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神への情報
人が知る働きや能動性を、神の如きものだとするならば 人が知る情報とは全て神への情報です。 そこで質問です。 自然や宇宙という無尽蔵の情報を 人という小さな神は、どこまで受け入れてゆく事が出来るのでしょうか? 宇宙という神から、人という神への問いかけです。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
★(No.6お礼欄) ~~~ メタ・コスモス・・・がでてきましたか。 ・・・ 私は神様とは案外身近なところにいるのではないかと思っています。 身近すぎて分からないのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~ 次のように言っていますよ。 ☆☆(回答No.6) ~~~ 神は これら大小のコスモスを超えたところに想定されるのですから 言ってみればこれらすべてのコスモスを覆いつつむメタ・コスモスです。(むろん 比喩に過ぎませんが)。 ~~~~~~~~~ すなわち ☆☆ ・・・これらすべてのコスモスを覆いつつむメタ・コスモス・・・ すなわち ☆☆ すべてのコスモスを覆いつつむ ☆ 《覆いつつむ》のですよ。 ゆえに ○ 神の遍在 ということが帰結されています。つまり ○ ひとの自然本性に神の霊がやどる。 と。つねに一面のみを取り上げてあげつらうのは へたのすけさんのわるいくせです。 ★ ~~~ マクロの上にメタがある となるとメタの上にも、もっと大きいやつがあるのでしょうね。 ~~~~~ ☆ ありません。《非経験の場》だと言っているぢゃないですか。非経験ないし無限が その中で大小・優劣・高低・浅深などなどの相対比較があろうはずがないぢゃないですか。 だめです。入門以前ぢゃわい。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
>どこまで受け入れてゆく事が出来るのでしょうか? 自分の興味が続く限り、受け入れてゆくことが出来るでしょう。 だれでも99歳~100歳ぐらいになると興味を失うようですから、そうなるとそこで許容度が限界になります。
お礼
ありがとうございます。 >自分の興味が続く限り、受け入れてゆくことが出来るでしょう。 簡単な言葉ですが、真実を語っているようにも思えます。 とすればですが、そこに個人的な命題の解決が与えられているかどうかが取り上げられてくると思います。 万物の認識よりも、能動性への帰結こそが救いである・・・といったような言葉もあります。 さて この穏やかで客観的なお答えの目指すところとは・・・ 年とともに限界が訪れる、というところが現実的でいいと思います。 人という神様にも寿命があるのでしょうね。 99歳~100歳まで生きられれば大満足でしょう。 そのときにはきっと ミクロとも呼べない大きな宇宙を見せてくれる存在になっているのでしょうね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
ご返答をいただきました。 ★(No.3お礼欄) ~~~ しかし、神に等しい宇宙の姿を、誰でもある程度知ることができるようになった現在においては 神はすでに想定ではなくなった感がします。 誰でも神を見ることができるようになったのです。 ~~~~~ ☆ これは 比喩でそう表現したというものです。そうでなければ 神を勘違いしています。 言いかえると 神が想定することにおいて持たれるという非経験なる場ではないのならば それは 想定する必要のなかったただの・人間にとっては未経験という領域であっただけのことです。 未経験の領域が経験されるようになったというだけの問題です。 それは 神ではありません。 ひとの得ることのできる情報は No.5さんの指摘するとおり 神ではないですよ。 あるいは 未経験ないし未知のものごとが 既知や既経験になったりすることは すべて経験世界における出来事です。 神は 非経験の場としてこれらを超えており しかも――推測としてですが――このわれわれ経験存在ないし経験世界を覆いつつむかたちとなっていると思われます。 ただし ★ 神にひとしい宇宙 ☆ という見方は 微妙です。 マクロコスモスとしての宇宙とそれに対するミクロコスモスとしての人間という対照は あくまで経験世界の中の問題です。 すなわち 宇宙は マクロコスモスと言ってよいのでしょうが 神は これら大小のコスモスを超えたところに想定されるのですから 言ってみればこれらすべてのコスモスを覆いつつむメタ・コスモスです。(むろん 比喩に過ぎませんが)。
お礼
メタ・コスモス・・・がでてきましたか。 マクロの上にメタがある となるとメタの上にも、もっと大きいやつがあるのでしょうね。 神様とは、遠の遠、高遠の遠という、どこまでも手の届かぬところにいらっしゃるらしい これではいつまでたっても神様にお会いすることは不可能のようです。 私は神様とは案外身近なところにいるのではないかと思っています。 身近すぎて分からないのではないでしょうか。 そんな感じがします。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
