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フィリッピンとグアムが米領でなかったら・・

太平洋戦争の主敵は大陸を除いて、圧倒的物量のアメリカでした。 そこで質問です。 日本軍が第2次大戦(真珠湾攻撃以前は第2次欧州戦争)に参戦していなかったアメリカを攻撃したのは、南方の資源地帯を取るのに米領フィリッピンとグアムが目障りだったからでしょうか? アメリカを中立のままにして、英蘭のみに宣戦布告したならば勝利できるとは言いませんが、より有利な戦闘を展開できたのではと思っております。

みんなの回答

回答No.5

当時も今も、極東における大国の覇権争いでは、 アメリカが大きな存在です。 戦争で疲弊したイギリスも、建国間もないソ連も、 日本の封じ込めは自国の中国利権を維持/獲得する 為に重要な事項。アメリカに頑張ってもらう必要 があった訳です。 そういった、日本包囲の駆け引きの中で、 フィリピンだとかグアムだとか回避した戦争を すれば日米開戦を避けられたとする考えは無理 でしょう。 石油という、国の運営に必要な血液を 経済包囲網という形で止められた時点で 日本はほぼ詰んでいた訳ですから、 この経済戦争の時点で兜を脱ぐしか 日米戦争は避けられなかったのではないでしょうか。 (当時のぎりぎりの外交の中で、  どこまで譲ればアメリカが矛を収めたかは  判りません。  満州国からの撤退なのか、朝鮮あるいは  台湾の放棄なのか、、。) 石油を売ってくれる国を自分で支配するか、 石油を売ってくれる、非常に親しい国を持つ (もしくはその国の属国になる)しかなかった のでしょうね。 明治維新以降、第一次大戦までは、ロシアへの 対抗上、英米が日本の味方よりの国だった訳ですが。。。

