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肯定の国
仮定の話です。創作中の童話のネタなんですが、ストーリー展開に詰まってしまいまして。 ナンタラ王国という国があり、カンタラという国王が統治しています。さて、慈悲深いカンタラ国王は、国民同士が傷つけあうことがない友愛に満ちた国作りのために、ある日次のような法令を制定・施行しました。 1.国民は他人の意見を批判したり否定したりしてはいけない。 2.他人の意見に賛同できない場合は何も言わず無視すること。 そこで質問です。このような法令が施行されたこの国は、この先どうなっていくでしょうか。 ちなみに、このナンタラ王国は立憲君主政体をとっており、一応憲法や法律がありますが、国民の言動を制約するものばかりで国王の権能を制約する条文はほとんどありません。この国には議会もありません。またさらには、カンタラ国王には超能力があり、国民の言葉や国民が語り合う家を消したり、国民そのものを消したりすることができます。これは、この国においては、「歴史」をその元となる痕跡自体からして消すことができることを意味します。 歴史をないがしろにする国がよい国になれるでしょうか。この国をよくしていくには、どうしたらいいでしょうか。いちおうその、童話ですんで、できればハッピーエンドにしたいんです。よろしくお願いします。 ※ この国は仮想の国であり、実在する国や組織とは一切関係ありません。
お礼
No.30 回答ペースが少し減速したため、2巡目に入ろうかと思っていた矢先です。しかも、2巡目の最初はkojoさんの御回答にと思っていました。本当に丁度よかった。 では、主要なところに入る前に「異国への旅立ち」編について。 これは念のためで、もしかしたら余計なことなのかもしれませんが、「異国へ旅立って新世界を」という趣旨の御回答を「王国内の異分子よ、文句があるなら出て行け」という意味には受け止めていません。事実、そうは読めませんでした。むしろ彼らを励ますような気持ちが感じられました。仮に「文句があるなら…」という気持ちで書かれた方がおられたとしても、作者としてはそうした意見が出されるであろうことは予測の内ですので、覚悟はできておりました。 ですから、並行して「異国への旅立ち」編も書きます。ただその、作者自身が「国の作り方」を知らなかったりしますので、大まかなプロットは出来ていても実際に書き上げるには時間がかかりそうです。 さて、では可愛らしい「小娘」さんの疑問について作者の考えを。これは物語内でもとても大事な要素になります。そっくりこのまま使わせていただきたいくらいです。 ただその…少し遠回りな話になります。「権力」の話から入ります。 endersgameさんやoni_ocさんの回答に「国王への手紙」という設定が盛られています。「カンタラ国王は、実は国民からの手紙で動いている」との。すると、こういうことが言えるのです。カンタラ国王という目に見える「権力者」と、彼が行使する「権力」とは分けて捉えることができる、と。「権力」は国王の外、国民を源としているからです。 ここで対比材料として一つ例を挙げます。ソヴィエト共産党による「ボリシュビキ化」です。「うっひゃ~」って、引かないでくださいね。そんなにややこしい話ではないですから。 手短に言うとですね、1924年にレーニンが死んでスターリンが後を継いだのち、フランスやイタリアなど各国共産党の「ソヴィエト出先機関化」が進んだことです。ソヴィエト共産党に対して批判的だったり、少しでも独自の立場をとろうとする党員をどんどん除名し、「自分の頭で考えないソヴィエトの言うなりになる人間」だけを残していった。これが「ボリシュビキ化」です。 この場合、「上から」積極的に働きかけて批判的精神を排除しているわけです。しかしこの事例は「対比材料」です。ナンタラ王国の設定とは事情が異なります。ですから、本当に「小娘」さんが言っているように、「国王の問題ではなく、国民の問題」なのです。その意味で、kojoさんの回答No.19は僕にとってのターニングポイントになったのです。 ナンタラ王国では、権力は「下から」生まれます。国王の「目」を内面化し、一人一人が自他を律するものとして。ここで言う「権力」というのは、pyonkotanさんと僕のやり取りの中で出てきた「許容範囲」「丸の大きさ」のことと考えていただいてけっこうです。すると、可愛らしい小娘さんが疑問を抱いた「絶対に自分は正しい」というのは、この「許容範囲」「丸の大きさ」を固定化し絶対化すること、と言い換えられるでしょう(「1+1=2だ、絶対正しい」とか、そういう正しさの問題ではありませんから)。この「丸の大きさ」に照らして国民は他人の言葉を評価し、時には「あの言葉は消すべきだ」「あの家は消すべきだ」という手紙を国王に送ることになります。 そういう国民に由来する力が国王を動かすわけですから、もちろんこれは必要なものです。不可欠のものです。が、だからこそ時々「反省」することも必要なのです(小娘さんが考える通り)。 要するに「固定化しないこと、絶対化しないこと」ではないでしょうか。自分の持つ「丸の大きさ」を自覚し、必要ならいつでも大きさを変えられるように準備しておくことです。たとえそれが、古き良き時代の「丸の大きさ」であったとしても。 ではそのためにどうすればよいか。自覚化するために。自分を知るために。 ゲーテの言葉に「他国語を知らぬ者は自国語をも知らぬ」というのがあります。語彙や文法が全然違う外国語に触れることで、逆に自分の言葉への理解が深まるということです。これを今の話に応用すると、「他人は自分の鏡」ってことになるでしょうか。 とりあえず「一歩退却すること」です。ある相手、ある言葉をみたときに、いったん「内と外を区切る線」を外すように努めてみて、それから「自分には相手がどう見えているか」を見つめる、そして次に「相手をそう見ている自分はどんな考えを持っているのか」という順に考える。例えばそんな仕方で、自分が持っている「丸の大きさ」とその構造は自覚できるのではないでしょうか。 ただ、作者としては、登場人物の誰かに上記のような考え方を国民全体に「教化」させようとは考えていません。「自然にそうなっていく」形にしたいです。 そのためには自他の相違を「表明できること」が大切なのです。「ちがい」のやり取りが他者を理解すること、自分を理解することには欠かせないのです。たとえそれが「対立」という姿をとったとしても、ぶつけ合い、許し合う過程を通さなければ自他の理解には至りません。対立のまま終わることも、時にはあるにしても。 ですから、カンタラ国王の「友愛の法」は、むろん深刻な罵りあいを避けたいという慈悲の心に発するものですが、それが拡大解釈されて一切の批判・否定を禁じるものにされたら(国民自身がそうしてしまうことも考えられるのです)、それは逆に国民の心を堅く閉じたものにしてしまいかねないと思うのです。形は違うものの、ソヴィエト共産党の「ボリシュビキ化」と同じ結果が生まれてしまうように思うのです。 …というのが、作者の考えなのですが、どうでしょう。(作者が登場人物に語りかけるというのも、ヘンな話ですね。) * それにしても、皆さんには大作・力作を寄せていただいて嬉しいかぎりです。質問者冥利に尽きるというものです。kojoさん、このNo.30の最初の段あたり、ちょっと涙腺がうるっとしました。ありがとうございました。