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万物に対する受容
強くなることも難しい本を読む必要もないんだな。 既にあるもので何とかなるもの。使い方しだい。 むしろ既にあるものが何なのかの観察が大切であろう。 では既にあるものとは何か? 業であろう。 この業を憎む者は業の使い道を絶っている。 受容してはじめて使いこなせる。 万物に対する受容とは全ての宗教の核であると思うがどうだろう?
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質問者が選んだベストアンサー
そうですね。 業karmaなんて追求的なことを言わずとも、 身に付いているもの、といったくらいがよろしいのでは。 身に付いているものをよく知りよくわきまえて受け入れることは、 全ての精神活動の核ですね。 しかし宗教となるとまた志向性があって、理想だったり約束だったり期待だったりしますから。 それらが、身に付いているものへの悟性からのみ育まれるということは難関でありすぎて。
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- kanto-i
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実際におきていることから考えると、多くのことに対して受容できないことで悩み苦しみ 行き詰まりを感じて、救いを求める所に宗教を選ぶことが多いのではないでしょうか。 受容できるようになるプロセスの為の指南役的なことが、宗教の位置づけの一つではないかと思います。 受容、つまりは許せるようになる前提として「あなたは神に許された」とか 仏に許される行為としての儀式があったりするので、まずは入信者が「許された」とすることが 受容の始まりに設定されているのではないかと考えています。 そういう意味では、宗教の核になっているのだろうとも言えるのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 実際的にはそのとおりだと思います。
核と言うより、前提だな。 受容することで、何を見つけ、何処に向かうか? スタートラインに立ったんだよ。
お礼
回答ありがとうございます。 どこかに向かう必要もあるのだろうか・・・
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お礼
回答ありがとうございます。 >しかし宗教となるとまた志向性があって、理想だったり約束だったり期待だったりしますから。 それらが、身に付いているものへの悟性からのみ育まれるということは難関でありすぎて。 確かに。
補足
やっぱり河童が最高だな。