  • sudacyu
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回答No.4

No.3 続きです。 ・支那事変(日華事変・日中戦争)  石原莞爾は、1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長となり、内蒙古での戦線拡大(熱河作戦以後)に作戦本部長として、中央の統制に服するよう現地にまで出かけていって現地軍指揮官の説得に勤めましたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される結果となりました。  戦線が泥沼化することを予見して、石原は不拡大方針を唱え戦線の拡大を抑えようとしましたが、当時関東軍司令長官東條英機ら陸軍中枢と対立し、1937年9月には参謀本部から関東軍に左遷され、支那事変は継続していきます。  日中戦争を開始した中国派遣軍参謀を評して、石原は「鵜の真似をする烏」と言ったらしのですが、過去の自分の行動が影響を与え、石原の戦略は崩壊することとなって行きます。 ・満州事変の性格と支那事変の性格  高校の日本史の資料・年表程度のものに目を通せば、その実態が分かります。  満州事変(1931年)当時の日本陸軍の総兵力は45万程度で、「電撃戦での勝利」であったため、兵力・日本経済には大きな影響を与えていません。  支那事変が、1937年7月に起こり、在留邦人保護と言う名目で継続され、1941年12月には、真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦いに入っていくのですが、それらの時点での主な統計数字を見れば実態が見えてきます。  真珠湾攻撃をする直前の、日本本土・満州・中国大陸にある兵力は約190万(支那事変後に急激に増え、満州事変前の4倍になっています。参考:現在の日本=人口12000万の陸上自衛隊約16万、中国=人口13億の人民解放軍陸上兵力170万{誤差は大きいかもしれません}程度。)は、とんでもない数字なのです。 (陸軍兵力の急膨張で、士官学校出身の職業軍人は平時にはありえないような出世をどんどんしていったため、陸軍内部に日華事変の停止・撤退を望む声が盛り上がることはありませんでした。)  対米、南方作戦のために、その後も更に兵員の数だけは増えていき、終戦時には、更に増え650万だったそうです。女性・子供・老人を除外した成年男子に対する軍人の割合を考えれば、国家経済が維持できるはずもありません。  これだけの兵士を、生産を行わない「軍人」として動員したため、日本の戦前の各種工業生産力は1937年をピークに減少・横ばいを始めます。  さらに、1938年には国家総動員法・1940年には食料の配給制が国内で始まります。  アメリカとの戦いを始める以前に、中国との泥沼の戦争で、国力の大きな消耗が起き、顕著に国民生活を圧迫しているのです。  政治が「軍」をコントロールしていれば、工業生産力を低下させてまで長期に戦いを続けることは考えられません。国益に明らかに反していて、無意味な消耗ですから。  そして、中国側の焦土戦術(決戦をしないでどんどん内陸部に主力を後退させる戦略)によって、 中国側は「負けなければ勝ち」なのに対し、日本側は「勝たなければ負け」という、抗戦側の理論と侵攻側の理論のギャップで、戦闘を中止して撤退すれば『負け』という状況となっていました。    『負け』ないためには、戦い続けるほかに方法はなく、アメリカから石油禁輸をされた日本(当時の日本産業の動力源は石炭。輸入石油の半分は軍が艦船・飛行機・車両の燃料として消費していました。)は、結局、中国からの撤退か、西太平洋の制海権を手に入れて、オランダ(既にドイツによって占領され、独立国家として機能していませんでした)の支配する領インドシナの石油を手に入れるかの選択(=戦線の拡大)となったのです。  つまり、この時点で日本の経済的継戦能力は失われていて、ジリ貧負けは決定していましたが、中国戦線が内陸で行われたために、海軍艦船は無傷で残っていて、『負け』を認めて撤退する決断が出来なかったのです。  戦後の検証では、日本においても 1、対米開戦の無理は、内閣・陸軍・海軍ともに十分わかっており、この三者のうちのどれかが強力に開戦せずを主張すれば、開戦を回避できた。 2、半年以上も先に開戦日を決め、それまでの期間に戦争回避努力をすることとしたが(多分開戦しないで済むだろうと期待したのでしょう。)、三者が互いに戦争回避の責任を負うの避けたため、戦争回避努力を主導する者が現れなかったことが明らかになっています。 <参考1>  アメリカは基本的に日本と戦争する気はなかったでしょう。  