• 締切済み

医者に伝えるために言い換え文を求めているんです。

類似した質問だと思いますが、心のつかえを解消させたいために再度質問があります。 少し【A】~【B】の表現を変えた・文章を増やしたんですが、医者に伝えるために言い換え文を求めているんです。 誰か言い換えて回答下さい。 【A】と【B】に関しては文章にまとめて言い換えて回答下さい。 【C】に関しては「変換された」を「変換が起きた」「変換があった」というふうに言い換えたいんです。 【C】の《え:「ネガティブな内容を何らかに言われたり、そのように動かされた感覚など」》に関しては、以下のような感じで言い換えてほしいということです。 【C】の《え:「ネガティブな内容を何らかに言われたり、そのように動かされた感覚など」》に関しては「ネガティブな内容を強制的に考えさせられる感覚がありました」それ以外の言い換え文にしてください。 ★最近でも以前にもあったことである。「今までやったのを治す」「さっきやったのを治す」「診察で聞いたことは関係なく治す」「関係なくやったのも治す」「ブログに書いたことは関係なく治す」「関係なく治す」「○○さんがやったのを治す」などの言葉が頭の中や心の中で≪発せられたりした≫感覚があった。  それらの言葉は、≪精神病(症状)とかを何らかが治す意味である言葉≫だと思ったり感じたりしたんです。  ↓ ★以前から「今までやったのを治す」「さっきやったのを治す」「診察で聞いたことは関係なく治す」「関係なくやったのも治す」「ブログに書いたことは関係なく治す」「関係なく治す」「○○さんがやったのを治す」などの言葉が頭の中で浮かんだ。  それらは、「私の症状を軽減する言葉」と感じた。 ★自分の(頭の)中にあった「関係なく治す」と言う言葉が心の中や頭の中で出てきたが、何らか(例:職員さんの言動)のきっかけで「関係なく治さん」と言う逆の言葉に頭の中や心の中で≪変換されて発せられた≫ことがあった。 要するに、「関係なく治さん」と言うのは≪精神病(症状)などを動かさないと言う意味の言葉≫に思ったり感じたりした。 「関係なく治さん」と言う言葉が≪発せられる≫前までは「関係なく治す」と言う言葉が何らかの理由で≪発せられた≫ことがあった。 このような流れのことは何らかの理由で起きたことを感じた。  ↓ ★(1)「関係なく治す」という言葉が、自分の頭の中に突然浮かんだ。 (2)何らか(例:職員さんの言動)のきっかけで「関係なく治さん」という真逆の言葉に変わった。 (3)「関係なく治さん」という言葉は、「症状を固定化する」と感じた。 ((1)から(3)の順序で起こり、とある理由で起きた事実を知った。) ★(1)心の中・頭の中で質問をする(=心の中や頭の中からある疑問が出てくる)(2)自分の外の音(=人の声、犬の吠える声、テレビの音)、自分の中の音(=幻聴・耳鳴り)、他人が動いているのを見た(=家族の誰かが2Fから降りてきたのがわかった、降りてきた場面を見た時など)ことなどがきっかけで自分の中から質問と関連した回答が出る(=心の中や頭の中で言う感じで、疑問として出したものに回答を当てはめる)それで辛く感じた。(3)回答の言い聞かせなどで、例えば「今日は○○さんからメッセージが来るのか来ないのか」と質問したことに対する回答が後で正確な回答だったりウソの回答だったりした ((1)~(3)の流れのことについて、自問自答だという意見を聞いたんです) (2)に関しては操られた感じで言い換えると、「何らかがきっかけで回答を言わされた」「何らかがきっかけで回答が発せられた」「何らかがきっかけで回答が返ってきた」というふうに表現するということなんです。  ↓ 僕はふと疑問が生じたことに対し、外界からの刺激、己の内なる声や錯覚、自らが見聞した経験や事実をきっかけとして、自分の中で仮定と考察、反論を行う。その時、その判断が行われると直感的に気づく事に、あるいは判断そのものの中で、苦痛や辛さを感じることがある。そして、そのような工程を経て結論を出した後に、最終的に自分が正しかったり間違っていたり感じたことがあった。 ヒントをあげます。 ・・・・・・「自分の意志で起こした」「自分の中の意志が起こした」「感じがした」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【A】一昨年(2010年)喫茶店で働いているとき、心の中(=頭の中)で「ある」と言う言葉が浮かんできた(言った感じ)。その時、《あ:記憶されていた文字》「ある」がいっしょに浮かんできた。それが何らかのきっかけ(=喫茶店の利用者さんが「何だぁ」と言って嫌だったこと)で《あ:記憶されていた文字》「ある」が文字「有る」に変換された。 それを辛く感じたことがあった。要するに「有る」がモトの文字「ある」に変換されることなどに辛さを感じたということである。 変換が数ヶ月か起きた後、《う:文字が変換されるのが解除されるまでの流れの出来事も起きた》。 【B】パソコンで「Outlook Express」を開いた後、例えば「[受信トレイ]に20通の未開封メッセージがあります」「受信トレイ(20)」という文字を見たり心の中(頭の中)で言う感じではき出したりしたときに「おい」という幻聴がきっかけで「--通の未開封メッセージがあります」「0通の未開封メッセージがあります」という、《い:別の文字》に変換されたり、「--通の未開封メッセージがあります」「0通の未開封メッセージがあります」という言葉に頭の中(心の中)で変換されたりしたことがあった。変換内容が後で当たったり外れたりした(後で迷惑メール以外のメールなどが来ている[来てない]ことに気付いた)。 : 《あ:記憶されていた文字》ということについてですが、わかりやすく言うと、自分の目に焼き付いたり、頭の中に記憶されたりしていたもの(要するに文字を見てその見た文字が映って見える 要するに見た文字がそのまま長く残ったもの)が浮かんでくることなんです。 写真のように文字が記憶されると言えるんです。 「有る」という文字も、見た文字が自分の目に焼き付いたり、記憶されたりしていたものだと思うんです。 文字が長く記憶されている(見えている)のも例えば人の顔を見ると、見た人の顔がそのまま長く自分の中で見えるのや、人の顔を見た後に文字を見ると文字が人の顔に見えることと同じようなことだと思うんです。 《い:別の文字》というのも《あ:記憶されていた文字》と同様です。 《う:文字が変換されるのが解除されるまでの流れの出来事も起きた》の別の表現(言い換えた表現)も知りたいんです。 【C】実は、自分がどこにいても、「つなげて言う」「短く区切る」「ずっと鳴らす」「自分も動かす」「途中から読む」「朝もやる」「朝も言う」「何回も言う」「何回も変える」「考えが入ってくる」「捨てる」「まんまにする(=そのままにする)」「家にも何かやる」「体にも何かやる」「来週も操られる」「(曲の)題名を言う」と言ったような言葉が、頭の中で勝手に浮かびました。それらの言葉が浮かぶ以前は、《え:「ネガティブな内容を何らかに言われたり、そのように動かされた感覚など」》がありました。 【D】「できました」と心の中(頭の中)で言いながら筆談ノートに書いたが、喫茶店の職員さんが声に出して利用者さんに注意したり利用者さんに仕事を伝えたことがきっかけで(=その時自分にも声が耳に入っていた)頭の中(心の中)で「できた」という言葉が浮かんだ。「できた」という言葉が浮かんだ時に自然に「できました」というモトの言葉に変換もあった。いずれも辛く感じた出来事でもあった。それは、とある理由で起きたことを感じた。 【E】喫茶店で誰かが通りにくい所を通るために「通ります」と声に出して言った時、頭の中(心の中)で「通る」という言葉が浮かんだことがあった。それは、とある理由で起きたことを感じた。 : これについてですが、その時僕も職員さんも利用者さんも厨房でいっしょに仕事していたんです。 「できた」「通る」という言葉は自分の心の中・頭の中で浮かんだんです。 【A】~【E】の言い換え文について、例えば【A】だけ言い換えるだけでも結構ですので、回答下さい。 言い換えた表現が1つだけでなく、いくつか知っていたらそれも書いて教えて下さい。 明後日と5月の精神科の診察で先生に伝えたいために言い換え文を書いてほしいのです。 遅くとも明日までには回答を下さい。

