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環境が語りかけてくる

勘違いされると困るので述べておきますが、喋りかける声が聞こえるわけではありません。 ただ、様々な音などが意識され全体として有機的なメッセージとして受け取ることができるというものです。 例えば、雨の音の強弱、鳥の鳴き声の変化、湿り気などで、雨の到来を察知するという具合です。 これらは、ごく常識的科学的な事柄なのですが、私からすれば「環境が語りかけてくる」としか表現しえません。 これらに似た事柄に対して言及した哲学者や美術家、学問の分野などあれば教えてください。

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  • el156
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回答No.9

No.8のお礼欄のアフォーダンスは、どちらかと言えばD.A.ノーマンのアフォーダンス(ユーザーインターフェースのアフォーダンス)だと思います。オリジナルのJ.J.ギブソンのアフォーダンス(生態心理学のアフォーダンス)は、少し焦点が違います。 生態心理学のアフォーダンスは、音や光の構造など「もの」の物理的な情報に代わる、「もの」の「生態的な情報」であって、情報の最少単位として直接知覚されます。 「ドアの取っ手と人間の体の構造の関係からドアを引くという行動が可能であることを見出す」という過程について考えるなら、その過程が人の「頭の中」で行われる推論ではない、という点が重要です。ドアノブを引くことができる、という情報は推論によって帰結されるのではなくて、元々情報としてドアノブに内在していて、人はそれを探索行動によって直接探し当てます。 「ドアノブの構造を認識する→自分の手の構造と比較する→ドアを引くという行動が可能であると判断する」 というような推論の過程は否定されます。重要なことは、最初にプリミティブに知覚されるものが「ドアノブの物理的な構造」では無く、そんなものを知覚しなくてもアフォーダンスが直接知覚される、ということです。私たちが知覚する全てがそうです。 赤く熟れたおいしそうな果物を見たとき、それは赤く熟れているからおいしそうなのだと演繹されるのではなくて、食べられる、というアフォーダンスが直接に知覚されます。この場合、食べられるというアフォーダンスは、人でなくても、鳥や虫にも発見されます。赤く熟れているから、という理由は、あと付けの解釈です。 この考え方は、「意味」を人の頭の中から解放します。「雨の到来」に限らず、環境には意味が溢れていて、私たちは常にそれを探索しています。「意味」は推論の結果ではなくて元々環境にあるから人と人は意味を共有できます。意味は元々環境にあるから、利用するのに必ずしも脳を必要としません。だから、つる巻き植物が周囲の構造を利用するように、脳を持っていなくても、生き物であればアフォーダンスを利用できます。

MOG777
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 楽しい楽しい^^ でも、わかんない~ 補足に質問するのでよろしく~

MOG777
質問者

補足

アフォーダンスはあまりに手に余り過ぎる対象ですので いずれ改めて質問させていただきたいと思います。 ありがとうございました。

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その他の回答 (8)

  • el156
  • ベストアンサー率52% (116/220)
回答No.8

NO.4の方が仰っている通り、私もそれはアフォーダンスだと思います。 (DAノーマンのアフォーダンスではなくて、生態心理学のアフォーダンスです。) アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12)) 佐々木 正人 生態学的視覚論—ヒトの知覚世界を探る  J.J.ギブソン アフォーダンスの心理学—生態心理学への道 エドワード・S. リード あたりは、読まれたことがありますでしょうか? ものの意味は見たり聴いたりした光や音などから頭の中で考え出すものではなくて、 意味はもともと環境の方にあって、探索して発見するものだという理論です。 アフォーダンス理論という訳ではありませんが、 「ヘレンケラー自伝」にも、これに近いものを感じました。

MOG777
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 アフォーダンスは難しいですね・・・こういうことでしょうか? 例えば、ドアの取っ手と人間の体の構造と環境に内在する力学的な構造が相互作用し ドアを引くという行動を指し示すということ。

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noname#156094
noname#156094
回答No.7