それについては、変換するほか、人は受容できないでしょう。 人に備えられたのは知覚という受容器なのですから、 人は知覚を通した信号群として変換されたものを、情報として捉えるのでしょう。 いってみれば、形式を有した、ある展開であり、 展開を戻そうとすれば形式を手放さねばならず、 しかし形式を手放したらなにひとつ意味をなさない。 すでに変換され、認識や知覚の対象となった情報が、さらなる新しい形式を可能にしていく。 それによって、未知の情報は人の受容において展開し、 情報は豊かになる方向性をもつのだと思います。
お礼
ありがとうございました。 ごもっともなご意見として拝聴しました。 読んでから頭に浮かんできたのは 宇宙での船外活動をする人の姿でした。 その超スローな活動の姿は、やはり人間なのだ・・・といった感じです。 でもこの超スローがいいのです。 変換も展開も豊かさも、超スローなままでいい 急げないし、急ぐこともできない 宇宙の中の人間の姿です。 超スローな受容がどこまで行くのか楽しみです。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
まず、質問からはじめます。 >>「が知る働きや能動性を、神の如きものだとするならば 人が知る情報とは全て神への情報です。」 この文が、僕には非常に理解しづらいもので。 $1 条件節にある”神の如きものだとするならば”とは、何を意味するのでしょうか? 神の全知性を意味しているのでしょうか? $2 ”人が知る働きや能動性を、神の如きものだとするならば”という前提から、なぜ、 ”人の知る情報はすべて神の情報です”と帰結されるのかが、分かりません。 マクロコスモス《自然・宇宙》=神 人間の知識の対象は《宇宙・自然》 ゆえに、人間の知識対象は神に対するものである のような定式から帰結されるのでしょうか。 あるいは、 『[小さな]神の知識の対象は、神自身である』 というような形而上学的・神学的意味なのでしょうか。 僕には非常に分かりづらいです。僕には、曖昧に感じられてなりません。 ここが今回の議論の出発点になると思うので、明確にして欲しいところですね。 >>「自然や宇宙という無尽蔵の情報を 人という小さな神は、どこまで受け入れてゆく事が出来るのでしょうか?」 ☆☆☆ まず、素朴な疑問です。 『人は小さな神なのだろうか?』 でも、この議論はよしましょう。 ☆☆☆ $1で述べたように、”神のごときもの"が全知性を意味するのであれば、 小さな神・人間は”自然・宇宙のすべてを知ることができる” ということになるのでしょうね。 でも、僕は『全知全能』や『無限』などという言葉や概念を使用するのは、好まないので、 古代インドの思想からアプローチしてみたいと思います、ミクロコスモス・マクロコスモス的なアプローチに使えそうですから。 質問者は当然、ご存知だと思いますけれども、古代インドの思想に「梵我一如」というものがあります。 梵(ブラフマン)をマクロ宇宙・神・宇宙原理 我(アートマン)をミクロ宇宙・小さな神(プルシャ)・人間 の図式に当てはめれば、 ”マクロコスモスの情報はすべてミクロコスモスに伝わる”、 または、 ”マクロコスモス・ミクロコスモスの情報は常に、そのすべてが我々に開示されている”、 というようなことになるのでしょうね。 また、 その情報を(すべて)読みとれないのは、 受け取る人間の側に煩悩や根源的無知(どちらもヨーガの実修などによって除去可能とされています)などがあるからです。それらのために、人間が、その内に内在する小さな神(プルシャ)になれていないからだ、とされています。 これが真実だとすれば、この質問に対する、一つの答えになりますよね。 しかし、これは言葉・概念を捨て去った心的世界・内面的世界で成立することです。 古代インドの思想(今でもそうかもしれませんが)では、言葉・概念、論理的な思考をすべて捨て去ったところに成立する直観や直観的世界こそが真実(の世界)といった宗教的・哲学的確信があり、人間が小さな神に成り切った時、人間はその全知者性を獲得できる、発揮できるみたいな考え方がありましたから。 ここで新たな疑問が一つ浮かびます。 「ヨーガなどにる心的世界(ミクロコスモスらしきもの)の探求によって、 本当にマクロコスモスの姿すべてを、真理をつかみきることができるのだろうか? ならば、自然科学は不要なのではないか?」 理性や論理の力・働き・威力を《限定付き・括弧付き》で信じる僕は、「本当だろうか」と疑いの目を向けてしまいますが、これは論理・言葉を超えたところで成立する、感得や直覚的な世界の話なので、この点については議論しません。 ☆☆☆ ちなみに、僕は、理性や概念的思考、科学的思考の限界性を認めつつも、それ以外に頼りになりそうな物が見当たらないので、とりあえず「理性や概念的思考・科学的思考」を信じて使うべきだ派です。 したがって、論理や(自然)科学の限界が、人間の知性の限界、知り得ることの限界だと考えています。 さらに、そろそろ、論理や(自然)科学も限界に達しているのではないか、などと独り思っております。 科学的・数学的(能)力を駆使し、この世の現象をすべて見通し・その成り行きを予測できるとされる、ラプラスやマックスウェルの悪魔なども、この世界には、いないようですから。
