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理性

感情と知性(知識)については、その関係性が判るような気がして来ました。 ・・・嗚呼、「理性」とは、道徳的な、こと、ということでしょうか。 宜しくお願い致します。

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回答No.7

理性が道徳的ならそれは善性と言う事になる。 その仮定が成立するか否かは、善と言う概念が感情に由来するか否かによる。 それ以上の考察はテメエで何とかしろ。 私はその答えを説明する言葉を駆使できるが、あえてそうしない。 おりゃー仮面ライダーだ。 ゴルゴムの下僕を生かすことはない。

kurinal
質問者

お礼

Flareon様、ご回答ありがとうございます。 >「理性が道徳的ならそれは善性と言う事になる。」 いったい、誰が、それを決定するのでしょうか。 >「その過程が成立するか否かは、善と言う概念が感情に由来するか否かによる。」 しかし、世の中には「(直接的に個々の)感情に由来しない善悪」というのも、あるように思われます。

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noname#194996
noname#194996
回答No.10

くりなる様、おはようございます。 NO.9 です。 なんとなく気になって早起きしたら、大変なことになっていました。 >しかし、「理性が悟性を目指す」とは、どういうことでしょうか。 この突っ込みはまことに鋭く、致命的なような気がします(汗;)。 私の思いとしましては、理性が現実を離れて厳密な論理思考のみへと偏向していく向きがあるのはやはりまずいだろう。そこに悟性というマイルドな味付けをして人間の人間たる温かみを持たせるのが間違いをすくなくさせる道ではないかとか思っているわけです。ちなみに私の愛用する岩波国語辞典では、悟性とは「特に理性と区別して経験界に関する知性」となっています。これは今朝書きはじめてから発見したものでありますが、確かに人間界を含む自然はいかに鋭い理性をもってしても添いきれない複雑さしたたかさを持っているものです。悟性とは正直言いまして私も完全には捉えきれない概念ではありますが、今の私の気分には良くなじむのです。 またまた後で反省しそうな駄文になりしまったようなきもしますが、今のところはこのあたりで失礼します。何らかのご参考になれば。

kurinal
質問者

お礼

komaas88さん、こんにちは。ご回答ありがとうございます。 >「なんとなく気になって早起きしたら、大変なことになっていました。」 ・・・とても良く判ります。 私の場合、本当に泣けてきそうな気持ちです。 特に、bragelonneさんには大変ご迷惑をおかけしているようであり、この場を借りまして謝る、「謝らなければならなかったケースも存在した、であろう」ことを、思います。 顔が真っ赤になったり、頭を抱えたりして。 でも経験したことは、(将来)意外なところで役に立ったりすることも、経験しています。 私もあれから「理性が悟性を目指す」ということについて、自分なりに考えてみました。 そして、(拙い表現のせいで、言っている意味が判り辛かったりしたら申し訳ありませんが) 「もしかしたら、(理性と悟性とは?)相互に補完しながら?世界は徐々にあきらかとなってきた?(間違いがすくなくなってきた)」 ということなのではないか、と思いつきました。 >「完全には捉えきれない概念」 ・・・これも、私の場合は、もう学生の頃から、そんなのが数多く、あるような気が致しますが、 「「わかる」ということが大事」と、恩師(とお呼びするのも、おこがましいかもしれませんが)の人の一人から教えられたことがあります。 >「確かに人間界を含む自然はいかに鋭い理性をもってしても添いきれない複雑さしたたかさを持っているものです。」 「当たり前」と思っていたことが、違っていたりとか、 「朝、太陽が東から昇るというのが、実は100%とは言えない」とか、 ・・・白状致しますと、なかなか異性と仲良くする事には困難を覚えてしまう、とか 私の使っている辞書では、 「「理性」・・・概念的思考の能力。実践的には感性的欲求に左右されず、思慮的に行動する能力」 能力?理性って、能力なんですね。(本物の)お坊さんなどは、(高度に?)理性的なのでしょうか。 「「悟性」・・・広義には、思考の能力」 あれ、こちらも能力とされています。 「経験界に関する知性」なんですね。 さらに 「「理性概念」・・・「理念」に同じ」 「「悟性概念」・・・「範疇」に同じ」 となっています。 「「知性」・・・頭脳の知的な働き。知覚をもととして、それを認識にまで作りあげる精神的機能」 ・・・当分、辞書と睨めっこするかもしれません。 >「理性が現実を離れて厳密な論理思考のみへと偏向していく向きがあるのはやはりまずいだろう。」 ありがとうございます。 「同じモノでも、ケタを一桁変えて見ると、見え方が変わる」とか。 私などは、いい加減で大雑把で、どんぶり勘定を常としていますから、たまには辞書をめくってみるのもいいかもしれません。

