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近代仏教学の問題と課題

仏教ではなく、仏教学の話です。 学問として仏教を扱う限界というのがあると思います。 問題や課題、疑問を教えてください。

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回答No.2

こんばんはです。 ☆☆☆ 1 歴史上実在したゴータマ・ブッダの生誕・死亡年代 2 ゴータマ・ブッダの氏名・本名 3 ゴータマ・ブッダの出身部族・釈迦族とは如何なる民族に属するのか? ゴータマ・ブッダ自身に関するものでも、これだけの謎があります。 1は、古代インド人は歴史書を作らなかったため。インドは今でも悠久の時が流れていますんで。 2は、仏伝作家によって、意図的に本名が消されたため。  ゴータマ・シッタッダが本名だなんて思わないでくださいね。これは氏名でもなんでもないんですから。  ゴータマは「最上の牛」の意味で、バラモンの有力士族の氏名。  シッタッダは「成就した者」、つまり、「悟りを得た者」の意味です。  要するに、仏伝の作者たちは、ゴータマ・ブッダを神格化したかったんでしょう。ゴータマ・ブッダは、アーリア系で、今はクシャトリアだけれども、有力バラモン出身で、血統が正しいということにしたかったんでしょう、きっと。 最古の経典『スッタニパータ』でさえ、ゴータマ・ブッダは水掻きを持っている!! 実は、河童なんです、ゴータマ・ブッダ。 3は、1と2の絡み。釈迦族、滅ぼされちゃったので、辿りようがないんです。で、釈迦族は、ビルマ系の民族だったなんて学説さえあるようです(もちろん、学問的根拠はるあるんですよ)。。。。 ☆☆☆ 4 上座部と分離した謎の集団・大衆部とはいかなる集団で、どのような教義を持った集団なのか?  説一切有部などの文献に、大衆部の教えなどが少し載っているらしいのですが、それ以外のことはほとんど分かっていない。まったくの謎の集団なんです、大衆部は。 また、なぜ、初期仏教教団は二つに分かれたのかさえも分かっていない。 大衆部の経典や論書類は、説一切有部などの上座部にすべて焚書にされた? あるいは、そのような論書類はもともと存在せず、すべて口伝えで伝えていた? 5 大乗仏教の成立過程  これもさっぱり分からない。いつ、どこで、どのようにして初期大乗仏教が起こったのかが特定できない。インドなのか、今のアフガニスタンあたりなのか。。。。 そして、謎の集団・大衆部との関係も。。。。 6 瑜伽唯識学派の開祖ともいうべき弥勒(みろく)とは実在したのか?  弥勒(弥勒菩薩じゃないよ)というのは、『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』などの瑜伽唯識学派の初期根本聖典の作者とされる人物なんですがね、これが実在した特定の人物をさすのか、ある集団もしくはその代表者を指すのかさえ、分かっていない。弥勒なる名の人物がいたのかどうかも分かっていない。 チベットでは、全部、無著(むじゃく)作とされているらしいし 「無著が兜卒天(とそつてん)にゆき、弥勒菩薩から聞いた話を書物にした」と書いてある論書さえある。 さすがインドですねぇ~、時間と空間を超越している。 7 『倶舎論(くしゃろん)』の作者であるヴァスバンドゥと、無著の弟で唯識教学の大成者ヴァスバンドゥは同一人物か?  これも分かっていない。日本の仏教・宗教界は同一人物としているけれど、ヨーロッパの方から「作者は別人だ」という二人説が出た。しかも、その活躍年代には最大約100年の開きがある。たぶん、今は二人説が有力になっていると思うけれど。 ~~~~~~ とにかく、仏教の歴史年代に関することはほとんど分かっていないってのが現状なんでさぁ~。経典にはそんなことは一切書いていないし、頼りになるのは中国からインドへの留学僧の記述ってお寒い状況。それも、時と空間を超えたインド人の伝承ですからねぇ~。どこまで信頼していいのやら。。。。 ☆☆☆ 最後に、日本でいえば、  真言立川流!! 邪教だということで、歴史から抹殺された真言宗の一派。 焚書にされたので、資料がほとんど残っていない。どのような教義だったのかが、よく分からない!推測の域を出ない!! 時の政治権力者(特に江戸幕府)や高野山などの弾圧がなかったら、  鎌倉新仏教として、教科書に載っていたのかもわからないのになぁ~。 本当に淫祀邪教だったのかな? 立川流のリンク先 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_%28%E5%AF%86%E6%95%99%29

