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行き倒れの遺体処理
江戸時代、行き倒れの遺体処理については、男であれば左足、女であれば右足が入っている地域の辻番が処理に関わるという規約があったそうですが、なぜですか。男も女も左足と決めたほうが簡明でいいと思うのですが。また、辻番はどのように遺体を処理したのですか。寺にもっていけば寺で埋葬してくれたのですか。
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辻番は 境石で境界線を決めていましたが、それを超える事はとんでもない事でした。 江戸時代は左=上座から来ているのだと思います。 中には、 左前の構えは剣術では普通であるとか、弓術では左前。 こう言った、男は左と言う慣例を主張する方もいます。 >また、辻番はどのように遺体を処理したのですか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E3%83%B6%E6%A3%AE%E5%88%91%E5%A0%B4 それ相応の処分場も処理係りもいたと思います。 一説ですと刑死者は小塚原か鈴が森の刑場の片隅に穴を掘って埋めていたそうです。 その一方で刑死者は鳥や野犬のエサとも。 行き倒れなら引き取り手も無く、こう言った所へ埋めるのでしょう。
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- moto_koukousei
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辻番といっても色々なので、一概に決めつけることはできないとしても、辻番が遺体処理をすることはほとんどないのでしょう。 路上の遺体処理は別の人がします。 犯罪捜査や犯人逮捕も辻番の仕事ではないと思います。 いまで言えば、青少年保護のために盛り場を巡回する地域の父母が自分たちの代わりに、アルバイトを雇ったり、警備会社に人材派遣してもらっているような感じなのが、辻番の仕事です。 ~~~~~ ~~~~~~ ~~~~~~~ 江戸の数カ所の辻番所の設置位置をプロットした地図が、この中にあります。 http://www.iatss.or.jp/pdf/review/30/30-2-09.pdf このPDFの中に、次の説明があります。 「辻番は狼藉者の取締りや負傷者の保護は行ったが、喧嘩や辻斬りがあった際には犯人を捕まえるのではなく、目付けに連絡する事が求められたため 、町人でも役割を果たすことができると考えられたのであろう。 しかし、身分の低い町人が番人を勤めるようになると、生活が困窮していることから辻番を閉め切って内職を行ったり、武士の経済的困窮から出金が滞ったことで職務が怠慢になるなど、辻番は形骸化することになった。」 「番人の人数は天和3(1683)年の規則で昼2~4人、夜4~6人であり、番人は巡回、立見、待機を順番で行った。巡回の際の廻り場は、他の辻番の位置関係を考慮した上で設定されていた。 Fig.8によると、辻番は江戸市中の辻(交差点)に数多く設置されたため、それぞれの辻番の廻り場は狭い範囲であったことがわか 。Fig.8の辻番と大番所が分布しているところは武家地である。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 時代や場所によって相当の違いはあるようですが、辻番勤務者の多くは日雇いの派遣みたいなもののようです。 警備巡回もしないで、別のことに力を入れたりするので、辻番を規制したり、取り締まる必要もあったようです。 役目として請け負っている地域で辻斬りや行き倒れがあれば面倒ですから、来ないようにしたり、怪しいものは追い払ったり、倒れそうな者や倒れている者は、受け持ち地域から出してしまうことも多かったのではないでしょうか。 受け持ち地域が白線で線引きできるようなものではなかったのが普通でしょう。手足や頭の位置がどうだなど細かいことを理由に、自分の範囲か範囲でないかを、公に弁明するようなことはあり得ないような気がします。 http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/951/1/shigaku_31_76_98.pdf
お礼
番所を閉めきって内職とは、いつの時代もふとどきものがいたのですね。とてもくわしい解説ありがとうございました。
- princelilac
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すべてがそうではありませんが、江戸も後期になると腑分けといって、罪人や無縁仏の遺体は解剖して医学の資料にしたようです。死体の処理は被差別の立場の人達が行ったようです。杉田玄白、前野良沢はその人達の協力で『解体新書』を著したそうです。
お礼
被差別の人にそのような仕事をさせていたとは、勉強になりました。 ありがとうございました。
お礼
剣術から来ているとは面白いですね。さっそくのご回答ありがとうございました。