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存在しない「努力」という言葉を使ってあたかも
- 「努力」という言葉の使用について、脳科学者による発言があります。しかし、人間の行動は脳の物質的な反応によって制御されているため、努力という言葉が存在しないという考え方は疑問です。
- 個人的な見解として、努力という言葉の使用は無責任であり、馬鹿げていると感じています。
- このような心理や発言の背景には、自尊心や時代劇ドラマの影響も考えられます。しかし、それは努力が不足しているからという単純な論理では説明できない問題です。
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ガマンして生きているということです。 自分がやりたくないことをやる=努力 と考えているから、それを押しつけるのです。 要は嫉妬です。 なんの努力もしていない(ようにみえる)人がしあわせになるのが許せないのです。 実際は陰で努力しているんですけどね。 まぁ、本人も努力とは思っていないでしょうが。 努力の方向を間違えているんです。 気の毒な人です。
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- jhonxx
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努力することは大切です。 脳は物質からできており、努力は人間の行動態様を示す抽象概念であり、両者はまったく別のものです。努力は人間の意識が生み出した概念であり、脳の構造を研究することと、「努力」という言葉を使うことは、まったく別のことです。脳科学者も、いつも努力の大切さを感じているのでしょう。 人間の能力差や意欲の違いが、脳細胞の構造とどのように関係しているのかは、興味深い点です。 ちなみに、 本当に努力する人は、「自分は十分に努力した」とは言わないでしょう。本当に努力する人は、いつも、「自分は努力が足りない」と思っています。 本当に努力する人は、誰でも努力すれば何でもできるとは思わないでしょう。「頑張れば必ずできる」これはウソです。誰でもイチローのような野球選手にはなれません。しかし、本当に努力した者だけが、「どんなに努力してもできないことがある」ことがわかります。努力しても失敗することがあります。しかし、たとえ失敗しても努力したことは無駄ではなく、それは別の場面で役に立ちます。プロのサッカー選手になるために本当に努力した人は、たとえJリーグに入れなくても、その頑張りは他の分野で使えます。人を雇用する立場でいえば、「ひとつのことに努力した人間」の資質を評価します。 本当に努力する人は、人間の能力の違いを痛感します。イチローは、常に自分の能力と努力の足りないことを感じているでしょう。イチローに、清原のような体格、筋肉、パワーがあれば、ホームランを量産できたことでしょう。常に上をめざす人は、「能力や努力がこれで十分」ということはないでしょう。 人間に生物としての個体差がある以上、能力と努力の差があるのは当たり前です。人間の個体差(能力差)を認めることが、努力の出発点です。意欲のある人は、人間の能力差を認めたとしても、「それが何だというのか。関係ない」と思います。 自分に能力があるはずだと幻想を持つ人、自分の能力の欠如を認めたくない人、人間の能力差を認めない人は、本当に努力しないものです。
お礼
>本当に努力する人は、「自分は十分に努力した」とは言わないでしょう。> そうですよね! >本当に努力する人は、誰でも努力すれば何でもできるとは思わないでしょう。> その通りだ! >意欲のある人は、人間の能力差を認めたとしても、「それが何だというのか。関係ない」と思います。> そうなんですよ。そういう事だと自分も思っています。 >自分に能力があるはずだと幻想を持つ人、自分の能力の欠如を認めたくない人、人間の能力差を認めない人は、本当に努力しないものです。> まったくです。 しかし『努力』という言葉以外でなんとか表現できないものだろうか?と自分は思うんですよ。仰る通りなのですが文章に『努力』の文字が躍ってしまうのは『努力』を何かしら認めているところがあると思うんですよ。認めたら終わりだと自分は思うんです。だから言葉変えません? 「変化」というが良いと最近思っているのですが・・・
人間って東大教授もホームレスも脳科学者もタクシーのうんちゃんもつくりは一緒です。基本的な能力もさほど変わりません。これは動かせない真理であり、そのことに気づいている貴方はその点では抜けて立派です。その事実は私も認めます。 それとは別次元の話ですが 私は、努力 という言葉は、考えようによっては使える、と思っています。実質のある言葉だとも思っています。 言葉そのものがすべてにわたって空虚であるという考えもありますが、それをまじめに信じたら、人間社会は即座に崩壊してしまいます。これは「開いた口がふさがらない」程度の問題ではなく、極めて恐ろしい、深刻な問題なのです。 願わくば 貴方も努力して「努力」という言葉に一片の実質的な内容物を見つけられますように。
補足
>人間って東大教授もホームレスも脳科学者もタクシーのうんちゃんもつくりは一緒です。基本的な能力もさほど変わりません。これは動かせない真理であり、そのことに気づいている貴方はその点では抜けて立派です。> 当たっているでしょう。私が質問を立てた時点の心理をまともに分析なさっている >その事実は私も認めます> ということは間違えていないと? >それとは別次元の話ですが私は、努力 という言葉は、考えようによっては使える、と思っています。実質のある言葉だとも思っています。> まあ、ねTPOプラスその人の脳の状態によっては使ってプラスになる場合もあるかと思いますが、今の社会・・・いや私みたいな人からすると非常にわずらわしいと言いますかゴウマニズムという感覚がしてムカつきますね >言葉そのものがすべてにわたって空虚であるという考えもありますが、それをまじめに信じたら、人間社会は即座に崩壊してしまいます。> まさにその通りですよ。使い方によっては危険なのが言葉というものです。まあ言い方や雰囲気人柄等によっては悪くない風に事が旨く行くと言う場合もあるでしょう。