みんなの回答

回答No.25

 ご返答をいただきました。  次のようにお答えしてまいります。  次の文章をまづ引用します。記号(αやω)をつけました。  ◆(あ さん=No.24お礼欄に掲載) ~~~  同じひとつのことを伝える場合にも、こちら(患者)の言い方によって、お医者さんから症状とみなされたり(ω)、ごく普通のこととみなされたり(α および α‐1)するのですね。  〔* すなわち〕  (ω) 幻聴(統合失調症によるもの)や、  (α‐1) ふと想起する声(ごく普通の想起)や、  (α) 自分で考える声(ごく普通の思念) などがあるのですね。  ~~~~~~~~~  ☆ わたしは ここに次の段階をも区別して捉えています。  (α‐2) ふと想起する声(α‐1)が妙に気になり心にもひっかかり それにこだわれてしまう場合。しかもこのコダワリがひどくて一たん休息を必要とする状態になる場合を特に言います。  ただしこの(α‐2)は コダワリのコダワリではありません。ただコダワリがひどくなっている状態というのみです。  さらにあらためて全体を説明すると こうです。  (α) ふつうの思考とその声や文字や思い    ・たとえば 《あぁ のどが渇いた》という思いあるいは発言  (α‐1) その思考を対象化して捉えた段階であり 捉えたそのもの(観念)    ・たとえば《のどの渇き》という言葉を取り出し その《渇き》という概念について もはや《水が飲みたい》といった感性にかかわることとは別に 観念としてあれこれ想像力をめぐらす状態。つまりたとえば 《あぁ これは わが心が渇きをおぼえているのだ。それは 何か? たぶん 愛だ。あぁ じつはわれは 愛の渇きに囚われているのだ。》  (α‐2) この(α‐1)なる観念のコダワリが 引いて行かない。いつもまとわりついて来る。あぁ これは ひどい! といった状態になり 休息が必要だと思った場合を言います。  片や コダワリがひどくなった状態と 片や コダワリにさらに囚われるようにしてコダワリを持つこと(つまりこれが コダワリのコダワリです)とは 別です。  ですから 次のように捉えるのは 《コダワリのコダワリ》であり そこにすでに勝手に自分たちの考えた《枠組み》をこしらえてしまうことだと見ます。決して(α‐3)といった状態ではないと見るわけです。  (ω) (精神医学の考え方) ~~~~  空耳や頭痛(α‐1 ないし α‐2)がしたなら・そしてそれらが一向に去って行かないなら これを《幻聴》だの何だのと言って 一定の症状であると規定しこれを病気扱いをする。病気扱いするという意味は 一般に《気のせい》という診断を通り越してしまうという意味です。  しかもそれにとどまらず 特定の治療者を作り出しました。つまり病気扱いするということは その状態にある人は 患者であるという規定がなされたわけで それに相い対する特別の医者が編み出されたというわけです。  この《医者‐患者》という二項関係は すでに閉じた枠組みを持ってしまっている。と考えます。  つまり 人間の元気や疲れにかんする状態(α~ α‐2)についての健康観を じつは この(ω)なる人間観を持った精神医学の見方は 離れてしまっていると考えます。離れただけではなく ふつうの健康にかんする人間観(α系列)を捨ててしまったのではないかと考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ですからたとえば 次のような見方についても 分析をあてはめることが出来ると思います。   ★ ~~~~~  心理療法家の方も、   ( a ) 「誰にでも起きる可能性のあること(α および α‐1))が気になって、症状(α‐2)として捉えて悩んでいるからだと思う。   ( b ) その気になる度合がとても高すぎて大きなストレスを生み出すレベル(α‐2)である点が 病気(ω)と言っていいかもしれない」  ということをおっしゃっていて、そのことについてブラジュロンヌさんは書いていると思いました。  ( c ) 枠組み(ω)が薬物療法などの治療(ω)に僕は思いましたし、考えました。  ~~~~~~~~  ☆ ( c )は 完全にそのとおりだと見ます。  ( a )の文も 《症状(α‐2)》という言葉を使っていますが ふつうのコダワリとして捉えれば やはりそのとおりだと見ます。  問題は ( b )です。これまでの見方からすれば 《度合いがひどいレベル(α‐2)》から ただちに《病気(ω)》の段階へ行ってしまうのか? にあります。コダワリ(α‐2)の状態から そのままコダワリのコダワリの段階へ行ってしまうのか? あるいは すでにそれらは 同じことなのか? です。( b )文は すでに二つは 同じと言っていいかも知れないと言っています。  要しますと わたくしの考えでは α系列の健康観とωなる医学とは そのあいだに断絶があるというものです。精神医学が 勝手にその断絶をつくってしまったと見るものです。  このように回答者自身の見方を何度も繰り返して述べる意味は こうです。  この見方について たとえば《ううーん。分からない。そうかも知れないけれど 何とも分からない。いまは 保留します。保留しているあいだは そこに言う〈枠組み〉の中にはまり込むことになるかも知れないけれど 〈文章の言い換え〉をしてもらえないか》といったかたちのお答えをもらいたかった。こういう意味です。  たとえばのことでしたが そういったやり取りを経ながら 対話はすすむのではないかとわたしは 考えています。  一つひとつのお尋ねには応答していないかも知れませんが 基本的な内容としてお答えできているかと思います。ので 勝手ながら このようなかたちにてといたします。

