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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本語訳を!c10-4)
Disappearance of the Late Harappan Civilization and the Rise of Indo-Aryan Influence
このQ&Aのポイント
- The Late Harappan cities of the Indus Valley were never destroyed by warfare, but rather succumbed to contagious diseases.
- The disappearance of the Saraswati River strained the Late Harappan way of life, leading to societal breakdown and the rise of Indo-Aryan influence.
- People from the countryside and highlands, who spoke the Indo-Aryan language and had trade relations with the Harappans, gradually gained power and challenged the Harappans' authority.
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モヘンジョダロの最も高くにあり、したがって最後となった、通りで埋葬されていない骸骨の発見の後、インドラが破壊していた砦がインダス渓谷の城郭都市であると、推定する学者もありました。しかし、後期ハラッパの都市が、戦争によって破壊されたことは一度もありませんし、人々の大集団が、外部の南アジアから来たと言う証拠もありません。歴史家は、不可解な骸骨は伝染病で死んだ人々であったと思っています。墓掘り人足を感染させないように、彼らは都市のさびれた地区に埋葬されずに放置されたのでした。 それでは、紀元前1900年頃に何があったのでしょうか?長年、歴史家は、アーリア人と呼ばれる侵略者が、インダス渓谷に殺到し、馬と青銅製や鉄製の武器の助けを借りて、後期ハラッパ文明を破壊したと信じていました。 しかし、考古学者は大きな戦争の証拠を見つけることができません、そして、インダス渓谷に住んでいる人々の体型はこの時期、変わりませんでした。より可能性のあるのは、枯れて行くサラスワティー川が、後期ハラッパの生活様式に重圧を与え、ついには限界点を越えたのかもしれません。干上がった川床の衛星写真とその堤に沿った発掘物は、川が一時期は巨大であり、川幅がほぼ5マイルであったことを示しています。生活や交易の昔の様式が壊れて行くにつれて、インダス渓谷の人々は生きのびていく別の方法を捜し始めました。インド・アーリア語を話した田園地方や高地の人々、長年にわたってハラッパの人々を知り交易をおこなってきた人々が、歳月を経て力を蓄え、ついには、ハラッパの人々の力に挑むことが出来る様になったのでした。
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