noname#194996
noname#194996
回答No.9

>感情と知性(知識)については、その関係性が判るような気がして来ました。 申し訳ありません。後段のために私なりにそのあたりを単純化させていただきます。 うざければ読み飛ばしてください。 感情は人間の一番原初的な、基礎的な思いだと思います。 その上に知性と、更に理性が最上部に乗っています。 知識は知性によって人間の記憶の中に取り込まれて整理されていきます。 知性は、いはば単純な計算機能と整理機能で出来ていますが、 理性はその上から目配りし、知性の構造を独自に構築していくソフト機能があります。 道徳は知識の一部として主に理性によって取捨蓄積されますが、 理性はもともと形を持たないために、性質のよく似た道徳や宗教に親近感を持ち その過程で理性そのものへも影響を与え、浸潤して乗っ取り、極端な場合理性を破壊することもあるとされます。 それらの結果としての人間の行動は、 感情と理性との妥協の産物として具体的に現れます。 理性は感情や道徳から遠ざかろうとする傾向を示すのが健康的だと思います。 本来理性は道徳を超えた悟性を目指すのが一般ではないでしょうか。 バランスの取れた人間はそれらに調和の取れた行動が出来るのでしょう。 …嗚呼、個人的観想でした。

kurinal
質問者

お礼

>「感情は人間の一番原初的な、基礎的な思いだと思います。」 はい。 「「世界との信頼」関係において、人が最初に接する世界である「親」との関係の影響は、小さくない」 >「知性は、いはば単純な計算機能と整理機能で出来ていますが、 理性はその上から目配りし、知性の構造を独自に構築していくソフト機能があります。」 「法律の変遷」ということで、同様のことを思ったことはあります。 >「理性はもともと形を持たないために、性質のよく似た道徳や宗教に親近感を持ち その過程で理性そのものへも影響を与え、浸潤して乗っ取り、極端な場合理性を破壊することもあるとされます。」 なるほど。「思い込み」とか、「刷り込み」といった表現まで、ありますね。 >「理性は感情や道徳から遠ざかろうとする傾向を示すのが健康的だと思います。」 「悟性」・・・実はコレが何を意味するのか、知りませんでしたが、辞書で調べてみると 「科学的思考の主体」「思考能力」 ふむ 「道徳」はともかく、感情から遠ざかろうというのが健康的なのかどうか。 「感情は、否定(抑圧)すればするほど、かえって力を増す」ものだとか。 >「本来理性は道徳を超えた悟性を目指すのが一般ではないでしょうか。」 「道徳」ということの捉え方ということでは、本質問にご回答くだされた他の回答者様たちのご回答でも、かなり考えさせられることが、考え続けなければならないなあ、と思わされることが、ありました。 しかし、「理性が悟性を目指す」とは、どういうことでしょうか。 「道徳や宗教・・・価値観」といったことと、「科学的事実」とは、無関係とは言いませんが、「どちらがどちらを目指す」というようなものでもないような気がします。

kurinal
質問者

補足

komaas88さん、こんばんは、ご回答ありがとうございます。 やはり「用語」から勉強しないと、判らないものでしょうか 法律を学んだ際にも、やはり「用語」の理解が一つのポイントだったのですが。

