論語の解釈3択、どの解釈が正しいか?
『子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者』(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)
『論語』の有名な一文です。
「(学ぶことにおいて)そのことの知識があるということは、そのことを好きな人間にはかなわない。そのことを好きな人間は、そのことを楽しんでいる人間にはかなわない」という意味ですが、
これは
1.自分が楽しめる事をやろう
2.嫌な事や苦手な事も「楽しもう!」と意識しよう
3.まず幅広く知って好きを見つけて楽しめることを見つけよう
のどの解釈になりますか?
1と3は一見似てますが、
1は『元々自分が「やってて楽しい」と思える事に集中しよう』で
3は『『やってて楽しい事』が見つかってない人は、まず色んなものを知る事から始めよう。
そして、『やってて楽しい事』が既に見つかってる人も、自分の知らない可能性がまだまだあると思うから色んなものを知っていこう。』
と、ニュアンスが全然違います。
2は自分的には「違うな」と感じます。
確かに勉強や仕事が嫌い・苦手な人にとっては『やらなあかんけど嫌な事・苦手な事』に入り、受験勉強や昇給・キャリアアップをする為に『嫌な事や苦手な事も「楽しもう!」と意識しよう』とする事で段々勉強や仕事が楽しくなっていく、という理屈は分かります。
ただ、手段と目的逆転してませんか?
「無意味と感じる勉強、苦手と感じる仕事」を「私は勉強(仕事)好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ」と自分を洗脳させて取り組むのは、付け焼き刃的な感じで根本的解決には至っておらず、土台間違っていると感じます。
「あの仕事やりたい(大手入りたい)から、この大学に行きたい。その大学に受かる為に勉強していこう」「将来こういう事をしたいから、キャリアプランとして今はこういう仕事に取り組もう」と、『目的→手段』の流れだと自然と「勉強したい!」「仕事したい!」になると思います。
何故入社する為の面接があるのでしょうか?
私は、志望動機や面接での会話のやり取りから熱意を見ており、最初から「熱意が感じられない人」は入社後の様々な壁にぶつかってすぐ辞めてしまうと考えてるから、なのではと思います。
そもそも「嫌だな」「苦手だな」と感じる事は『自分に向いてない事』であり、向いてない事に一生懸命なっても芽が出るのに時間がかかりますし花が咲いても元々得意だった人には叶わないと感じます。だから、『向いてること=自分がやってて楽しめること』に集中した方が良いという1の説を取り、もし無ければ3の説を取るという考えです。
ただ、上記のように「将来こうなりたい」と明確な目標を持ってる人って多くないと思います。
今まで上記を書いてきた私ですら、幼小中高大やりたい事や将来の夢がコロコロ変わって、その度に手段という名の人生ゲームの台紙をコロコロ入れ換えて、周りはどんどんコマが進みゴールに近づく中、自分は1コマ2コマ進んだ台紙が10枚20枚あるだけで、全部中途半端でどこにも進めてない。「早く1つに決めないと」と焦っても、優柔不断で色んな事を考え過ぎて1つにバシッと決まらない。その上マルチタスクが苦手で要領も悪いから複数枚の台紙を同時並行に進めるのが難しい。そして気分屋で熱しやすく冷めやすい性格なので、熱が冷めた台紙を極めようとは思えない。それよりもアツアツな台紙に集中したいから。
そうやって目標をコロコロ変わっていくので、高校受験・大学受験の志望校決めは一苦労でした。志望校も学部も2,3ヶ月に1回単位で変わるし、その度に必要科目が変わっていくから全然進めず、結果高校受験・大学受験は両方失敗に終わりました。まぁそれだけが敗因では無く他にも敗因はあるのですが、この敗因は結構割合大きいよなと思います。受験勉強の過程でも「このままじゃ失敗する」のは分かってました。分かってたけど、どうしようも出来なかった。当時は何故か分からなかった。でも今は『自己(感情)コントロール能力(EQ)が低かったから』だと感じています。