強固に対応すれば、日本の国力から言って、負けることは必然ですから、きっと譲歩してくるに違いないとの読みが大勢を占めていましたでした。  第一次大戦後、植民地での独立化の流れが起きており、アメリカも植民地であったフィリピンンの独立を認めていました。  これは、植民地の自治権要求や独立の動きが活発化して、政治的に植民地を支配し続ける費用・軍事負担が増大して、支配を続けるメリットよりデメリットの方が大きくなってきていたことによります。  当時のアメリカは、イギリスを抜いて世界一となった経済力の上昇を反映して、他国を政治的に支配する必要はなく、経済力で圧倒すれば、経済的にアメリカを必要とする国家としてアメリカの経済圏に組み込まれ、アメリカに反対できない国家となるとの戦略を持っており、基本的には現在もその戦略は生きています。  中国市場をアメリカに支配されると、「列強」の地位から転落してしまい、日本自体もアメリカに経済支配され「アメリカのポチ」になってしまう可能性が大きかったので、日本は、大恐慌を境に、軍事力によって中国市場を確保する方向に動いたわけですが、失敗し最終結果として、1945年にアメリカに軍事支配され、「ポチ」となってしまうことになりました。 <参考2>中国側の戦争対応  明治維新以後、日本は国内統治システムを完全に作り上げ、富国強兵を徹底して「軍」を編成しました。  それに対して軍閥戦争が終わったばかりの当時の中国には、同程度の戦闘力を持つ精鋭部隊は、蒋介石(日本に軍事留学し日本陸軍の将校だった経験があります。)の率いる部隊だけで、日本軍の10分の1以下の兵力しかありません。  この虎の子の精鋭部隊を初戦で日本軍と全面衝突して戦わせても、壊滅してしまい、以後は全く抵抗ができなくなります。  そこで、蒋介石の率いる中国側は、侵入した軍より弱体な軍備しかない場合の、大陸国の伝統的戦術である主力温存策を取りました。  具体的には、急造の二線級部隊で人数を膨らませ、日本軍よりも多数の兵力にし、精鋭部隊とともに日本軍と戦いますが、日本軍の攻勢で戦況が不利になると、徹底抗戦せずに戦力を温存して内陸部に撤退します。  ナポレオンがロシアに負けた時と同様に、相手に軍需物資を消費させながら、敵軍主力を補給の届かない内陸部に引きずり込んでいく作戦です。  中国は絶対に負けず、日本は勝てない戦術で、陸軍参謀本部の石原大佐(満州事変の首謀者の一人)などは、この戦術を中国が取るので戦いが泥沼化するとして、対中戦争を極力回避しようとしましたが、現地派遣軍は戦闘に勝っているので、撤退することなく内陸部にどんどん入り込んでしまいました。  その結果、食糧など補給に苦慮した日本軍では、住民からの軍票による食料徴発で、太平洋の島のような飢えには苦しまなかったものの、捕虜や住民の生存を保証することはできませんでした。(住民の恨みを買ってしまうので、占領地の治安を確保できない。)  また、民間人を駆り出して作った訓練の行き届かない中国の二戦級部隊は、銃の撃ち方などは習っているものの、戦術的部隊行動などは実戦の場では満足にできません。訓練の行き届いた精鋭部隊がさっさと撤退する後に、取り残されて大量に捕虜となり、日本軍のなけなしの食糧を食いつくすこととなります。  そのうえ、少し前までは普通の民間人でしたから、敗走となると軍服を脱いで民間人となってしまうものも続出し(中国人同士の軍閥戦争の時はそれで何の問題もなかったのです。)、兵士・民間人・便衣兵の区別が極めてあいまいになってしまいました。  日本側の苦悩  侵攻した軍は、基本的には「占領地の治安維持・民間人保護」をしないと、占領地を確保したことになりません。  しかし、日本軍の占領地は、汪兆銘が南京に立てた親日政権の支配地ということになりましたが、「食糧徴発」などで食べる物のなくなった住民に支持されることなく、確保できない占領地となっていきました。 →このように、泥沼に入り込んでから撤退するのでは、「日本の負け」となってしまいます。  負けとなっても撤退するしか、傷を浅くする方法がありません。  アフガニスタンではソ連が、ベトナムではアメリカが撤退を余儀なくされました。 戦争の結果  精鋭の主力軍を失うことなく戦い続けた蒋介石は、その軍事力を背景に「国民党」のトップとして、戦争後の政府の代表者となりました。  しかし、大した兵力を持たず装備も整っていなかったので日本軍の占領地で便衣兵としてゲリラ戦を行うしかなかった「共産党」との内戦が始まると、『装備の優秀な国民党軍は逃げて戦ってくれなかった。満足な武器がなくても共産党軍は戦ってくれた。』という民衆の気持ちが大きく働いて、国民党は国民の支持を失い、日中間の戦争のなかった台湾に逃げていかざるを得なくなりました。