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 いやはや。 衝撃的な回答ですね。 ゴータマ・シッダッタの本名すら わかってないなら 今までなんだったの。という感じですね。 最古の仏典スッタニパータのゴータマでさえ 河童だというのも、とんでもないことではありませんか。

その他の回答 (3)

回答No.4

 ご返答をありがとうございます。  言わずもがなかと思いましたが(また 少数意見でしかないので犬の遠吠えにしかなりませんが):  ★ ~~~  現在の仏教が、信じる。という話になるのは  なかなか難しいのではないでしょうか。  ~~~~~  ☆ だとしますと けっきょくいつまで経っても ブディストは おとなに成れない・また成らないと言っていることになるのですよね?  信仰ないし宗教の看板をかかげているのをはづせば よいのでしょうけれど。  ということを 仏教学はこの主題についてしっかりと率先して考えまたその結論を発表して行かなくてはならない。と考えます。  中には はっきりと無神論であると言う仏教学者もいますが ではそのことが《信じる》のひとつの形態だということには 無頓着です。  あるいは 有神論とまったく同じ信仰の一形態だということを知りません。  これを明らかにしない限りは ブディズムは いつまでもオモチャをあつかうお遊びである。と見ます。  《わたし》とは何か? について知らないことになるからです。  クリスチアニズムとの対話は 出来ないということだと考えます。  独り善がりだと言われたほうが 言われないよりは いまはうれしいです。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 仏教学者と僧侶で見解が違うのかもしれませんね。 学者と僧侶を兼ねる人が多いですけど 実務の上では、信じるのほうが優先されると思います。 どんなに大学で文献学をやっても いざ、葬式で 経典を日本語訳で読経する僧侶がいるのかわかりません。

回答No.3

仏教は、宗教の一つです。宗教は何よりも『個人の魂を救う力が必要です。』是は、宗教体験と言う体得と言う実践が必要になっています。 仏教学は、その力の影だけを見る学問です。飽く迄も『影』を追っているものですので、『実体』を表現するには限界が在ると思います。もっと強い言い方をするなら『学問や知識では体験を表現する事は、不可能』と云う事になります。。 仏教は『悟り』と言う体験を、連綿と伝えてゆく実践の中にあります。言葉を替えて言うなら『涅槃』と言う砂糖の味を連綿と伝えています。 この『涅槃』と言う砂糖の味を、舐めてもいないで、『言葉で砂糖の味を表現する学問』でしかないという意味です。 貴方は砂糖の味を『舐めもしないで』分ると思いますか?涅槃には実体が有りません。 一つだけ動画を持っています。此処から『砂糖の味を』想像してみて下さい。救われる事さえ捨てた後に救われる姿が、此処にあります。 全てが失われた体験の後の体験として読み取ってください。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます

回答No.1

 こんにちは。  ○ 人が《信じる》とは どういうことか?  これを明らかにし得ていないところだと思います。  すべての問題は このひとつの課題にあつまってくると考えます。    このことでは 親鸞によるべきではないでしょうか。  念仏は 非行非善だというところです。修行に非ず。善行に非ず。すくわれるためのおこないではないと。 ハカラヒ無きというところです。  ここにアミターバ如来に対するワタシの関係として 《非思考》という内容である《信じる》がしめされたと考えます。  もしこの《信じる》をどうでもよいと見るばあいには ブディズムは 経験思想や経験科学だということになるか それとも 倫理規範を説く道徳だとなると見ます。そうなれば そのようにはっきりと自己紹介をすることがのぞまれます。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 現在の仏教が、信じる。という話になるのは なかなか難しいのではないでしょうか。

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