話が脱線しました。すみません。
ただ、私のような人は多いのでは無いかと思います。将来やりたい事が無い(若しくは決まらない)から、潰しが効くよう何となく偏差値高い高校・大学を目指して、大学生になっても自己分析しても見つからないから何となく有名な企業を目指して、何となく仕事を卒なくこなしていく。そして30,40代になって「あれ?自分何やってんだ?」と気づく。これが10代20代の人もいれば50代60代、はたまた〇ぬまで気づかない人も居ると思います。ただ、残酷な事に『早ければ早い程勝率が高い』この世のシステムにおいて、おじさんおばさんになっても
自分は今大学生で将来の目標が1つにバシッと決まってますが、中学・高校で1つにバシッと決めて目指してる今の子達が羨ましくて嫉妬してしまいます。そうしなかったのは自分自身と言う事は分かります。ですが、当時はそれでも一生懸命に頑張ってました。「怠けてた」とはとても過去の自分には言えないです。それくらい本気で生きてきました。その理由が『巡り合わせ・経験』だと思うからです。
大学入っても目標はコロコロ変わってました。公務員、エンジニア、デザイナー、ライター、心理カウンセラー、営業、事務等、全然ジャンルの違う目標を設定しては冷めて辞めを繰り返し、EQは低いままでした。
そんな中、公務員試験のために勉強し、プログラミングを勉強して成果物を作って、行動経済学や買わせるコミュ力を勉強して、FP3級勉強して等、その目標のために過程を積んでいくこと、そしてゼミやサークルやバイトでの出会い、自分の今までの過去を自己分析して見えてきた『EQ』という聞いた事ない単語と今まで失敗してきた共通点等、『心の赴くまま今を一生懸命生きてきた』と言えます。そして、目指す過程で「合わない・向いてない」と気づいたり「こっちをやりたい・向いてそう」と取り組んだり、またしてもコロコロ変わってEQ低いままですが、高校までの違いとしては『これが私なんだ』と自分を受け入れた事です。銀行に内定取ってる友達が企業から指示されてTOEIC勉強したり、親の期待に答える為に公務員試験受けたり、親や教師から「勉強しろ」と言われて嫌々ながらも勉強したり等、『誰かから言われたからやる』が私は凄く苦手なんだと感じました。
実際、全校集会で校長や各教員が長々と話す無意味だと感じる時間が嫌で皆自然と列になって体育館に進む中トイレに引きこもって全校集会終わるの待ってたり、受験勉強で体育どころじゃない切羽詰まった高3の秋に体育の授業脱走して空き教室で勉強したり、「今日はこれやりたい」と思い立って仮病で学校やバイト休んで取り組んだり等、自分は外発的動機で動くのが苦手な『自我が人一倍強い人』だったんだなと感じます。
だからこそ、その自我に逆らわず、『内発的動機』に従って思うままに行動し、今では1つの目標に定まって1年以上揺らいでません。
未来の事なんて誰にも分からないので、もしかしたら数年後揺らいで今進んでる道を辞めてるかもしれないです。怖いです。何者にもなれず取り返しのつかないおばさんになってる事が。そういう人も多いですので否定はしませんが、自分はそうなりたくないなと思います。
あれ?書いてって結局高校までと変わってないですね……しかもまた話が脱線してしまいました。すみません。
本題に戻りますが、私が馬鹿なのか3つとも受け取れるのですが、その後調べてみたのですが関連書籍でもググッても1つにまとまらなかったです。
言ってる人が違うと載ってる解釈も違いました。
ただ、これ3つの解釈が共存するのは不可能ではないか?と感じます。
1.『楽しい事をせよ』
2.『苦手な事を楽しいと思え』
3.『知れ』
と、1↔2↔3↔1とお互い对な関係性で交わらないと思うのです。
私は自己成長の為にも『論語』を軸にしたい。それなのに解釈が違うと、私はどう進めば良いのか分からない。困る。調べても3種3様の意見だ。だから質問してみました。
長文失礼しました。
どなた様かご回答頂けますと幸いです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 益若つばさという名前を初めて目にした点も含めて、ニュースに対しては、ほぼ回答者様と同じ感想を持ちました。