至っていないことが一つの障壁として立ちはだかってもいます。 書店の店頭にいけば、そこには多大な種類の「歴史本」が平積みされています。しかし何れも学術レベルからすれば、ゴミ同然です。英雄物語などはその典型でもある。戦史で日本の歴史を語るなら、中綴パンフレットでも十分すぎるほどです。その事象だけを年表式に羅列するだけですむことですから。こんなものは1945年以前の「国史教科書」と称するマンガと同じレベルでしかありません。天皇に逆らったヤツは逆賊だ!などとして、足利尊氏や足利義満を悪者として描く一方でアナクロの権化のような後醍醐を聖人君子の様に扱ったり、歴史といえば「聖徳太子」と称する人物の逸話やクーデターである乙已の変を天誅として記述したり、楠木正成を忠臣として讃えるなど、およそ「歴史」とはかけ離れた「物語の世界」でしかありません。 因みに、高校レベルですと授業の中で埼玉県ならば「秩父事件」に関して「井上伝蔵」の名が出てきたり、殆どの教科書には江戸末期そして幕末維新期の項目に「佐倉惣五郎」や「惣百姓一揆」「相良総三」草奔隊」などの歴史用語をみることもできます。 なお、「荘園」を理解できないのであれば、中世を理解することなど到底不可能であることも書き添えさせていただきます。
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- kamobedanjoh
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鳥取県米子市と境港市を結ぶ「鬼太郎列車」のJR境線。 山陰で最初に敷かれたレールです。明治の昔の話しです。 米子の豪商[後藤家]の当時の当主(下の名前,忘れました)の尽力と私財の投入で,鉄道を敷設しました。境港に陸揚げされた資材や鮮魚が,米子市まで輸送され,地域経済の発展にと民生に大きく寄与しました。後に鉄道は国有化され,境港は軍港を兼ねた主要港湾となり,境線は軍用物資の輸送路とも成りました。 境線に続いて伯備線(米子・岡山間)が開通,山陰本線の開通はかなり後のことになります。 境線は今でも通学・通勤の欠かせない交通路の役割を果たしています。 国鉄米子駅は民営化されるまでは米子鉄道管理局が置かれ,山陰地方交通の拠点でした。 また,境線後藤駅(後藤氏の名に由来)には米子機関区が置かれていました。 関ヶ原後,鳥取藩支藩としての米子城主中村氏は,米子城を完成させると共に,米子の町並みの現在に残る骨格を作りました。また,弓ヶ浜半島の開拓に努め,現在の境港市発展の基礎を築きました。『夜逃げするなら米子へ逃げろ』と言われたほどに,山陰の商業拠点ともなりました。 現米子空港(鬼太郎空港)は,元海軍美保基地,後,朝鮮戦争の米軍基地として拡張され,境港と共に国連軍の重要拠点とされました。米軍基地は返還され,自衛隊航空基地と民間機共同使用での,山陰最初の民航路線の役割を果たしました。 鳥取大学医学部付属病院は,元々米子医大として開校され,山陰の拠点病院として業績を果たしてきました。ついでに,江戸の儒学者 新井白石 も米子の出身です。 鳥取県の首府が鳥取市とされたのは,維新の志士を輩出した功績によるもの,お隣の松江藩は,親藩大名であった為,島根県の名が与えられ首府は松江市となりました。 こう見てくると,米子市の発展は,単に地理的条件に止まらず,中村氏・後藤氏の郷土に残した業績が教科書に載ることはないとしても,筆舌に尽くせない多大なものと思います。 加えて,孔版画(謄写版)多色刷りの創始者,南部町の板佑生氏の文化活動も見落とせません。
お礼
鳥取県の先人のご苦労が目に浮かびます。新井白石が米子出身であることも勉強になりました。詳細な御教示に感謝致します。ありがとうございました。
- shirouuda
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題「民衆の一人である私の個人的教科書史」 子供の頃、教科書はつまらなかった。英雄達の活躍がほとんど記載されていないのだ。特に戦史。関ヶ原の戦いという、重大な戦いが、「徳川家康の東軍が石田三成の西軍に勝ちました。」としか書いていない。小早川の裏切りは?島津の敵中突破は?。関ヶ原だけでは無くて、どの戦いも一行レベル。戦史は細かいことなど載せないのだ。 それに比して、制度史の説明は長くてよくわからない。荘園制度については国語力学年1位だった私にもよくわからない。先生もテストに出さないし。太閤検地の周辺についても、よくわかるのは刀狩りだけ。 しかし、産業の発展や民衆のくらしなど、子供にはつまらない事ばかり長い。そしていつも「民衆のくらしは貧しくなりました。」を繰り返す。そりゃおかしい。仮に年1%、貧しくなっていったら、100年で全滅するではないか。 大人になって、「教科書に、日本の偉人の話は無い。杉原千畝は載ってない。」などとウヨが書いた文を見る。実際に中学生の息子の教科書を見る、最も左寄りとされる大阪書籍に、杉原千畝はちゃんと載っている。徳川吉宗や松平定信より面積が広い。 結論。教科書は正しく読まれていない。不思議だ。
お礼
よく勉強しておられる内容から、歴史教育の疑問まで参考になります。私も歴史を知ることの重要さが少しだけ感じるようになったのは40歳近くになってからです。アメリカの軍隊での新兵教育の最重要な科目が歴史だそうです。御紹介頂いた内容を勉強して自身の肥やしとします。有難うございました。
お礼
軽薄でした。勉強し直します。例えば、私が住んでいます京都で申しますと、先輩から真偽は別としまして、「有名寺院の裏が刑場となっていて周辺の一角は死体の曝し場となっていた」などの話を聞くと「観光都市」だけでの把握の仕方に頭を傾げたくなります。当時の現実がどうであったのか、証明しようもないのでしょうが生きた人々の苦労を感じたかったのです。知識薄弱の私に正面から御回答頂きかつ指摘して頂いた御姿勢に恐縮し、加えて感謝申し上げます。「本当のところはどうなのか?」が常に頭にあって「ウソだらけの社会」を見るクセが私にはあります。先生のご指摘を肝に銘じてこれからも勉強します。ありがとうございました。