noname#181272
質問者

お礼

再度回答ありがとうございます。日記のほうにもコメントありがとうございます。 でも回答やコメントに対する返信をする気がしません。 ブラジュロンヌさんの日記のほうに返信を気が向いたらしておきます。 この質問締め切ります。

回答No.24

 ご返答をありがとうございます。  そうですね。  基本的に回答No.22でぜんぶお答えしていると思いますよ。それを読み返していただきたいと思うのですが どうでしょう。  ★ 【A】  ☆ 精神分析がなかったときには 第一次のコダワリとそれのひどくなった状態で おしまいだったという意味です。コダワリのコダワリが 第二次としてあらたに生まれたのではないでしょうか?  ★ 【B】  ☆ そうしてただ《コダワリのコダワリ》が生まれただけではなく 《医者と患者》という決まった二項関係も生まれた。これは 強固な枠組みだと見ます。しかも閉じた場だと見ます。  ここから出るには その枠組みの中で仲良く治療をすすめていけばよいというふうには 必ずしも思われないのです。  この枠組みがなかった状態へと出るということを考えなければならないと思います。  ★ 【C】  ☆ わたしの妹の話ですが 特に変わったことはなく 2000年ころに両親が病気になったものですから 世話をする人間がいなくなった。ので 入院を考えたということです。  違いは 入院したら 薬を かなり多く 飲まねばならなくなったことです。  要するにそれまでは だんだんと引きこもりがちになって とうとう閉じこもってしまった。そういう状態がつづいて来たということのようです。  ★ 【D】  ☆ これも――その粗相のことは 確かにそれほどよく見かけることではありませんが―― 特に問題だとも思えません。ふつうのコダワリという状態です。  そのコダワリにコダワルようになったのが 精神分析だと思います。一つひとつ症状として規定し その規定にしたがって分類したり治療の仕方をわざわざ考えたりするのだと見ます。枠組みが出来上がってしまったのだと見ます。  わたしは この第二次の《コダワリのコダワリ》は 要らないと見ています。  ★ 【E】  ☆ 《妙に引っかかる》というのは たとえばわたしは 昨日の朝 《ぼくらは少年探偵団》という歌が 目覚めたら頭の中でひびいていました。また 《聞き手一辺倒》という言葉もやはり頭の中にふと思い浮かびました。この後者の言葉のことは すぐにそれが何だったかが分かりましたが 前者の歌のほうは 少し引っかかって考えました。  《探偵団》で《少年たち》そして《ぼくら》と言っている。これは ひょっとすると わたしの身の周りのわれわれのことかと 少し思ったというところです。  つまりこの事例は 《妙に》ではありませんでしたが 《引っかかる》ということでは 同じものです。そういうふうに頭に思い浮かんだことが それは何だったかなあと考えるようにして引っかかることは ふつうにあることだと思います。  ★ 哲学  ☆ は 生きることであり ふつうに生活することです。精神と身体 これらが一体となった生活です。特に病気の状態を別のものとは見ません。ふつうにやっていける状態とそして休息が必要な状態とに分けるのみです。コダワリは起きますが コダワリのコダワリは どうでもよいと見ます。  No.22を今一度読んでいただいて これは どうしても――少なくとも いまの状態と情況とでは――応用することはできないなとお思いでしたら それはそれとして 秋さんのお考えであり判断だと思います。  言い換えはやってやれないわけではありませんが こうしてはっきりと申し上げるようになったごとく 枠組みの中にはまるかたちとしての 認知行動でしょうか そういった作業は どうも気が進みません。  といった考えをわたしは 持っています。