  • sudacyu
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回答No.3

 産業革命以後、世界の列強は『自国の生産物を、自国以外の地域に売ることによって、富の蓄積を図り、富の蓄積による国力の増強をによって、強国として世界経済を握る。』という経済戦争主体の世界に突入しており、現在もその延長上に居ます。  そのような世界は、イギリスのチャーチルが言ったように、「外交とは、武力を使わない戦争であり、戦争とは武力を使う外交である。」という世の中です。  ですから、No.1やNo.2の回答者の方も言及されているように、「経済」つまりアメリカとの経済戦争を離れて、太平洋戦争は語れません。  『アメリカを中立のままにして、英蘭のみに宣戦布告』という可能性は、日米が経済戦争を行っていないという状況が前提となり、ありえないことを意味します。  遡れば、日米経済戦争の端緒は、第一次世界大戦に行き着きます。  第一次世界大戦は、世界経済に大きな変動を与え、政治的にも列強各国の未来を大きく変えることになりました。 1.戦場になったヨーロッパの生産力の大幅な低下 2.アメリカ・日本の生産力の急激な向上 3.アジアにおける欧米軍事力の一時的空白化  4.大規模な戦争を展開した欧米戦勝国における、戦争後の厭戦気分の拡大  第一次世界大戦のこのような状況をもとに、日本はアジア最後の市場として残っていた「中国」に独占的経済進出を図ります。  具体的には、ヨーロッパでの激戦に国力を傾けている欧米の軍事力の空白化の隙を突いた、1915年の「対華21カ条の要求」が、その象徴的出来事です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82  しかし、第一次世界大戦後、国際社会が落ち着いてきて軍事力が復活するに従って、日本の抜け駆けは修正され、1922年に「中国に関する9カ国条約」(列強がヨーロッパの戦線に全力を傾けていた隙に日本が対華21カ条の要求をしたことが遠因)が結ばれます。  その内容は、  1、中国の門戸開放 2、列強の中国に対する機会均等 3、中国の国家としての主権尊重の原則  ということでしたが、その結果、  第一次世界大戦の戦勝国で、戦場にならず、工業生産力の急激な向上があり、ヨーロッパに比べて、中国に対する工業製品の輸出に有利な日米の経済ガチンコ対決(貨物船が大型化して数千トンクラスのものが一般的となり、太平洋を横断しても、アメリカ西海岸からなら、日本からの輸送と対抗できるようになった。)の様相となっていきました。  しかし、当時の技術力・生産力から、中国における純粋な経済戦争では、日本はアメリカに対して劣勢という状態が固定化していきます。  そのような状態を挽回する策として、石原莞爾が「満州事変」を演出します。 ・「世界最終戦論」  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%88%A6%E8%AB%96  石原莞爾の戦略通りに日本が動けば、歴史は変わっていたでしょうが、現実は質問者さんもご存じの通り、全く異なった方向に進みました。  以下、満州事変・日華事変・対米開戦の流れを詳述します。 <日本の政権構造と満州事変・日華事変・太平洋戦争(=対米戦争)の経緯>  ― 満州事変と支那事変(日華事変・日中戦争)は、ある点で性格を全く異にしています ―  戦前の政治体制では、軍(皇軍=天皇の軍隊。陸軍=参謀本部、海軍=軍令部)と内閣(=行政府)は同格の存在として、天皇の下に並立しています。(統帥権の独立)  明治・大正時代までは、枢密院が天皇の補佐として実質的に日本の政治・軍事を統括した国政の主導機関として機能していましたから、並立する軍・内閣を統合するシステムが存在・機能していました。  ところが、昭和になると枢密院の権威の低下と(枢密院は事実上、その構成員の個人的力によって動いていました。明治時代の枢密院のメンバーは、明治維新の立役者であり、倒幕軍の指揮官を経て新政府の高官となった人が多く、軍・政両方に幅広い人脈を持ち、両者を統括する力を持っていました。)、天皇自身のリベラルな考え方(美濃部達吉の天皇機関説とほぼ同じ考えを持っており、御前会議では、ほとんど異議を唱えませんでした。例外は2・26事件と終戦の決断の二つといわれています。)の結果、軍と行政を統合した国際的視野を持った政治判断が失われてていきます。  この、政治=外交と軍事を統合する視野を欠いたまま、満州事変・支那事変(日華事変・日中戦争)が起こっていきます。  ですから、中国本土への介入が日本と言う国家にプラスかと言う国家としての戦略的判断なしに、支那事変が起こり継続されます。 ・満州事変  「石原莞爾」という特異な才能の元で、演出されました。  上に述べたような政治状況の中で、政府・参謀本部ともに「満州では、張学良と極力事を構えない。」方針でした。(満州の軍閥、張学良の兵力は、満州に駐留している日本軍の10倍あるといわれていたからです。)  ところが、満州派遣日本軍(=関東軍)の参謀であった石原莞爾・板垣征四郎が、この方針を無視して軍事行動を起こし、張学良軍を電撃作戦で圧倒、軍事作戦としては大成功をおさめ、満州を占領してしまったのです。  この大戦果に、参謀本部・日本政府ともに関東軍の軍事行動を追認し、満州国建国に至ったのです。(ここまでは、石原莞爾の戦略通りの展開となりました。)  その結果、石原は陸軍同期の中で最も早く大佐となり、陸軍内部で「軍参謀は中央の方針に反しても、作戦で戦果を挙げれば、出世する。」という認識が生まれることとなりました。  石原莞爾は、満州を取って「日本・朝鮮・台湾・満州を日本の経済圏として開発することに専念すれば、アメリカに対抗できる。」との見方を持っており、そのための戦略として、満州を勢力下に置いた後は、他国との軍事衝突は外交力を総動員して回避し、軍事費を抑え経済開発に専念するというものでした。  日本は、当時一等国と呼ばれたイギリス・アメリカ・フランスに比べて支配地域が遥かに小さいため、イギリスなどのように植民地を未開発のまま薄く搾取する政策を取るのでは、これらの国に対抗できませんでした。  そのため、支配民族のレベル向上による独立運動激化のリスクを知りつつも、占領地を徹底的に開発して国力向上を目指しました。  国際連盟では、リットン調査団の報告にもかかわらず、常任理事国である日本の行動を容認する意見も強く(第一次大戦後の国際的な厭戦気分が影響しています。当初、ドイツもこの傾向を利用して、英・仏と戦うことなく国土の拡大を行ないました。)、石原莞爾の思惑通り事態は進むかと思えました。  ところが、国際連盟で討議している最中に、日本軍が満州から中国に侵攻を開始(熱河作戦)し、面子をつぶされた国際連盟の諸国の態度が一変します。  <理由>  第一次世界大戦後の世界平和の空気の中で、「中国に関する9カ国条約」1922年が結ばれ、(列強がヨーロッパの戦線に全力を傾けていた隙に日本が対華21カ条の要求をしたことが遠因)  中国の門戸開放  列強の中国に対する機会均等  中国の国家としての主権尊重の原則 が確認されました。  この条約に対する日本の違反に対して、『満州は中国ではない』という論理が、一応成立する余地があり、満州族の清朝皇帝溥儀を擁立しました。  ところが、熱河作戦の地域は、山海関を越えていて満州ではありません。                                              続く