脳科学って神経科学の俗称です。その神経科学は、たとえば医療では神経内科の基礎の一つとなっています。そして、神経科学は列挙するのが嫌になるくらい多数の分野がある学術分野の総称です。そして対象は人間だけではありません。 それでも、心理学などは覆いきれません。むしろ、ほんの一部しか重ならない。神経内科では重要でも、精神科(や心療内科)では、関連性は相対的にずっと小さいのです。 おおむねなことを言えば、脳を含む神経全般を器質的に調べるのが神経科学(脳科学)です。心理、感情、知性等の精神作用といったことについては、周辺的な分野でしかない。 神経科学(脳科学)は、たとえば神経の器質的な治療をする神経内科での臨床で役に立つことなどを目指しているのです。脳なら、先天性や化学物質、怪我などによる脳の器質的なダメージと障害の関係の解明や、その回復方法などですね。しかし、患者がリハビリを自発的に頑張るための方法は研究対象ではありません。 もしかすると、『脳科学』という呼称から、人間の脳のハードウエアとソフトウエア全てを知り尽くしている、少なくとも、全てを調べようとしていると誤解されておられるのでしょうか。 そんなことは全くないです。それは、たとえば物理学が物質と空間を素粒子から宇宙全体まで、ことごとく調べようとしているからと言って、物理学者が「夜空は美しい」「このリンゴの赤色は鮮やかだ」などと言うのがおかしくないのと同じようなことです。 努力するかしないか、努力が不足かやり過ぎか、といったことは、脳科学(神経科学)では決められないし、分からないのです。そんなことの解明まで求められても、脳科学に携わる人は困ってしまうでしょう。 そうしたことを対象外であり、調べたこともないのですから。せいぜい、どういう努力しているときに、脳のどこが活性化するかくらいなら調べるかもしれませんが。
補足
>そんなことは全くないです。それは、たとえば物理学が物質と空間を素粒子から宇宙全体まで、ことごとく調べようとしているからと言って、物理学者が「夜空は美しい」「このリンゴの赤色は鮮やかだ」などと言うのがおかしくないのと同じようなことです。> そんな事わかっとるわ。そんな事聞いてるんじゃないんですよ。それは認めた上での話ですよ。 >努力するかしないか、努力が不足かやり過ぎか、といったことは、脳科学(神経科学)では決められないし、分からないのです。> でしょ?なら脳科学者が『努力』という言葉を使って自尊心押し付けられたくないですよ。視聴したこっちが腹立つわ! >そんなことの解明まで求められても、脳科学に携わる人は困ってしまうでしょう> ならなおさら『努力』という言葉で人に圧力をかけてる権利はないですよね?! 「努力しろ!」と威圧的に言う人の裏の心理に「お前は努力してない」という意味が込められている事を言葉に出来ないけど何となくそのような言い方を受ければ「なんだてめー!」と言い返したくなってきますよ。
- williumblake
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何も変ではありません。 冷静に考えましょう。 科学は社会にある事象や概念の細部を解き明かすことを目的としたものであって、その解析結果がどうであろうと、基となる事象や概念が変化し動くわけではないのです。 努力とは、社会通念上広く使われる「概念」です。 脳科学とは関係ありません。 あなたの「名前」という「概念」が脳科学とは関係ないように、努力も脳科学とは関係ありません。 「木を見て森を見ず」の状態になることは、学問を志す者としては失格です。 相手を批判したいなら、理論的にわかりやすく語れるように、問題点を分析する能力や分かりやすい表現方法をよく考えましょう。 昔、人間の思考や感情は全て脳内の電気信号に過ぎないと学者が言ったら、後日殺人を犯した学生がいて、その理由が、 「電気信号でしかない人間なんて殺しても良いと思った」だったという笑えない話があります。 彼と同レベルの話をしないでください。
補足
その論点がズレていると言いますか・・・別に批判がメインの目的ではないです。感情的には批判したい心情だと言うニアンスで質問させて頂いています。 さて、では『努力』を豪語する心理はどうなのか?という質問ですからまったく回答に書かれていない所をみると『努力』と人に言った事がある人でしょうか? >努力とは、社会通念上広く使われる「概念」です。 脳科学とは関係ありません。> だからその関係ない学者が発言していた訳ですから個人的には「おいおい脳科学者が何威張って『努力』とかほざいてんだ!?」と思ったという話です。だってそうでしょ?脳科学とは関係ないんでしょ?
そういうあなたに言いたいのは、「目に見える物が世の中の全てではないんじゃないか?」ということですね。 確かに、脳内物質は、目に見える物でしょうし、言葉も目に見える物でしょう。 だけど、それが全てではないんじゃないですか? 例えば、恋愛における「愛情」だって、目に見える物ではない。確かに、愛情を示すためにプレゼントをあげたり、言葉をかけたりしますが、それは、あくまで、愛情を目にみえる形に「変換」しただけの事であって、実際、愛情そのものって目に見える物じゃないと思う訳です。 努力にしても同じで、努力の末に、偉大な記録を残した人は何人もいますが、その偉大な記録だって、努力の結果が、目に見える成果に変換されたのであって、努力自体は、目に見えるものではないでしょう。 でも、それらは、本当に無いものなのでしょうか?愛情が実際有るからこそ結婚が成立する訳ですし、努力があるからこそ、成果が残る。そう考えれば、努力だって、やっぱり有るものだと思うのですよ。 そう考えるからこそ、世の中の目に見える物が全てではない。目に見えないものだって存在する、と、私は思います。
補足
いやそういう事を聞いてるんじゃなくて、『努力』と軽々しく言う人というのがどうにも腹立たしいといいますか・・・
お礼
非常に参考になりました。 >要は嫉妬です。 なんの努力もしていない(ようにみえる)人がしあわせになるのが許せないのです。> なるほど合点のいく内容です。『努力』を豪語する人中にそのような人が居るということですよね? 参考になりました。