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アムル人?カッシート人?
問題集を解いていると、 ある問題では バビロン第一王朝はアムル人の王朝、 別の問題では 古バビロニアはカッシート人の王朝、 と回答にありました。 辞書をひいたところ バビロン第一王朝=古バビロニア と出ました。 これは一時カッシート人の支配を受けていたということでしょうか。 分かる方よろしくお願いします。
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- nacht246
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A.No1の者です。 いえ、私自身特に詳しいわけではありません。 白状しますが、たまたまバビロン歴史について書かれた 本が手もとにあったので、まる写しして、回答してみただけです。 (「なんだ!」と怒られるかもしれませんが) だから、「バビロン第一王朝において、カッシート人が支配した 時期があるのか、」と貴方に尋ねられれば、 「私が読んだ本の範囲では、そのような記述を見つけることが 出来なかった」としか私には回答できないのですが、 でも、一応、前回の回答で本から写しもらした所を中心に 補足として懲りずに一応再回答を試みてみたいと思います。 ・ハンムラビ王死後のバビロン第一王朝に関して 北方の蛮人の侵入はハンムラビ王の晩年にもあったようで このとき、彼はこれを討ち、退けています。 新民族カッシュ人(カッシート)がザクロス山脈を出発し、 バビロニアに侵入してきたのは前1900年頃で、その時は ハンムラビの子サムスルイナが山中に撃退するのに 努力しています。 サムスルイナ治世の時深刻だったのは前回答でも述べた 南部の「海の国」においてのイルマイルの独立、進出であり、 (wikipediaでは「バビロニア」の項において、このイルマイルが 南方で興した新王朝を「バビロン第二王朝」と記述している ようですね。) この時はサムスルイナの防衛も功を奏せずニップールに近い 南方の地をことごとく奪われ、バビロン第一王朝第二代の王 スムライルの築いた要塞まで退いてこもらざるを得なかった ようです。 次の代の王サムスルイナの子アビエシェア(前1711~1684) は先述のイルマイルの王朝をせん滅するため、チグリス川を せき止めるなどして遠征を図ろうとするのですが、敵が 逃亡してしまったのでイルマイルを捕えることが出来ず、 結局小さな領地を支配する事で終わってしまいます。 その次の代の王アンミディタナ(前1683~1647)においては 「海の国」に属するドゥール市を陥れ、これを破壊、 次の代の王アンミサドゥカ(前1683~1626)はエウフラテス川 河口に要塞さえ建設します。こうして、「海の国」を著しく 圧迫し、バビロニアにはハンムラビの時代が復活するかに 見えたのですが、もはや国内的には腐朽し、弱体化して 外敵を防ぐ力はありませんでした。次の代の王サムスディタナ (前1625~1595)の時、前回答で述べたヒッタイトの王 ムルシリシュ一世のバビロン遠征による略奪をもって、バビロン 第一王朝が滅亡したものとされております。 (ここまでの経緯で私が調べた限りではカッシートがバビロン第 一王朝を支配した、とされる記述を見つけることが出来ません でした。) ヒッタイトの記録にはムルシリシュ一世がバビロンに遠征し、 バビロンを破壊し、また、フルリ人と戦い、バビロンの捕虜と 財宝をハットゥシャシュに持ち帰った、とされています。 一方、後世のバビロニアの年代記には「サムスディタナに対して ハッティ人がアッカド地方に進軍した」と簡単に述べられている だけで、 このためヒッタイトによるバビロン略奪が前1595年とする説が 有力なようですが、ヒッタイト古王国におけるトゥドハリアシュ 一世(前1710年頃)とテリビヌシュ(前1525年頃)の間に200年の 空白の隔たりがあるため、いつヒッタイトによる略奪が行われた のかはっきりと確定できないのだと思われます。 (バビロンが古い文化国なのに対し、ヒッタイトは北方の蛮族 ですから。) また、カッシートの古い歴史も、わずかしか存在していないよう です。 