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船の旅と貿易:インダス文明とメソポタミアのつながり
- 船は長い旅の後、チグリス川とユーフラテス川のデルタ地帯に到着しました。
- メソポタミアの大都市ウルに到着する前に、船長は現地の漁師を雇ってデルタ地帯の危険な水路を案内させました。
- インダス渓谷の人々の多くは以前にこの旅をしており、ウルに定住している人もいたかもしれません。
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およそ1ヵ月の旅の後、ドーラビラからの船は、チグリス川とユーフラテス川のデルタに到着しました。ここで、彼らは、船長がデルタの危ない水路を通過する船を誘導するのを手伝う地元の漁師を雇うことができるまで休憩しました、その後、船は、ようやく、ウルの巨大都市に到着する事が出来たのです。 インダス渓谷の多くの人々はそれ以前にも旅をしていました、それで、彼らの中にはおそらくそこに定住していた者もいたことでしょう。船長は、たぶん、メソポタミアの度量衡に換算して、彼のアッカド語を話す客のために通訳を手伝ってくれるインダス渓谷出身の商人と連絡を取っていたことでしょう。 南メソポタミアの人々は、すばらしい刺繍を施されたウールのショールや毛布で彼らの商品のいくつかの代金を支払ったかもしれません。彼らは、また、メソポタミアで広く使われてたアナトリア原産の銀で、そして、おそらくエジプト製のより価値ある金のバングルでさえ、取引したことでしょう。これらの簡素な、丸いブレスレットは、金を測って運ぶ便利な方法でしたし、溶かして、他の物に作り変えることもできました。 もっとのんびりした帰路の船旅では、船長は、今日バーレーンと呼ばれている島のディラムに寄港して、メソポタミアの銀や織物とペルシャ湾産の真珠を交換しました。彼は、また、銅や大きな、重い貝殻を求めて、現在オマーンである所のマガンにも立ち寄りました。 ようやく、6月初旬、船長はマストのてっぺんの長い赤旗が南西風の中ではためき始めるのを目にしたことでしょう。それは、モンスーンが強くなり過ぎる前に、出帆して、風を捕える時期が来たことを意味しました。水がめを満たした後、彼と彼の船員たちは、東方のインダス川河口とカッチ湾に向かいました。全部の旅にほぼ5ヵ月かかりましたが、彼は、ドーラビラで大もうけをした貴重品を満載した船と共に帰路につきインダス川をさかのぼりモヘンジョ・ダロに到着したのでした。
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