• 締切済み

自分の殻の外は別宇宙か。

ある人は私であって、あなたもある人であって、わたしもあなたであるみたいなところ・・・ 人間、生きながらにして死んで、その殻の外側にいる場合でも、あくまでも、殻の中にとどまっているのでしょうか。幻想であるのは分かるんですが、殻の中の幻想と殻の外の幻想の違いはなんでしょうか。

みんなの回答

回答No.10

 ひとこと おぎないます。  ★(No.9お礼欄) 私は彼だと言っているのに自己同一性が担保されるフラクタル世界ですか。  ☆ フラクタル世界が   ★★(趣旨説明欄) ある人は私であって、あなたもある人であって、わたしもあなたであるみたいなところ・・・  ☆ のことです。別の言い方をすれば  ○ 大道は無門なり。  無門ということにおいて われわれの存在が互いにあたかも 意識しているか否かにかかわらず 通じ合っているような――後史の――状態を言います。  ただし 無門の中に入って行くと 一人ひとりおのれの《意志の座》は しっかりとあきらかなかたちで あります。とこたわっているのみです。  ★ 殻  ☆ は要らなくなっているであろうと見る点では 質問の趣旨に対して批判的な回答です。  そうして 殻は見当たらなくなっているけれど 一人ひとりの持つ――大きくは現実でもある――幻想のあいだの違いは 意志の座にあります。意志の座は おのおの《わたし》に固有のものであって 他人のそれに取って代わられることはない。それゆえ 宇宙の果てまで 《大道》が通じていると同時に 個人どうしの間にも違いがある。  こういう回答です。

ukiyotonbo
質問者

お礼

解ってますって・・・・ 既に、  生きながら死ぬ矛盾。あなたが考えられなくなることがよく解ります。 とも記載してます。

回答No.9

 ★(No.6お礼欄) ~~~   >そういう場合は 考えられないと思います。  生きながら死ぬ矛盾。あなたが考えられなくなることがよく解ります。  ~~~~~~~~  ☆ これが何を言っているのか わたしには分かりません。  ですから もうこの辺でわたしは下がろうと思いますが 次のくだりについて ひとこと なお言えるかと考えました。  ★(No.7お礼欄) ~~~  ありとあらゆる物事、思考、世界、自然、あらゆるもの全てが殻の「中」です。  その殻の外が「外」です。  ★(No.8お礼欄) ~~~  よく自分の殻の中に閉じこもると良くない と言われます  殻を割って私は彼であるといえる境地では元の私は死んでいるという幻想を思い抱く訳です。  ~~~~~~~~~  ☆ タトエによる表現になりますが けっきょく蝶になれば 自由に空を飛べるわけです。殻は もう要らなくなります。  意志を中核とする存在 しかも個別に《わたし》 これは しかしながら 自己の同一性を保っています。  1=1  1x1=1  1^n=1  ただし《わたしはわたしである》そのわたしにも 自己同一性を保ちながら 蛹の前史とそしてそこからあらたな後史へと変態していくような過程 このような歴史的動態があるだろうと見ます。  ★ 自分の殻の外は別宇宙か。  ☆ 《殻》があるかぎり 内と外とか 宇宙が別かどうかだとかの議論がつきまといます。脱皮したなら なくなりましょう。  ただし 存在の中核としての意志については あくまで個別にしてもっぱら《わたし》に属すものだと思います。  ○ 神は アブラハムの神 〔アブラハムの子の〕イサクの神 〔その子の〕ヤコブの神である。  と言われることと同じ内容だと見ます。神が 十把一絡げのごとく多くの人たちの間で・あるいはふたりの間でさえ一体として共有されるということは ほんとうにはないわけです。良心および信教の自由のもとに持つに到ったその神が 結果としてほかの人の神と名前が同じであったということがあるだけです。  意志ないし意志行為が 人びとのあいだで混同されるということはありません。わたしの意志行為があなたの意志行為になるということは またその逆も あり得ません。  《代理》ということも ほんとうには成り立ちません。ハイやイイエという具体的にして結果として出された判断としてのみ代理するだけです。  意志行為の主体であることにおいて ひとはそれぞれ掛け替えのない存在であるというわけです。文学的に言えば 《ひとは 神に似せて造られた》です。  タトエで神は愛であると言われるとき 意志が愛です。  殻を破って成虫になり 自由に飛び回っていても 愛は消えてしまったわけではない。変態のあとの後史(ないし本史)では 前史のいがみ合いなる〔これも意志行為として〕愛が ゆづりあいなる愛に脱皮していましょう。  はづれているなら 勘弁してください。そして 忘れてください。

ukiyotonbo
質問者

お礼

>自己の同一性を保っています。  私は彼だと言っているのに自己同一性が担保されるフラクタル世界ですか。  あなたには、あなたの核があり意志があり現実であるという。それこそが生きていることだという。    私の疑問自体を単に否定頂くのは結構ですが、「神」だの「愛」などを持ち出して宗教じみた話にすり替えるのは勘弁して下さい。  あなたは、あなたの生と愛を謳歌なさってくだい。  