回答No.8

 こんにちは。  理性は 広くは精神全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。  ひとの存在を 身と心に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。  1. ひとの存在:身と心 / 身体と精神 / 感性と理性  2. 自然本性:身と心それぞれの性質と能力を言う。  3. 感性:身の五感が知覚すること。  4. 悟性:知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 事実認識である。  5. 理性:悟性の成した事実認識ないしその認識事実としての情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。  6. 判断:理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。善悪とも言う。  7. 知解:感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせて あやつりつつ或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。  ここまでが 知解という作業である。  8. 意志:判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。  9. 記憶:ただしこれら知解および意志の――或る種の仕方でそれらに先行する自然本性の能力のひとつとして―― 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。  9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。たぶん 狭義の理性の情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。  9-2. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは いわゆる知恵と呼ぶものだと考えられる。  10. 知性:これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。  11. 境地:記憶・知解および意志の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と判断力とそしてさらには度胸だとかを含めたかたちである。  ★ ・・・嗚呼、「理性」とは、道徳的な、こと、ということでしょうか。  ☆ 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含みませんから そのような倫理としての意志行為とは別です。  広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっています。  ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられますから むしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われます。わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになります。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになります。冷や汗が出ます。  たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われます。  なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにですが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られます。  ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら 理性が横暴をきわめるのだと考えられます。すべて理性のしわざだと見られます。意志をしのいでしまうという意味です。  この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうのでしょう。感性は そのウソに気づいています。

kurinal
質問者

お礼

bragelonneさん、こんばんは。ご回答ありがとうございます。 私の考えるところによると、理性とは、もっと(仰るところの)社会力学の影響を受ける(受けた)ものであって、・・・例えば、刑法で言うところの「こんなことをしたら、こうだぞ?!」というのは、理性に訴えかけるものではないでしょうか。

回答No.6

>「理性」とは、道徳的な、こと、ということでしょうか。 全然違います。 理性的なテロリスト、理性的な新興宗教の教祖様、理性的な悪徳弁護士など、理性的で非道徳的な人々は枚挙にいとまがございません。

kurinal
質問者

お礼

Mokuzo100nenn様、ご回答ありがとうございます。 「「朕 イズ God!!」という人たち」なら、どうでしょうか?

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

「理性」とは、道徳的な、こと、ということでしょうか。 〇知性・理性・悟性の順ですね。知性は後天的に学んだものですね。学んだものの極一部が理性になりますが、この理性は悟性に裏打ちされたものなのです。 人は皆、潜在的な悟性を持っているものです。それに裏打ちされたものが理性ですから、後天的な知性とは違う場合が多いですね。 普段は法律とか一般常識に従って行動する場合は、ほとんどが後天的な知性が働いています。 理性が顕在する場合は、特殊な場合ですね。例え、法律や命令があっても、「それは違う。」と心の奥から出てくるものが悟性に裏打ちされた理性ですね。 たいていの人は、自分の身かわいさのために、無視する声ですね。それが理性というものです。単なる道徳ではありません。 道徳は理性の一般的な知識化ですから、あてはまる場合も、そうでない場合もあるわけですね。 また、感情は心の動きを表すものですから、知性とは違うものですね。感情と制御し、考えて得るものが知性ですね。 理性はわりと簡単なようで難しいものですね。 何か悪さを試みるとき、突如としてやめとけ、という気持ちが湧く、それが理性なんです。 理性の訓練は因果の法則で物事を見ることで養われることも事実ですので、後天的にも強化はできますね。でも先天的に持っているものでもあるということです。

kurinal
質問者

お礼

mmky様、ご回答ありがとうございます。 >「単なる道徳ではありません」 >「何か悪さを試みるとき、突如としてやめとけ、という気持ちが湧く、それが理性なんです」 >「悟性に裏打ちされた理性」 >「先天的・後天的」 ありがとうございます。

回答No.4

感情 物事に感じて起こる気持ち。 理性 物事を道理によって判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力。 知性 物事を知り、考え、判断する能力。 で 物事 物と事。 事  世の中に起こる、自然または人事の現象。 で 事 ってのは、「物」が一般に具象性をもつのに対して、思考・意識の対象となるものや、現象・行為・性質など抽象的なものをさす語なんだそうですよ。 勉強になるなぁ。 理性は心の動きってことなんで、理性は、感情の一部とも言えますね。 理性に従い激怒してもいい訳ですね。ん~  理性に従った殺人が死刑執行。 理性だ知性だ言っても結局感情「事」の生き「物」なのですね。人間は。

kurinal
質問者

お礼

ukiyotonbo様、ご回答ありがとうございます。 「理性を失って、いけないことをしてしまった」 ・・・「魔が差した」とも言いますが。 結局、多様な価値観の凝集したものが法律なのかな、と考えると、死刑はやはり廃止という感じですかね。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.3

