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肥前の熊
龍造寺隆信が沖田畷合戦で島津軍に大敗した理由し何でしょうか? 隆信の軍は島津の5~8倍の兵力だったはずです やはり隆信の油断(彼は討ち死にしてます)か島津が凄かったのか…
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沖田畷はその名の通り、田んぼとなっている場所です。しかもただの田んぼではなくていわゆる深田なんですね。深田っちゅうのは難儀で、現代でもトラクターや田植え機が沈んでしまうことがあるそうです。 ですから鎧を着た武士なんかが入れるわけがなく、自ずと進撃路はあぜ道ぞいにならざるを得ません。 そうなると、まず兵力有利が有効に使えません。数が少ない側でも互角に戦うことができます。 さらに、島津の精兵です。兵力互角なら島津軍が有利に戦えました。そして、島津方が押し返したときに悲劇は起こります。 竜造寺軍は兵力有利ですから、逆にいえば前後に長く兵が詰まっています。最前線の兵士が島津軍に押されて後退し始めたとき、後方の兵士は逆に前に押している状態となります。狭いところで前からは後退してくるのがいて、後ろからは前進してくるのがいる。中間は押しくらまんじゅうになり、大混乱になります。潰れてしまうので、後ろの兵士に対して押してくるな、戻れと命じざるをえません。 さて、そうなると、後方の部隊に対しては前進するな、後退してくる味方のために道を空けろとなるわけですが、パニックになった前線の兵士たちは大混乱になって潰走してくるわけです。そうなるとその潰走がどんどん伝染して総軍大崩れ、となります。 こうなってしまうと、鍋島直茂だろうが上杉謙信だろうが諸葛孔明だろうがナポレオンだろうがどうすることもできません。さらに不幸なことに、龍造寺隆信は非常に太っていて馬にも乗れないため御輿に乗せられていたそうで、そのうえ隆信自身が非常に残虐な性格であったそうです。そういう性格だったということは、「命に代えても主人を守る」なんていう忠誠心は望めないということでもあります。大混乱の中、御輿を担いだ雑兵たちは御輿を捨てて逃げてしまったそうで、そうなると歩くのもままならないデブオヤジが戦場に残されるという事態になり、打ち取られてしまうという事態になりました。 なんとなれば、たぶん味方の武士たちからも「ヘタに主人が生き残ると後で『よくもわしを見捨てて逃げやがったなあ。たっぷり可愛がってやろうじゃねえか』となって恐ろしくってたまらねえのでいっそここで島津が打ち取ってくれないかなあ」と思われたのではないかと思います。 だから主人が打ち取られるという事態になっても、後釜に鍋島直茂が入ると案外にスムースにみんな従っていて、ということは「鍋島様が主人になるなら納得だねー。むしろ前よりいいんでねえの」と思われていたのではないかな、と思います。
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- tanuki4u
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1578年 耳川の戦い 49歳 大友宗麟が島津家に敗れる 1580年 粛清強まる 51歳 1584年 沖田畷合戦 55歳 1587年 大友宗麟死去 1582年 本能寺の変 45歳 織田信長が明智光秀に殺される 1582年 山崎の戦い 45歳 1583年 賎ヶ岳の戦い46歳 信長旧臣の中でのNO1確定 1584年 小牧長久手 47歳 織田家を保護下に置く 1585年 四国攻め 48歳 1586年 九州征伐 49歳 大友家を完全に支配下に置けなかったので大敗した。 耳川の戦いまでは、龍造寺家は、大友家に服従しています。 同じように山崎の戦いで織田家から離脱しだした秀吉と比較すると構造がわかりやすい。 秀吉は、直接の主人だった信長が死んだおかげで、二年後には織田家を保護下に置くことに成功します。 このあとで、旧信長勢力圏から出てい行きます。 対して隆信の主人、宗麟は島津に大敗しながら死ななかった。 隆信は北九州の各武将に対して常に「同輩」という視線があり、自分が同輩より優秀であることを証明しなければならなかった。 証明とは1つには、旧同輩の粛清であり、軍事的な成功です。 このために冒険的な戦闘を行う必要があり、沖田畷の合戦の発生と討ち死にへとつながります。 耳川の戦いで宗麟父子が死に、有力外様として龍造寺隆信が大友家を支配下に入れる なんてストーリーだったら、沖田畷の無茶な戦いも起きなかっただろうに
お礼
ありがとうございます
- Verhalten
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釣り野伏せでたまたま本陣(最後方)を衝けたのでしょう。 この戦力差で包囲(持久戦)を挑むのは愚か過ぎます。 ここは大将を討ち取り、総崩れで逃げ行くように仕向けるべきです。 すなわち、 本体は囮で誘導役。 大半が本陣へ当たる伏兵であった公算が大きいです。 絶対的優勢にあぐらをかいた隆信の慢心もありますが、 攻勢ならどんどん進んで行ってしまうのが兵です。 一番槍や一番乗りが褒美が高い時代です。 これを討ち死にしたから評価を下げるのは問題があります。 むしろ、その習性を巧みに利用した島津家久に軍配が上がります。
お礼
ありがとうございました
- mekuriya
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沖田畷の地形がどうだったか。私には土地勘がないのでなんとも見当がつきませんが、大軍が数を活かせない地形というものがあります。また「大男、総身に知恵が回りかね。」という諺があるように大軍は臨機応変に状況の変化に対応することが難しいのです。例えばJRだと一箇所の人身事故が全線に波及して長時間混乱が継続してしまうのに対し、私鉄だとあっさり復旧できたりします。大軍であればあるほど、想定外の事態に弱い。指揮系統、連絡系統が混乱して、事態を把握することに遅れを取ってしまうのです。当初の計画通りに進んでいるうちは数を頼りに圧倒できても、ひとたび予想していなかったことが起きるとたちまち収拾不能になってしまうのです。 戦国時代にもままそういうことが生じて、大軍が無残に小軍に負けてしまっている。厳島の戦い、桶狭間の戦いなんかがそうではなかったか。 戦の帰趨は兵力だけでは決まらなくて、地形や作戦の巧拙が大きく影響するということです。
お礼
回答ありがとうございます しかし龍造寺には九州一の軍師と呼ばれた 鍋島直茂がいたはず それでも敗れたということは やはり地の利に加えて 島津の凄さもあったのでしょう
お礼
ありがとうございました