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.8

ヨーロッパ言語の詩の分野では扱いやすいかもしれませんね。 よく、私たち、とか、あなたたち、という融合した主体を置いて、詩人が視点を重ねたりする。 ラテン、ゲルマンは、文法的に時制やモードを駆使してそういうことが厳密にできる言語ですから。 それに生(生きること、人生)という単語が日本語よりも思想をふくんでいるのです。 ご質問の意味がとりづらいので、もうちょっと工夫をして書いていただけますか。

ukiyotonbo
質問者

お礼

>もうちょっと工夫をして書いていただけますか。  よく自分の殻の中に閉じこもると良くない と言われます  殻を割って私は彼であるといえる境地では元の私は死んでいるという幻想を思い抱く訳です。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.7

ukiyotonbo様、こんばんは 「「あれ」は、「これ」か?」というのが、「こそあど」の世界においてある、 どこまでが「中」で、どこからが「外」か、と仰るのでしょうか

ukiyotonbo
質問者

お礼

>どこまでが「中」で、どこからが「外」か、と仰るのでしょうか  ありとあらゆる物事、思考、世界、自然、あらゆるもの全てが殻の「中」です。  その殻の外が「外」です。

回答No.6

 ★ 《生きながら死す》というかたちで《死んでいる》場合を言ってるんです。  ☆ これなら 分かりません。  そういう場合は 考えられないと思います。  

ukiyotonbo
質問者

お礼

>そういう場合は 考えられないと思います。  生きながら死ぬ矛盾。あなたが考えられなくなることがよく解ります。

回答No.5

 ★ ~~~   > 人間は。  これは、なんですか。  ~~~~  ☆ 主語と述語との倒置です。  ★ ~~~   >生きている。そういうことです。  生きながら死すると言っているではありませんか。  ~~~~  ☆ 《生きながら死す》というかたちで《生きている》場合を言っています。  前史を終えて後史に入った状態を想定しています。  《死す》という表現は あまり好きではありませんが。

ukiyotonbo
質問者

お礼

>主語と述語との倒置です。  いやいや、まいったな。  ここでは、人間とは何ですかと直接聞きました。  後段で分かります わたしの質問の人間とあなたの人間は違うことが。 >《生きながら死す》というかたちで《生きている》場合を言っています。  《生きながら死す》というかたちで《死んでいる》場合を言ってるんです。  生きているなら社会も自然も宇宙も前史も後史もその限界が殻。  それとも、そんなこんなも生きている証拠ということなんでしょうか。  あなたの社会、自然、前史、後史、そのフルクタル世界の殻の外にいる私はあなたの死の一部か。  それとも無理やり自然の一部に同化されるか。 そうですね。冒頭の質問に戻ったほうがよさそうです。 自分の殻の外は別宇宙ですか。 生きている人間である以上、別宇宙にならない・・ですか。

回答No.4

 ふたつ申し上げましょう。  ★ 意志を意志だと思っている幻想、あなたにもみんなにも全体にも意志があると思っている幻想。  ☆ 《幻想》だと判定するのは あなたの意志です。経験的で移ろいゆくべき相対的な世界における出来事であるに過ぎませんが そのように言わば一回きりの意志行為をそのつどおこなって生きています 人間は。  ★ ~~~~  幻想に界面があるのは、幻想の核ゆえ。  生きながらに死して何もなければ何も無し、有るように在るなら何でもあるという現実ですか。  ~~~~~~  ☆ 意志行為ゆえに 幻想も現実の一部だと見なされるのです。  ★ 何も無し 何でもある  ☆ というのっぺらぼうの様相を呈していますが その経験世界も その主役である人間にかんしては 移ろいゆくべきものでありつつ中核がある。生きている。そういうことです。  ちなみに  ★ 界面  ☆ は無い場合があります。《殻》はすでに脱皮しているという場合です。個と社会のそれぞれの単位体とそしてさらに自然界とそれぞれフラクタル構造のごとく一体であるという場合です。  それぞれの単位体が分かれて存在しているではないか? というツッコミに対しては それは 前史での見方としてはあったし まだ前史にとどまっているひとたちには その殻や界面はあると見えている。という意味です。

