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音楽はいま自分が持ちあわせている力量を超えて聴くことはできない?

前回どなたからも回答がなかったので、再度質問いたします。 音楽には明示性はあっても開示性がないと言われます。 自分がすでに知っている、あるいは明らかなものについては耳に入るけれども、知らないもの、分からないものは聞くことが出来ない、と受け取っていいのでしょうか? とすると、いま自分が持ちあわせている力量を超えて音楽を聴くことはできないということなのでしょうか? そうであるとするなら、言葉をともなう声楽はどのような位置を占めるのでしょうか? この質問は一週間閉じないつもりです。どうかそのあいだに識者のご回答をいただけたらと思っています。

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  • songbook
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回答No.10

>音楽には明示性はあっても開示性がない どういう方のお言葉でしょうか? また、その言葉を、なぜzephyrusさんは、 >自分がすでに知っている、あるいは明らかなものについては耳に入るけれども、知らないもの、分からないものは聞くことが出来ない と受け取ったのでしょう。「明示」(明らかに示すこと)「開示」(内容を示し、教え諭すように示すこと)と言葉を理解した上での私の意見を述べます。 音楽を愛する人は、しばしば、その「音楽」に付随する「含み」「エピソード」「メッセージ」などについて、いわゆる「左脳」的に語られることを嫌うことがあります。 うんちくをどうこう言わず、まず、その音を聴いて、あなたがいいと感じたかどうか。それこそが、その音楽の持つ、本当の実力である、という考え方です。特に音楽を作る側の人間は、そういう考え方をします。私も基本的なところでは、この考えに賛成です。 私はよく音楽を、食べ物にたとえますが、こう考えてはどうでしょう。「食べ物にには明示性はあっても開示性がない。」 どれだけ「これは栄養があるから」とか、「これは歴代フランスの王朝で珍重されてきた食材で」とか、「これを作ったシェフの超絶技巧といったら…」と解説されたって、口に入れた本人が、「おいしい」と感じなかったら、それは、その人にとってはよい食べ物ではないのです。 しかし、食の経験とともに味覚に幅、奥行きがでて、昔なんとも思わなかったものが、年齢とともに「おいしい」と感じるようになり、「なるほど、これは人類の傑作料理だ」という境地に至るように、音楽も、聴く人の経験、感性の広がりとともに、「いい音だ」と多くの人が認めることのできるものがあります。それが一般に、名曲といわれるものでしょう。 持ち合わせている力量(感性といってほしいです)を越えるものについては、感じないのだから仕方がありません。しかし、「感じる芽」は、体の中に眠っているかもしれません。だから、今は感じなくても、今後はわからないと考えておきましょう。 声楽について。これは難しいです。人によって、言葉から聴いてしまうタイプの人と、器楽と同じく、サウンドから入るタイプの人とに別れるようです。私は個人的には、サウンドから入るタイプの人間で、言葉は、そのあとから、感じたサウンドの味を増幅させてくれる要素として受け入れています。 先ほど述べた、音楽に付随するエピソードや含み、歌詞の内容やメッセージなどもその仲間です。感じる心を増幅させてくれる諸要素ととらえます。 演歌などだと、かなり「歌詞」の世界ですので、違う聴き方をしています。かなり、左脳的に聴いてしまいますね。 長くなりましたが、不明な点などありましたら、またお尋ねください。