noname#181272
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼の返信が遅くなりました。 ≪#22の回答について≫ #21のお礼で、『もし僕が簡単な文章でも難しい文章でも何でも求めたら丁寧に言い換えてくれますか?』と僕は質問しました。 それに対し、ブラジュロンヌさんは以下(★)のように答えましたね。 ★すなわちこの《言い換え》というコトが わたしにとっては わたし自身にとってもそして秋さんご自身にとってもそれぞれ《わたし》の自己表現であるということです。  言い換えた文章をととのえること これも大切ですが わたしの重心は そのととのえる作業において 互いに自分の考えや判断をしっかりと打ち出すということ。そして互いに――言葉はわるいですが―― 考えをすり合わせて行くということ。ではないか。 : 【1】このことについては「#18~21のブラジュロンヌさんがした(a)~(p)の質問内容に具体的に答えよ」ということだと思いました。 そうなのかどうか、知りたいです。 【ここまで1について答えて欲しい内容とする】 しかし僕は、#2~17の回答者(長い文章を書いてくれた方で僕の日記のほうにもコメントをくれた方のことです)が僕が質問で書いた文章を具体的に言い換えてくれたようにブラジュロンヌさんにも言い換えて欲しいと思ったのです。 この質問文のA~Eの文章を言い換えて欲しいわけではありません。 なぜならば、#2~17の回答者さんがすでに言い換えてくれたからです。 #2~17の回答者さんが言い換えてくれたような文章を参考に、一太郎で1~2ページ医者に見てもらう文章を書き、それを医者に見てもらいたいのです。 Aは統合失調症の症状だとか、Bはごく普通にあることだとか、どちらになるかが知りたいということで、言い換え文を求めているのです。 #2~17の回答者さんが僕の日記のほうで 『同じひとつのことを伝える場合にも、こちら(患者)の言い方によって、お医者さんから症状とみなされたり、ごく普通のこととみなされたりするのですね。 幻聴(統合失調症によるもの)や、ふと想起する声(ごく普通の想起)や、自分で考える声(ごく普通の思念)などがあるのですね。 』とおっしゃいました。 僕はそのような感じに思ったのです。 【2】ブラジュロンヌさんに、出来事の一部を書くだけではわからないので、どういう状況だったか、具体的に全て書き表せれば言い換え文作れるということかと思いましたが、そうなのかどうか知りたいです。 【ここまで2について答えて欲しい内容とする】 #2~17の回答者さんは丁寧な日本語を書いてくださる方に思いました。 目的はブラジュロンヌさんの哲学的な考えを医者に伝えるというよりも日本語を使って言い換え文をしてくれた#2~17さんの言い換えを参考に文章を一太郎でつくり、それを医者に伝えたいということです。 「普通にあること」と教えるだけではなくて、言い換え文も作って欲しいと言う気持ちが強いのです。 ブラジュロンヌさんにも手伝って欲しいと言うことを思ったのです。 【#24の回答について思ったこと】 #22のお礼欄に書いた【D】のことについて。 >その粗相のことは 確かにそれほどよく見かけることではありませんが―― 特に問題だとも思えません。ふつうのコダワリという状態です。  そのコダワリにコダワルようになったのが 精神分析だと思います。一つひとつ症状として規定し その規定にしたがって分類したり治療の仕方をわざわざ考えたりするのだと見ます。枠組みが出来上がってしまったのだと見ます。  わたしは この第二次の《コダワリのコダワリ》は 要らないと見ています。 : ふつうのコダワリにコダワルようになったのが精神分析だと思うというのは、精神疾患例えば統合失調症や高機能自閉症でこういうことが良く見られることに思いました。 心理療法家の方も、「誰にでも起きる可能性のあることが気になって、症状として捉えて悩んでいるからだと思う。その気になる度合がとても高すぎて大きなストレスを生み出すレベルである点が病気と言っていいかもしれない」ということをおっしゃっていて、そのことについてブラジュロンヌさんは書いていると思いました。 枠組みが薬物療法などの治療に僕は思いましたし、考えました。 「引っかかる」を辞書で調べるとこだわりが残る、すっきりしない感じがするということだと書かれていました。 「こだわる」を調べると、ちょっとしたことを必要以上に気にするということだと書かれてました。 つまり上述した誰にでもあることが気になる度合が高いのが病気と言っていいのかもしれないという心理療法家の意見と一致していることに思いました。 okwaveの『メンタルヘルス』カテゴリで聞いたことですけど、僕の頭の中 心の中で起きたことについての質問に対し「誰にでも考えますが、あなたの場合口数が多すぎる」と言う回答が来たのです。 でもokwaveで言い換え文や統合失調症の症状かとか、普通にあることかどうか質問することで心・頭がスッキリするのです。 その気持ちがおそらく強いと思うのです。 ここまでのお礼についてどう思いますか? あとブラジュロンヌさんは65歳ですけど、頭が前よりどのくらいぼけているか、疑問に思いました。 ブラジュロンヌさんは誰とやりとりしているか、誰が書き換え文の表現が上手なのか疑問です。

