数ヶ月前に、地元の新潟日報がコラムで論じていましたね。
一応それとは関係なく私の知識、意見をお話しますと、当時、越後からたくさん江戸に出稼ぎに出ていたんですね。
「いまでも東京の風呂屋さんの大半は越後出身だ」という話を読んだこともあります。
従って、江戸庶民には「越後」というのがなんとなく身近な名前であり、同時にはるか遠くの、自分には関係ないような(悪口を言いやすい)場所だったのです。
聞いたことがない場所なら、名前を聞いてもすぐ忘れますからね。いまでも、申し訳ないですが、島根県などはどこにあるのか地図で示せない人、多いでしょ。学校でキチンと習うのに。
そんなことから、水戸黄門漫遊記などで、黄門様の仕事は「越後の縮緬問屋」ということにもなりました。別に越後の縮緬問屋である必然性はなく、富山の薬問屋でも、山形あたりの紅花屋でもよかったのですが、越後が選ばれました。
そこへもってきて、(時間の前後はおくとしますと)、越後屋が有名になりました。今の「三越」の前身、越後屋呉服店。
店主の「三井」家のご先祖が「越後守」だったことに由来します。
「現金掛け値無し、薄利多売、正札販売」という画期的販売法での販売を始めて大繁盛し、江戸の人間なら知らない人はいないくらい超有名となりました。
観光名所になり、公儀御用達にもなり、「日本永代蔵」という本にも書かれるくらいになったようです。
そうなると、貧乏人の悲しさ・・・ あんなに大きくなったのは、裏で・・・ というやっかみ、陰口も出てきますな。人の世の常。
よく聞く名前で、悪口を言っても叩かれない程度の親しみがあり、なんとなく悪いこともしていそう・・・ ということで、「おぬしもワルじゃのう」という時の名前にされたのではないかと思います。
先の新聞には、「越後が有名になったのは、水戸黄門が越後の縮緬問屋と言われたことも影響しているんじゃないか」というようなことも書いていましたが、私は上述の通り逆だと思っています。
つまり、越後が有名だったから、越後の縮緬問屋になった、という関係だと思っています。
ちなみに、その新聞によると、当然ですが、三越は「弊社のことではありませんので、関知しません」というコメントを出しているそうです。
お礼
そうなんです 確かにテレビで 越後屋を見聞きした記憶がないんです いったい誰がひろめたのか