ukiyotonbo
質問者

お礼

> 人間は。  これは、なんですか。 >生きている。そういうことです。  生きながら死すると言っているではありませんか。

回答No.3

 ★ (No.2お礼欄) ~~~   >意志であるか無いかです。  生きながら死する話なんです。とは言っても、意志は残留します。しかし、意識されません。   >☆ おのおのの意志行為にあります。  意識されないなら、あなたもわたしもみんないっしょということですか。  ~~~~~~~~~  たとえば大洪水に遭ったばあい あちこちの池は 分からなくなります。でも それぞれがあります。同じように もしたとえ  ★ あなたもわたしもみんないっしょということ  ☆ であったとしても 溶け合ってしまうということはないと思われますが どうでしょう?  ★ 意識されなくても 意志は残留します。  ☆ ゆえです。  もし仮りにさらに極端な場合を想定してみるならば たとえば  ○ みんな互いに溶け合ったごとく あなたもわたしもみんないっしょということ  に成ったとしたらどうか?  たぶんそれは みんなそれぞれが互いに対して何ごとについてもゆづり合っているからでしょう。  ゆづるというのは意志行為ですから そしてそれは《わたし》ないし《ひとり》としての行為なのですから その《溶け合った》という状態が完全に成ったということではないと思われます。  何と何とが つまり誰と誰とが溶け合ったのか その一人ひとりの輪郭のようなものは分かるということだと思われます。  輪郭と言うより――《殻》というより―― 原子核のほうでしょうか。  《にんげん》は そういう動物だと考えます。  食べたり寝たりするのは 代わりに誰かがおこなっておくというわけには行かない。そのかたちが おそらく《わたし》として存在しており その中核は《意志行為》にある。こう思われます。  《ゆづりあい》というのは たとえば中華料理のごとく円いテーブルを囲みみんな互いに一つひとつの料理を回し合ったり箸で取って どうぞと言って相手にわたすというようなことなのでしょう。

ukiyotonbo
質問者

お礼

意志を意志だと思っている幻想、あなたにもみんなにも全体にも意志があると思っている幻想。 幻想に界面があるのは、幻想の核ゆえ。 生きながらに死して何もなければ何も無し、有るように在るなら何でもあるという現実ですか。

回答No.2

 こんにちは。  ★ 幻想であるのは分かるんですが、殻の中の幻想と殻の外の幻想の違いはなんでしょうか。  ☆ それは 意志の有無です。  つまりは おのれの意志であるか無いかです。  認識や感覚は 他のひとと共通であり得ますが 意志は たとえ同じかたちで表現されたとしても 共通ではありません。独立した個々の意志が共同化され得ますが(つまり 同感や同意され得ますが) もともと同じひとつのものだったということはありません。    意志は ひとが社会的な存在であるゆえに 社会的に(つまり相対的な意味において)のみ独立しているに過ぎませんが それとして他からまた外から独立していると考えられます。一人ひとりがそれぞれ掛け替えのない存在であるという意味です。  人間にとって 生まれつきの存在においてあたえられた条件です。(という想定です。公理だと思います)。  ★ ある人は私であって、あなたもある人であって、わたしもあなたであるみたいなところ・・・  ☆ 《わたし》は じつは 固有名詞なんです。何野何兵衛という名前は 代名詞なわけです。むろんそれでは不便ですから 逆になって使われています。  《わたし》は 一人ひとりにおいて 固有名詞であり それとして独立した存在です。その存在の中核は 意志です。意見や感情は互いに共有し得ますが 意志(つまり 存在のあり方やおこないとしての最終の判断と実行)は 共有し得ません。表現された思想や共にはたらくその作業が共同化され得るまでです。  よって  ★ 幻想の違いは  ☆ おのおのの意志行為にあります。

ukiyotonbo
質問者

お礼

>意志であるか無いかです。 生きながら死する話なんです。とは言っても、意志は残留します。しかし、意識されません。 >☆ おのおのの意志行為にあります。 意識されないなら、あなたもわたしもみんないっしょということですか。

回答No.1

我々が見ているのは、「自分の中」です。 外を見ているといっても、それはせいぜい感受器官の刺激に よって励起されるニューロネット(神経線維網)のインパルス のネットワークに過ぎません。 その「自分の中の“自分の見る宇宙”に射影する自分」とは、 自我仮説(記憶=時間の流れ=過去=超光速)と時空仮説 (予測=空間の広がり=未来=光速下)の相補分化(階層現象 表面的定性化による非光速性)によって派生する時空におけ る無の射影(無=不確定性無限の潜在的認識可能性=感受 表面=現在=光速)に他なりません。 自分という殻の内なる宇宙(意識)にさらに映る「自分(肉体)」 とは、認識可能性=感受表面での量子相互作用=光速性の 内と外に、超光速(過去=進化の過程の射影=内)と光速下 (未来=可能性(空間)における予測)を分け、その境界で折り 曲げて重ねる(経験(過去=時間軸)による予測(未来=空間軸)) ことで、時空的認識を可能にしているのです。 相対性理論の四次元時空の式において、時間項は虚数に なっており(超光速におけるエネルギーも虚数)、そのため 空間軸と時間軸の等距離点に、“ゼロの面”ができます。 それが「ライトコーン」、即ち光子の形成する面であり、光速 以下の領域(未来)と超光速の領域(過去)を分ける界面 原点なのです。 その認識体(現在=光速)による大ざっぱな認識=階層現象 表面的定性化における非光速性に基づく時空仮説に対する、 無の射影が存在=量子なのです。 即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の 相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」 という無の射影として、存在は生じていると言えます。 無いとは分からない事が有なのです。

ukiyotonbo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 おっしゃることはよく解ります。まさに界面、その殻ですね。 私は、他人の殻の外側に存在すると投影している存在なんですけど、あなたの存在は本当に存在しているのですか。どう回答されても知り得ませんが・・これもライトコーンの界面に等しいですね。

関連するQ&A