私に起きた具体例です。 大分前の事です。 仕事の休み時間の時でした。 晩春の頃で、木の芽が開きはじまりの頃だったと思います。 職人さん達と一緒に座って、お茶を飲んでいました。 少し風があったと思います。 紺色の作業服を着ていましたが 膝元を何気なく見ると、小さなものが目につきました。 何だろうと思って、手で取ってみると、小さい葉っぱでした。 1cmにも満たない小さい葉っぱでした。 手でつまんでよく見ると、木の芽が開いたばかりの薄い黄緑色の葉っぱでした。 何の木の葉っぱかは分かりませんでしたが 小さくても、きちんとした葉っぱの形をしています。 半ば透き通るような色あいで、何となく、ぱちっとした感じです。 その時の最初の印象は 何てかわいいんだろう、何てきれいなんだろう といった感じでした。 次に思ったのは 知らせかもしれない、小さい新しい命の知らせかな・・・誰だろう・・・ と思いました。 ズボンの膝の上にそれを乗せておきましたが、お茶を飲んでから見ると、ちょっとした時間の間に消えてなくなっていました。 それから2、3日して、姉から娘が身ごもったという話を聞きました。 あ、いいことだ、よかった、と思いました。 やっぱり、あの葉っぱがそうだったのか、印だったんだな・・・と思いました。 その姪子は私が自分の子供のようにかわいがっていた子です。 身内の事では知らせを受けることが時々あったので、それほど不思議な感じはしませんでした。 むしろ、自然なことのように思えました。 これが青信号みたいな知らせです。 反対の黄色の信号もあります。 こうした事は、ただの偶然と見ることもできるでしょう。 でも違うのです。 幾度も重なってくると、偶然という見方は消えてしまいます。 私は予知とか、霊感とかいう言葉はあまり好きではありません。 それよりも自然が教えてくれた、というように受け止めています。 勿論、私なりの自然への働きかけ、というものはありますが 気が付いたら、いつのまにか返事を受け取っていたという事なのでしょう。 また、閃きについて、大分考えたことがあって こうした事は、全体から個への伝達、有形の閃き、といったものではないかと思っています。 語りかけ、という無形の閃きを聞くようになってくると いずれは有形の閃きを聞く(見る)ようになってくると思います。 それが現実に照らして確かなものだと知るようにもなってきます。 流れていく時間の中で、自分に知らされたという事が自然な事だというように受け止められるまでには、少し時間がかかります。 でも、自然に対して勝手な解釈を控えて素直な気持ちでいれば、精神的に何ら問題はないと思います。 楽しいことも、楽しくないことも受け止めなければなりませんが 必要なことを知らされたと思えば頷くのみです。 私が知らされているのは、狭い範囲に過ぎません。 その範囲は人に自慢できるものでない事は確かです。 それでも、きれいな知らせを受け取った時は、幸せのように感じます。 感謝の気持ちも湧いてきます。 また、反対の知らせを受け取った時には、辛いものです。 なぜ受け取らねばならないのか、という思いにも捉われがちになります。 でも、もう慣れてしまったような感じもします。 慣れるまでに少し時間がかかります。 黄色の信号の知らせについては、ご容赦ください。 お話するのが少し辛くなってしまいます。 上の話と正反対の内容が多いという事をお心得ください。 暗い気持ちにならざるを得ない事もある、という事を承知しておいてください。 以上です。 少しでもご参考になれば幸いです。

MOG777
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そういうこともあるのでしょうけど、微妙な精神のバランスをとらなければ暗黒面に落ちそうですね。 昔の庶民は思考に偏っていませんでしたから感度が高く、誰にでもおこる現象と捉えていましたが 現代においては妄想的に珍重されるかもしれません。

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noname#156094
noname#156094
回答No.6

茂木健一郎さんの感性を語っている言葉が参考になるのではないでしょうか。 感性そのものには深入りしていない感じも受けますが、広く的確な意見を聞くことができると思います。 以下、実感としての参考意見です。 感性の働きを不思議だと思う時 なぜ?と思ってしまいますが その自分の位置付けは、どの本にも書いてないと思います。 恥ずかしながら、私の場合は実地だけできてしまいました。 学科は無し・・・です。 自然という本だけの実地でした。 今も自分の位置付けは出来ていないと思いますが 自然という本は終わりのない本だという事だけは分かります。 語りかけ、を聞く時 その中に入れてもらえたような感じもします。 (言っていいのかどうか分かりませんが) たまに返事がきます。 多分、向こうでは私の位置付けが決まっているのでしょう。 いつの間にかそうなった。 この頃はそんな感じです。 いずれお分かりになる時がくるのでしょうが 感性の世界への深入りは、青信号だけではなく、黄色の信号もあります。 老婆心かもしれないですが、黄色の信号もあるということを心に留めておいてください。

MOG777
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 具体的な話をしていただけるとより助かります。

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.5

少し、ずれますが。 人間が文字を発明する以前は、音だけで 意思を伝達した訳です。 だから、詩や唄にして子孫に残した訳です。 その時代の人間は、自然の音も言語に近似 したものと感じていたのかも知れません。 だから質問者さんが、環境が語りかけてくる というのは、あながち比喩ではないかも。

MOG777
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 いろいろな情報が右脳で統合され語りかけられるという体験になるというのはありうることだと思いました。 火災で神に導かれたという体験を助かるために脳が生み出した幻想と説明するのと似ています。 ただ、統合される前の世界が基本なのか、統合された後の世界が基本なのか・・・ 俗にいう「神」の要素であるバラバラになった自然の法則や現象が基本なのか 自然法則や現象が右脳により統合され生まれた「神」のような存在が基本なのか・・・ どう思われますか?

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noname#194289
noname#194289
回答No.4

広い意味ではアフォーダンス論にならないでしょうか。

MOG777
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 アフォーダンスは読んだことありますけど、こういう意味だったのかもいれませんね。

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回答No.3

自分の周りの実体的な周囲の環境が、自分の心境に訴えかけるというのは 漢詩や俳句の世界に近いと思います。 江碧にして鳥いよいよ白く、山青くして花燃えんと欲す しずけさや 岩にしみいる 蝉の声 などなど

MOG777
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 俳句なども人が生きるのに有用であるから生まれたのだと思います。 あるがままを心に映すことの大切さ。 松尾芭蕉が伊賀の出身というのもうなづけます。 俳句の歴史を探ってみようと思います。

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noname#221368
noname#221368
回答No.2

 お題よりも、かなり限定された範囲ですが、昔から、   ・合理的に設計された(合理的な力の流れを持つ)構造物は美しい. という思想(?)があります。  サンプル:   http://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00897/2009/pdf/A41D.pdf  この辺りの分野は、ある程度定量化が進んでいるみたいです。

MOG777
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 インタラクティブな関係は学問として発展しているようですね。

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回答No.1

「自然との対話」というと、雪の結晶を分析して上空の気象を 推定し、人工的に雪の結晶を再現した昭和初期の科学者、 中谷宇吉郎を思い出します。 あるいは優れた科学者でありつつ、その観察眼を生かした 自然観察のエッセイを多く残した寺田寅彦とか。

MOG777
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 御両名の書籍など読みたいと思います。

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