zephyrus
質問者

お礼

やっと、質問に対する回答に出会ったという感じです。わたしの質問のしかたが悪いのでしょうけれど。 明示性云々の言葉の定義というか解釈は#7のかたのお礼欄に書いたとおりで、songbookさまと基本的に変わらないと思います。 きっかけとなったこの言葉そのものを、どこで読んだかさっぱり忘れています。十年くらい前?音楽関係ではなかったかもしれません。 モーツァルトが好きでよく聴くのですが、ある時ふと自分はどれだけ聴けているのだろうという疑問がわいたのがきっかけだったようです。武満徹は分からないがよく分かる。吉松隆はもっと分かる。日本人同士だから、同時代だから、と片付けていいのだろうか、根はもっと深いのではないか、などと。 <感性といってほしいです> に、あっそうか、と膝をたたいたものの、やはり力量でいいと思い直しました。意識しないでわれわれは自分の全存在をかけて聴いているところがありますから、これでいい。ここは譲れません(笑)。 味覚と聴覚のたとえは、たいへん解かりやすいですね。両方、保守的な器官だから余計です。 二度も三度も読み直しました。自分なりにもう一度考えてみます。時間を割いて丁寧に答えていただき、ほんとにありがとうございました。

その他の回答 (16)

回答No.6

あなたの意見はあまりにも記号論的だと思います。 ジョンケージは、音楽を完了した終止形ではなく、たえず聞くたびに生成するものだと言いました。 いかなる道筋によっても解釈しきれず、そうした解釈をはねつけず動いていく世界、いかなる解釈のもとに包括することもできず、そこからはみ出して変貌していきます。音楽はそんなものです。 自分の身体の態度の変更をすると、聞こえない音まで、聞こえてくる。 身体の構造は、リゾーム的で、脳の構造はツリー状に組織されているから、そんなに単純化しないほうがいいです。

zephyrus
質問者

お礼

少なくとも質問の中ではわたしは意見を述べるというよりも問いかけをしているつもりです。また、音楽に限らず人を感動させるものは終止形でも完了形でもなく、現に生成継承されつつあるものでしょう。 ジョン・ケージが何を啓示したか知りませんが、彼が言ったことでなく、彼が作った音楽を聴いて、それがあなたがすでに持ちあわせていたあるものを明らかにしたのか、まったく新しい何かをもたらしたのか、それを検証し、できればわたしに教えてほしいのです。

  • ponpon
  • ベストアンサー率19% (67/345)
回答No.5

こんにちは。 言葉に開示性があるとされるのは、一つ一つの発音がメッセージとなり心理に語りかける事が出来るからで、それが自分の記憶と重なる事によって明示、開示という言葉で表現できるものなのかもしれない。 とすると、音というメッセージは肉体に語りかけるもので、それを心理と重ね合わせる事が出来ないのではないか。ムズムズするリズムとかありますよね?母親の鼓動を聞くと落ち着いたり、ダンスミュージックに足がリズムとってしまう、みたいな。だからもしかして自分が感銘を受けた、と感じてなくても肉体は開示を受けてるかもしれないですよ。 ご参考いただければ幸いです。

zephyrus
質問者

お礼

そうですねえ、母の胎内で最も安らげるリズムを聞いていたのですね。すっかり忘れていました(笑)。 どうもありがとうございました。

  • balikaeru
  • ベストアンサー率52% (100/191)
回答No.4

こんばんは。 幼い頃オペラのアリアなどを学校で聞かされた時、退屈なだけで全然おもしろくありませんでした。何歌ってるのか意味わかんないし。 アリアを聞いて身が震えるほど感動したのは社会人になってそれなりに人生の経験を積み始めたころです。世の中にこんなに美しい音楽があったのかとなぜ今まで私はこの素晴らしさに気が付かなかったのかと。 でもそのころは能楽の良さはまだやはり解りませんでした。 今40代になり能楽をじっくり聞きオペラを見て涙する私がいます。それがzaphyrusさんの言う「力量」が人生の経験を経て私に備わりつつあることだと考えています。子供の頃にはその力量が私にはなかったのだと。聴く力がないからかえって言葉の意味にこだわって「わかんない」と決め付けたのだと。 今は違います。私は能にしてもアリアにしても言葉の意味を捉えて感動しているのではありません。メロディーそのもの、演者の発声そのものに感動しています。音楽を楽しむのに言葉を理解する力量は必要ないのだと思いました。 年を取るのも悪くない、と思うことのひとつです。