  • jkpawapuro
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回答No.2

日本がアメリカと戦いたかったのではありません。 アメリカが日本を潰し日本の市場を奪いたかったのです。 そのため日本は先制攻撃をかけたのにすぎません。 別にフィリピンやグアムに米軍がいなかったとしても、相手に戦術的に有利な状況で先制攻撃を許すようでは愚策です。 また蘭印の油田開発には米資本も入っています。 ここに攻撃をかけるはアメリカに攻撃をかけるのと同義です。

  • tanuki4u
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回答No.1

日米開戦の主原因は 中国市場の主導権を誰が握るか ということ。 中国市場の主なプレーヤは 日本 アメリカ イギリス ドイツ ソ連 ドイツは日独防共条約で話をつけることができた http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化されたが[1]、日独防共協定が締結されると関係は弱められた。 以上引用 イギリスは本国が対ドイツ戦で大変なことになっていた 1941年 4月 日ソ中立条約 ということで1941年の後半において、日本の中国市場における優位性を確保するにはアメリカの了解を得るのが最重点であり、アメリカはそんなことを了解しない。 ※ 仏印進駐に文句を行っているのはアメリカであってドイツ支配下のフランスでもなければフランスを支配下に入れていたドイツでもない。 アメリカと戦う(熱戦にしても冷戦にしても)には石油をアメリカから輸入している以上不利なので、南方の資源を確保しようという発想が生まれた。 南方の資源が欲しいからアメリカと戦ったのではなく、アメリカと戦うために南方の資源確保に動いたということで、因果関係が逆になります。

sindengen9
質問者

お礼

回答どうも有難う御座います。 外相松岡洋右は言っています。「アメリカを敵にするつもりは毛頭ない。」 アメリカを仮想敵国とする海軍の首脳部の一致した意見はアメリカと戦う無謀性を説いています。 海軍が対米戦に踏み切る決意を固めた理由の一つに、望み薄の日米交渉に期待するよりも「フィリピンの防備が強化される前にやりたい」というのがあったようです。