明治時代は変化の激しい時代なので、大まかにひとくくりすることは難しいと思います。
しかし、農村生活に関する限り、基本的には江戸時代の延長だといえそうです。たとえば、明治初期と末期における全就業人口に占める農業の割合は72%から65%に、GDPの割合は44%から37%へと低下しましたが、急激な変化というほどのことでもなさそうです。
なによりも、農家戸数が550万戸のままほとんど動いていないことが、安定した農村生活の何よりの証拠だと思われます。変わらなかった第一の理由は、日本固有の「家」制度にあると考えられます。近代的な均等相続制度では、農地の細分化、流動化は避けられず、小農経営の持続性は失われがちです。
日本の場合、経営耕地面積は小規模ですが、長男が農地を相続する制度のため、土地だけでなく、親世代まで蓄積された資本や技術、あるいは経営知識までそっくりそのまま次世代に継承されることになります。その代り、二三男はそれなりの教育を受け、都市に産業労働者として流出する仕組みです。
これに対し東アジア、さらにヨーロッパでは一般に分割相続が普通で、世代交代ごとに土地財産は分割され、経営ノウハウも分散、断絶することになります。
第2に、名望家や在地地主を頂点とするムラ共同体の役割があります。農家の間に強い信頼と互助の関係が結ばれ、生産や生活の基盤を形成していました。この関係は、良好な地主小作関係の維持発展にも役立ったようです。小作人というと、強欲な地主のもとで搾取されるというイメージがありますが、実は自作農と小作農のあいだに平均耕地面積や収穫量の違いはなく、小作だから貧しい、収奪されているというイメージは統計的には裏付けがありません。
しかし、明治後期(日露戦争以後)になると、事態は大きく変わります。まず』産業革命が進行して、都市農村格差が拡大します。さらに巨額の軍事費を賄うために大増税が行われました。このため、農村の窮乏化が顕著になり、小作争議も頻発するおうになります。
明治45年に刊行された長塚節の長編小説『土』の序文で、夏目漱石は「土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同様に憐れな百姓の生活」の「最も獣類に接近した部分を精細に直叙したもの」を一度は胸の底の抱きしめるよう勧めています。しかし、これが明治時代の農民生活のすべてだと受け取ることは間違いではないでしょうか。