お礼
我れながら 意地の悪い質問ですね。 すいません。 野球選手が150km以上で飛んでくるボールが見える 神がかっているとは思いませんか・・・ 年をとったおばあちゃんが、飛んでいる蝿を一瞬のうちに叩き落す 神がかっているとは思いませんか・・・ なぜか、人の悪口だけは小さな声で話しても聞こえてしまう 神がかっているとは思いませんか・・・ 辞書がなくても、ペラペラといくらでもお喋りができる 神がかっているとは思いませんか・・・ ここはどこ?私はだれ?と言いつつも、ご飯を食べることだけは忘れない 神がかっているとは思いませんか・・・ 見渡すと人の姿をした神様ばかりのようです。 誰も自分を神様だとは思ってはいないけど ちょっと見方を変えると、人は神様のように見えます。 ・・・・・ 人がもっている働きは見えざる神である そんな風に思われてはいかがでしょう。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 答えるのにむつかしい質問ですね。だと思います。 ★★(No.1補足欄) ~~~ 人というミクロコスモスと、自然や宇宙というマクロコスモスとの関係です。 ミクロコスモスに、マクロコスモスの全てが伝わるのかどうかという事です。 マクロコスモスの情報を、人はどこまで捉えて、どこまで受け入れられるのか という質問です。 ~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん問題は じんるいの歴史のうえで そのときのいま どういう段階にあって人びとの精神的な状態や社会の――つまり人間関係やコミュニケーションの――あり方がどこまで自由になっているかといった情況によって 問われている情報は 質や中身が決まってくる。ということではないでしょうか? 言いかえると ときと ひとと 情況に応じて 情報は けっきょく神のほうから人びとにもたらされる。ということだと考えます。 ★ 神への情報 ☆ は すでに――もし神がそれを受け取ったとするのならば――それに答える神から人への情報になるかと思います。 合理性に目覚め得ていない古代(ないし前古代)は措くとして たとえばいわゆる中世において 身分制が支配していました。生まれつきの身分によって 人間関係はそのまま固定していました。《自由》にかんするそういう情況です。 こういったけっきょく不自由の情況が それにかんする情報が神にもたらされていたとしても けっこう長い時間を経なければ改められ得なかった。わけです。けっこうゆったりしていると思います 神にとっての時間というのは。 ですから 人はどこまで神からの情報を得てこれを受け容れて行くか? この問いに対しては 時に沿って・時代に即して・人や社会の情況に応じてだと答えることになるのではないでしょうか。 そのときどきに必要な量とそして時には質として必要な情報が あたえられるのだと考えます。 モノにかんする理論や 生命についての知識 そして心の問題あるいはコミュニケーションのあり方などなど 必要に応じて得られていくのではないでしょうか。 ときには 必然性の鎖を解き放つような一点突破としての情報も もたらされて来ると考えます。とてつもない内容をもった情報です。 言いかえると マクロコスモスにかんする情報は その全体を隈なく隅々まで知る必要も 必ずしもないと思われ そのつどその現在時点において《全体として》分かればよい。自然科学としては別かも知れませんが 哲学としては このような姿勢でよいと考えます。 全体観に立ってそのつど一つひとつの問題に対処して行くという意味です。(つまり あやまちうるという意味ですが)。
お礼
ありがとうございます。 >そのときどきに必要な量とそして時には質として必要な情報が あたえられるのだと考えます。 こうした見方は神の存在を想定したものとして以前からあると思われます。 ニコラテスラが、私の研究は進化の法則により遅らされているのだ と言った言葉がありますが それは、人と神との関係においての人間肯定という一面を表していると思います。 しかし、神に等しい宇宙の姿を、誰でもある程度知ることができるようになった現在においては 神はすでに想定ではなくなった感がします。 誰でも神を見ることができるようになったのです。 そういう意味では、人は精神的な一種の岐路に立たされているのかもしれません。 神との関係における人の位置づけが、誤魔化しようのないところにきてしまった・・・のかもしれませんね。 マクロコスモスの中にいるという真実と、その情報が人に与える影響は計り知れないものがあるのではないでしょうか。 人は、どこまでも人であっていいのだろうか・・・ そんな事も考えてしまいます。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
>人が知る情報とは全て神への情報です 神が情報を必要としているということですか? >どこまで受け入れてゆく事が出来るのでしょうか? 受け入れるとは何を意味するのでしょうか? 情報を記録するということですか?