回答No.23

 ★(No.21補足欄) ~~~  ブラジュロンヌさんにもう1つ質問があるんですけど、哲学カテゴリに良くいる方と言うことがわかったんですが、心理学についても詳しかったりするのでしょうか?  また詳しいのなら、どうして詳しいかも教えていただけますでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 心理学も精神分析も 自己流です。  じつは 四つ下の妹が 統合失調症で入院しています。ちょうど2000年の前の年の暮れに入院しました。それまでは 自宅に閉じこもっていました。  短大を出て きちんと就職をして三年でやめたあとは 家にいるようになりました。三十歳になるまでは それでも 特別のことはなかったのです。旅行にも一人で行ったことがあったくらいです。  とうとう寝た切りのごとく何もしなくなり そのままずっと家にいました。  何かが特に不都合だというわけでもなかったのですが 2000年頃には 親も病気になりましたから 入院というかたちになりました。  真ん中にもうひとりわたしの妹がいますが それは いくらか離れたところに嫁いでいて そこの生活があります。それでわたしが 入院した妹のことは めんどうみています。  薬の効果もあるかも知れません。さほどおおごとのことはありません。    わたしには そのようなかかわりを持っているという経験がある。それだけです。  たぶんちょっとした風通しができればと思いますが それでも 大胆にデカいことを言おうとしているところがあります。  あまりよい回答者でないかも知れません。

