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生前香典の儀式、またはそれに準ずる儀式について。
時代劇の子連れ狼を見ていたら『生前香典の儀式』というのをやっていまして、それで気になったので質問します。 この儀式は、昔本当にやっていた儀式なのかという事と、似たような儀式(西洋、東洋問わない)はあるのかを知りたいです。 よろしくお願いします!
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『子連れ狼/生前香典の儀式』の内容自体を把握していませんので、 見当違いなら御容赦下さいm(_"_)m 「生前香典の儀式」を広い意味での「生前葬」と捉え、 あと『子連れ狼』の時代設定が明暦・万治・寛文期頃までとするなら、 当時、可能性の有り得たお話と言えるのではないでしょうか^^ キーワードは「逆修」。 逆修…生前に、自分の死後の冥福のために仏事をすること。 予修。逆善。逆修善。 「生前香典の儀式」までは定かではありませんが、 「逆修」については、下記論文などが参考になるかも知れません。 『大手前女子大学論集6/大手前大学・大手前短期大学/1972』(147-165頁) ◇「逆修信仰の史的研究/川勝政太郎」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110000046384 『印度學佛教學研究57(2)/日本印度学仏教学会/2009-03-20』(687-691頁) ◇「中世日本禅宗の逆修とその思想背景/伊藤良久」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007131119 逆修を歴史的にたどると、わが国では平安時代中期以来、 貴族の仏事として華やかに行われたが、 一方大衆を対象とする法界衆生逆修のあったことも無視できない。 鎌倉時代に入って、貴族の風習にならう武士層や名主層などの富裕階級が、 盛大な仏事よりも記念物的な逆修石塔などの造立に熱を加えて行ったが、 石塔の造立は死者の追善や法界衆生の平等利益などが中心であった。 南北朝時代に至ると、逆修塔はようやく数を増すが、 室町時代になると急に様相がかわって、 小石塔、小石仏の増加が庶民の手によって行われ、 その大部分が自身の逆修のための造立という状態になってくる。 民間庶民信仰的な色彩がこくなり、十王信仰、十三仏信仰、 月待信仰などと逆修信仰がむすばれて、 すべてが逆修に塗りつぶされるような錯覚をさえ抱かされる。 しかし、江戸時代はじめからおとろえて、 寛文ごろまでの実例を私は見ているが、 その後はほとんど終息したように思われる。 従って現代の多くの人たちは、私どもの祖先の信仰の歴史の中に、 逆修というものが、長い間行われていたことを知らない。 昔の人が逆修を行うことが盛んであったことは、 寺や僧との結びつきを強いものとし、 寺や僧も人々の生活に直結したのである。 寺が墓を守るものとなって行ったのと、逆修の歴史が終るのと、 時期を同じくすることは偶然ではないようである。 「逆修信仰の史的研究/川勝政太郎」七.結語より 以上少しでもヒントになれば幸いです^^
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>『生前香典の儀式』 これは、最近行われている「生前葬」をヒントにした呼び名だと考えます。つまり「架空の儀式」だと思います。 生前葬 昔はお葬式といえば、地域の共同体が中心となって自宅で行うものでした。しかし現在、ほとんどの方が病院で亡くなり、お葬式は葬儀社に委ねられます。 死の商業化・専門化が進んだ今、業者まかせのお葬式はお金がかかり、会計システムが不透明だと批判する人も増えています。お葬式が社会慣習化し、付き合いでお葬式に出席する人たちも少なくない状況で、本当に故人を悼むための儀式を求める人々もいます。また、仏式が主流のお葬式ですが、信者でもないのになぜ僧侶に読経を頼むのかと問う人たちもいます。このようにさまざまな疑問が噴出するなかで、手作りのお別れ会、無宗教の追悼式、質素なお葬式など、自分らしい心のこもった儀式を求める声が高まっています。そして、それらの人々と同様に、生前葬を希望する人も自分らしいお別れの儀式を行いたいと考える方が行っています。
お礼
みんなが見てるわけじゃないんだから『生前香典の儀式』が子連れ狼の中でどう扱われていたかちゃんと書いとくべきでしたね(汗) なんか、葬儀ではなく、簡単に言えばネクロマンシー的な儀式という事でした。 なんか、実際に在りそうだと思ったんですが架空の儀式でしたか。残念ですね……。 ありがとうございます。
お礼
『生前香典の儀式』が子連れ狼の中でどう扱われていたかちゃんと書いとくべきでしたね……(汗) 知りたかった事とは少し違いましたが、大変勉強になりました。ありがとうございます。