zephyrus
質問者

お礼

心なごむお話ですね。ありがとうございます。 わたしなども「ドン・ジョヴァンニ」など比較的よく知っているつもりでも、考えてみると物語の筋であったり、モーツァルトの巧みな音楽による登場人物の思惑や性格や心理状態であったりで、言葉のひとつひとつではないですね。(また、日本の音楽のよさも回答者様と一緒で、だんだんよくなってきました。さすがに能まではまだ行けませんが。唐突ですが、武満徹はよく分からないけれども、非常によく分かる(笑)) けれども、言葉が理解できれば別の次元が開けるのではないかという思いもぬぐいきれません。ここのところ、いかがでしょうか。 「演者の発声そのものに感動」とは光る言葉ですね。なるほどそのとおりです。もはや言葉の意味などいらぬ、とも言えそうです。

  • apple-man
  • ベストアンサー率31% (923/2913)
回答No.3

>知らないもの、分からないものは聞くことが出来ない、と受け取っていいのでしょうか? 基本的はそうだと思いますが、知るという経験が なくても理論的に音楽を理解した上で、 さらにそれを実体験として音楽と認識できると 思います。  音楽の三要素、音階、和声、リズムが無ければ 基本的には人間はそれを音楽とは認識しないのが 普通ですが、それをくずした前衛音楽という ものが考えられるということを理屈の上で知って いれば、前衛音楽のめちゃくちゃな演奏のような部分から ハーモニーを感じとることができると思います。 >言葉をともなう声楽はどのような位置を占めるのでしょうか?  声楽は和音、つまり他の音との調和の 理論のはずでしたが、ラップが生まれてから 状況が変わってしまったと思います。  ラップ音楽の歌は、リズムと音階の 中間にあるという、これまで無かった 形式だと思います。

zephyrus
質問者

お礼

言葉尻をとらえるようで申し訳ないのですが、「実体験として音楽(と)認識できる」か、というよりも 「実体験として音楽(を)認識できる」かどうかが知りたかったのですが、どうでしょうか。 ラップには、なるほどです。蒙を啓かれました。 ご回答いただき、ありがとうございます。

  • myeyesonly
  • ベストアンサー率36% (3818/10368)
回答No.2

こんにちは。 それってちょっと変だと思います。 楽器や歌などをやる人が、他の演奏や録音を聞いて自分の腕を上げてゆきますよね。 他の人の演奏を聞くのは上達の為の必修課程みたいなものです。 経験、教わった事のどちらにも矛盾しますが。。。?

zephyrus
質問者

お礼

う~ん、技術的な問題ならそのとおりだと思います。今回、ちょっと違った方向で質問をしています。 でも、率直なご意見、ありがとうございました。

  • gekkou
  • ベストアンサー率21% (50/235)
回答No.1

なにやら面白そうな質問なので可能であれば自分の意見を言いたいのですが・・・私の頭が悪いのでしょうか?いまひとつ意味が分かりにくいです。 特に、>そうであるとするなら、言葉をともなう声楽はどのような位置を占めるのでしょうか? の部分が前文に対してどうも(私の頭の中では)咬み合っていないように思えるので。 もう少し別な表現が可能ならばお願いします。 それでも理解出来ない場合は私は降参いたします。

zephyrus
質問者

お礼

どうか、簡単に降参しないでくださいね。 よろしくお願いします。

zephyrus
質問者

補足

早速のレス、ありがとうございます。 言葉は明示性も開示性もともにあるから、明示性しか持たない音楽に開示性をもたらすのではないか、と考えてみたのです。(今気づきましたが、私は音楽を器楽曲と限定していました)領域の違うことばと器楽というものが、あい補強しあうことによって、音楽はどのように遠くまで行くことができるのだろうか、なんてことを想像しているみたいです。 なんだかとってもむつかしそうですが、なんのことはない、わたしはなんにも分からんのです。だからこそ質問差し上げているわけですけれども。

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