最初の王ガンダシュ(前1746~1700頃)は「四界の王、シュメル・ アッカドの王、バビロニアの王」と称し、ずっと後のアグム二世 (バビロン第三王朝の創始者か)になってはじめて「カッシュ人の 王」という称号を使っております。このとき、東方及び北方へ 領土を広めたようです。なお、前回答で述べた「海の国」へ遠征し ドゥール=エア城塞を陥れて併合し全バビロニアを再び統一した のは、アグム三世(前1450~1432年頃)の時だと書かれており ます。 (wikipediaの「バビロニア」の項もご参照ください。) どうやら勉強不足の私の回答はここまでが限界のようです。 あまり助けにならなかったようであれば申し訳ありません。 長文失礼しました。
- nacht246
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紀元前1936年ごろシュメール人のウル第三王朝 がバビロニアに侵入したエラム人に滅ぼされて、 バビロニア各地で西セム人のアムル族の諸王 が各地を占拠し、(イシュビエラ、ナブスラム、スムアブム等) このうちのスムアナブはアムル人を率いて1894年、北部 バビロニアの一部をを占領、小都市バビロンを居所にし、 以後のバビロニアはイシン、ラルサ、バビロンの三独立王国 に分裂、 前1835年、エラム人がラルサ王を破り、ラルサに新王朝を建て、 ラルサ王朝のリムシンはイシンを滅ぼし、更にウルク、バビロン を手に入れ、メソポタミアの大部分を支配するのだが、 小バビロンのバビロン第一王朝の六代目の王ハンムラビが 「国に秩序を作って」後、リムシンに征服された土地を 次々に奪回、更にイシンを破って、前1764年にエラム人の軍 を殲滅、前1763年にリムシンを捕虜にし、ラルサ王朝を滅ぼし、 メソポタミアの統一に成功する。 従って、>バビロン第一王朝はアムル人の王朝 これについては、全く疑いないと思われるのだが、 ハンムラビ王の死後、子のサムスルイナが王に就くのだが メソポタミア東部でリムシンの子孫と称するものが元々ザクロス 山中に住んでいたイラン系民族で以前から奴隷や小作人として バビロンにはいりこんでいたカッシートたちを率いてバビロニア 南部の「海の国」と呼ばれる地域に侵入、 東方及び南部の大部分をその権力化におく。 サムスルイナはこれと戦い、背いたウル、ウルクなどを奪回し、 一時征討に成功するのだが、南部の「海の国」において イルマイルが独立し、南部に新王朝を建設し、バビロン第一 王朝の国土は北部に限定される事になる。 北部バビロン王朝は、南部のイルマイル朝を徐々に圧迫 するのだが、それより以前、(バビロン第一王朝成立あたり) 小アジアのハリュス川のほとりに興ったヒッタイトの王国が この頃勢力を南方まで支配を拡張、ヒッタイトのムルシリシュ 一世の遠征により、バビロンは略奪にあい、当時の北部 バビロン王のサムスディタナは王位を失って、バビロン 第一王朝は崩壊する。 このヒッタイトの略奪は一時的なもので、なんら政治的な 効果をもたらさず、疲弊しきったバビロンにカッシートが 進入、後に先述の「海の国」も征服し、576年間、バビロンを 支配するのである。 一見すると、>古バビロニアはカッシート人の王朝 というよりは「バビロン第三王朝はカッシート人の王朝」 のほうがしっくりいくように思われるのだが、 ヒッタイト古王国の歴史に不完全な部分がかなり多いため、 ヒッタイト王国による略奪がカッシート王朝時代に起こったと する説もあり、そうなると良くわからない。 こんな回答で申し訳ないのですが・・・・・。
お礼
回答ありがとうございます。とてもお詳しいですね。教科書に載ってないことを知ることができました。 お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。では何人の王朝かといえばアムル人で間違いなく、またカッシート人が征服した時期もあると…いうことでしょうか。
お礼
そうだったのですか。怒るなんてとんでもないです。こんなに詳しい記述を載せて頂き本当にありがとうございます。助かりました。 頂いた回答によればカッシート人の侵入は撃退できていることになりますよね…。私の見間違いかもしれないのでもう一度問題集を確認してみます! 回答ありがとうございました。