お礼
>神が情報を必要としているということですか? たぶん必要としているのではないでしょうか。 でなければ、わざわざ宇宙へ飛び出したりはしないと思います。 能動性とは求める働きでもあると思うのですが・・・ >受け入れるとは何を意味するのでしょうか? 情報を記録するということですか? そうですね。 知る、と受け入れるとでは、概念的把握と体験的把握の違いがあるかもしれません。 概念的把握に留まらない、体験的把握と思っていただければよいと思います。 この場合、抽象的になってはいけないと思いますので 感性の働きの全てをもってしての把握、と付け加えます。 そこにおける情報の概念化や記憶・記録化といった作業は、後にくる二次的な作業として扱うものと考えてください。 もっと言いますと・・・ ミクロコスモスとマクロコスモスの相互の渉入・・・といった表現も適切かもしれません。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
人の知には、不完全性定理という限界があり、 世界の真には、不確定性原理という限界がある。 情報は無限分割はできず、量子という最小単位がある。 しかし、“不完全に捉える”事によって階層現象表面的 に有限的な存在性が派生するのならば、無=不確定性 無限の潜在としての認識可能性(感受表面=光速)に おいて、自我仮説性(記憶=時間的流れ=過去=超光速) と時空仮説(予測=空間的広がり=未来=光速下)は 相補分化していると言える。 不完全さゆえの造物主=完全な全知には世界は無で しかない(絶対確定化=無限不確定)。
お礼
知る働きには限界があり 知る情報にも限界がある ということでしょうか。 その他の凝縮された完成章節の群れ・・・ 大変申し訳ないですが・・・ 寄せ集めの言葉のようにしか聞こえてきません。 それはPさん独自の超知性的表現を、私が理解できないことによるのかもしれません。 また、答えの文章から論理的な平面性しか感じ取ることしかできないのは、体験性の欠如といった面があるようにも思われます。 せっかくの答えを頂いたのにもかかわらず批判だけで申し訳ない感じもします。 「限界がある」という事だけを頂いておきます。 ありがとうございました。
補足
質問の主旨が分かりずらいかもしれませんので補足します。 人というミクロコスモスと、自然や宇宙というマクロコスモスとの関係です。 ミクロコスモスに、マクロコスモスの全てが伝わるのかどうかという事です。 マクロコスモスの情報を、人はどこまで捉えて、どこまで受け入れられるのか という質問です。 できれば宇宙飛行士に聞いてみたい感じもします。 宇宙に神の存在を感じ、自分も神の小さな一部であるといった感触をもっていると思うのですが・・・ この質問は、船外活動をする宇宙飛行士の姿から思いつきました。 皆さんよろしくお願いします。
お礼
メタが無くて、《非経験の場》がある・・・ 困った。 《非経験の場》は体験したことがない・・・ >神は これら大小のコスモスを超えたところに想定されるのです・・・ 困った。 神はコスモスの中にはいらっしゃらないらしい・・・ >だめです。入門以前ぢゃわい。 困った。 破門扱いさえしてもらえないらしい・・・ 困ったときには 虎の巻を広げてみましょう。 私の虎の巻は「自然」というやつです。 そこには必ず答えが書いてあります。 でも、まだめくっていないページの方が多い。 想定よりも、ページをゆっくりめくっていくことにします。 いつかは答えの書いてあるページに出会えるかもしれません。 想定という頭の中だけの厚い書物よりも 体験という体に刻みこむ自然の書物の方が、私には向いているようです。 想定の素晴らしさは、神の素晴らしさに通じているのでしょう。 素晴らしくない神は、神ではないのかもしれません。 それでも私は、人という素晴らしくない神が好きです。 宇宙で船外活動をする、超スローな小さい神様が好きです。