人間の脳は、感情や本能を司る旧い部分と 理性を司る新しい部分とから成っています。 そして、両者はお互いに干渉し合っています。 例えば、美、ですが。 美は感情を司る部分で感じるのを基本としながらも 理性、つまり文化的な側面からの影響を受けます。 だから、民族によって美の感覚が異なってくる 訳です。 道徳は、理性のみの問題のようにも思えます。 しかし、その根底には感情があります。 人を殺すのは嫌悪感を抱く。 これは感情です。 その上で、じゃあこれは悪い、ということに しよう、 という理性が働くのです。 このように人間を特徴付けているのは理性です。 人間は、理性の部分が特に発達している処に 動物との違いがあるのです。

kurinal
質問者

お礼

hekiyu様、ご回答、ありがとうございます。 ・・・そこまで言われるとですね。 「じゃあ、その「理性」ってやつを批判してやろうじゃないか」、という感じにもなりますかね。 >「道徳の根底には感情があります」 ・・・また深いところが見えてきたような、気が致します。

回答No.2

誰しも分かっていると思いがちなその二者の分別も、 「宇宙は認識される事で生じている」という人間原理で、 あやしくなって来る。 それらは不可分なものであるが、「自己中心性(身体的 な「自己」)」を除く方向性を知性と言えるかも知れません。 あるいは「時間(記憶=過去=超光速)と空間(予測=未来 =光速下)の相補分化」において、その先入的な時間 (自我仮説)を感情、その現象表面的非光速性により 派生する「あるんじゃないの?」としての空間的広がり における「本当はないんだよ」=無の射影としての量子性 (存在)を、知性と言えるかも知れない。 ただし、いたって知性的な存在と思われるもの、たとえば 色彩といったものも、実際は物理的には連続的な光の 波長の変化に過ぎず、「赤は青の反対」「三原色」といっ たものは、物理的には存在せず、受け手の生理的な 要因=感情的なものが先入化した結果なので、「不可分」 となるのである。 (「赤」の本質は、血や花、火といった、その波長と相関 して経験された生理的インプットの集積が、条件反射的 に励起されたものである) ちなみに、真の生きる目的である「人生を通算した精神的 充足量の最大化」において、道徳は一次的な要件ではない。 それは、人類の社会性の発達において、そうした自己の 生命性の分業的拡張を自覚化する認識の発達させる事を 怠り、他律的に社会行動をとらせるためのアメ(お金・出世) とムチ(法規・モラル)として派生したものなのだ。 即ち、「金もうけもための労働」と、それを補う「助け合いと しての福祉やボランティア」といった構図は、その労働自体 が助け合いである事の自覚(=自律的社会行動化)において 解消される。

kurinal
質問者

お礼

psytexさん、ご回答、ありがとうございます。 「欲望」というのは、存在します。 問題は、「「それ」が存在するということを認めた上で、じゃあ、どうするか?」ということであろうと、ようやく思い至ります。 そこには知性や理性、感情も関わってくるでしょう。

  • hifumiy0
  • ベストアンサー率31% (28/89)
回答No.1

感情と知性の関係性をどのように解釈したのかは分かりかねますが、 最初に答えを述べさせていただくと、 理性とは「感情的にならないこと」ではないでしょうか。 理性を失う→感情的になる つまり物事に感情的にならないよう自分自身を押さえつける力だと思う。 それは知性にも繋がり「知性=知識」とすると、知性を得ることによりそれが発展し「教養」が養われる。 その教養があってこそ発揮されるのが理性だと思う。「知性≠教養=道徳的なこと≠理性」。私の考えでは教養あっての理性。知性から教養に発展したのと同様のケースだと思う、「教養=道徳的」なこととしても「道徳的なこと=理性」とするのは余りにも安易。 理性とは教養=道徳的なものから生まれた「全く違う精神」だと思います。 私の考えなので参考までに。

kurinal
質問者

お礼

hifumiy0様、ご回答、ありがとうございます。

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