回答No.22

 秋さん ご説明をありがとうございました。  まづ 回答者としてのわたしの基本的な考え方を述べて明らかにします。たぶん 合う合わないがあると思うからです。或る程度読んでもらっていて 分かってもらえているかも分かりませんが 述べてみます。  ○ 《人間は 文体である(文は人なり)》 ~~~~  1. ひとは 自己表現をして生きる社会的動物である。と考えます。  2. ここには 《社会性》として 一人で生きるのではなく他の人びとと共生して生きるということと そしてもうひとつに 《自己表現する》というその動態を生きるということ。このふたつの側面があります。  3. ただ単に《表現する》というのでもなく 《自己の表現》だということを言いたいのですが それはほかの誰のでもなく自分自身の考えや判断を明らかにするということだと考えます。  4. しかも《社会的》という意味においては 相手との間で問いと答えを繰り返してやり取りをするということです。つまり対話として自己を表現し人びととの話し合いにおいて互いに自己〔の考えや判断=意思表示〕を表現することを内容としています。  5. 自己表現する社会的動物であるというわけですが この自己表現については 次のような原則を仮説としてわたしは持っています。  (い) わたしは わたしである。: 1=1  (ろ) 《わたしがわたしである》わたしが わたしする。: 1x1=1  (は) 数として《一》なるわたしが それを逸脱したりまたそれより縮こまってしまったりしたら やはり同じく 《わたしが わたしする》道に立ち帰る。: 1x1・・・・x1=1  (に) すなわち 自己表現の動態というのは 《一》なるわたしの限りなき自乗の行為としてある。: 1^n=1  (ほ) 言いかえると 《わたし》は わたしの冪(連乗積)として成る。  (へ) この自己表現を 言葉による表現としてみれば 一般に《文体》と呼べる。絵や音で自己表現する場合ももちろんあると同時に 一般にはそのような芸術も 何度も言葉にして解釈されることをとおしてその作者の自己表現が 対話や話し合いの場に迎え入れられ 問答が繰り広げられる。  6. もしこの自己表現ないし文体の過程――つまり 生きる過程――において 《一》なるわたしが どうしてもその《わたし》を保つのが辛かったりした場合 そういうときにも むろん自己の自乗による道をあゆむのであるが それがきつくて休息が必要となるような場合には しばし休息を取る。ということになる。  7. この休息としての時間は 自由な時間であるが おそらく基本は 《わたし》の自乗の道をあゆむことだと考えられる。《わたしがわたしである》のは――生まれつきそなわった自然本性なる状態として―― むしろそれ自体が 自由だと思われるからである。  8. たぶん・おそらくこの自然本性なる状態は 《聖なる甘え》と呼ぶことができると思われる。移ろいゆくことのある人間の心や朽ちるべき身体あるいはその他もろもろの仮りなるものごと これらにはいっさい甘えず依存せず しかもそれらのものごとを超えたところに甘えることだと考えられる。   9. これが 《わたし》が《わたし》に立ち帰ることだと見られる。  ~~~~~~~~~~~~    このような考え方に沿ってお答えをして来ていますし これからもそうしますので 合わないところがあったら ただちに そこは違う どこそこはこれこれこうではないかというふうに言って来てくださるようお願いしておきたいと思います。    *  ですから たとえば次のようなお尋ねの場合には 上の基本原則にしたがってお答えすることになります。  ★ ブラジュロンヌさんに質問ですが、もし僕が簡単な文章でも難しい文章でも何でも求めたら丁寧に言い換えてくれますか??  ☆ すなわちこの《言い換え》というコトが わたしにとっては わたし自身にとってもそして秋さんご自身にとってもそれぞれ《わたし》の自己表現であるということです。  言い換えた文章をととのえること これも大切ですが わたしの重心は そのととのえる作業において 互いに自分の考えや判断をしっかりと打ち出すということ。そして互いに――言葉はわるいですが―― 考えをすり合わせて行くということ。ではないか。  むろん 見解の相違がいちじるしい場合には 見解の相違として合意したというかたちで しばらく休憩時間を置くことにもなります。  このような感じです。    *  ★ ~~~  (n-1)(n-2)(n-3)について:「バッチン」「バッキュン」「パッチン」という言葉で幻聴が聞こえたように感じ取ったということです。  明確に聞こえなかったこともあったと思います。  ★ ~~~~~  (p)について:簡単に処理するのは変換が起きた当時は難しかったのです。  例えば「ある」と心に浮かんだのが 車の音がきっかけで「あ」という一文字の言葉に頭の中および心の中で変換された。その時、自分の意志だと思うが速やかにモトの「ある」や「アントニオ猪木」「揚げ物」などの頭文字が「あ」である言葉に変換が起きたというようなことがあって、それで辛かったのです。  うまく対処できなかったのです。  でもこうやってメモしたり人に伝えることは認知行動療法という対処になると僕は思います。  ~~~~~~~  ☆ このようにご返答をいただきました。  ひとつに わたしの考えによりますと  ★ 認知行動療法  ☆ を超えて 自分の思いや考えをそのつど明らかにできるものならば明らかにして進むということを目指しているかと思います。  頭の中で文字や言葉が妙に引っかかって 何だろうな? といぶかしく思うことは ふつうにあることだと見ます。幻聴にしても 或る日或る時ふと 何か変わったものや関係ないことが思い浮かんだり聞こえたりすることなら 誰にでもあると見ます。むしろ神の声であるかも知れないとさえ見られます。  問題は それをさらに明らかにするかどうかでしょう。分からない・つまり何ともその正体は分からないということであれば そのまま放っておくことでしょう。  もし それでも引っかかりがあって こだわりがつづくようでしたら そのようにさらに考え続ければよいわけです。分からなければ 分からないというかたちで明らかにしておけばよいわけです。  おそらくですが そういう《こだわり》――つまり こだわりや引っかかりが解けないこと――は ふつうのことです。しかもそのコダワリの事態について さらになおわざわざ  ★ 《統合失調症の症状で操られた感じがして》  ☆ というふうに規定することは 《コダワリについてのコダワリ》だと思われます。これは 精神医学がそのように・そしてつまり社会一般も敢えて言えば《共犯》となって 規定するようになったものです。  昔なら くるったなら くるったと言っていたものです。  わたしが正気であったなら それはきみたちのためである。  わたしが狂気であったなら それは神のためである。  と言っていれば済むことです。第一次のコダワリは ふつうのことです。第二次の《コダワリのコダワリ》は 人為的にまた社会的に そのようにつくりあげたものだと考えます。  すなわち 精神分析学が出てからは 治療者(医者)とその治療の対象となる患者という 二項関係が 出来上がってしまったと見ます。そのときつまり 《わたし》からのズレや逸脱の心的現象は いちいち症状として病名として規定することが始まった。   規定したあとはその人為的な定義にもとづき 人びとの心的現象を捉えるようになった。  つまり《コダワリのコダワリ》を固定させるようになった。のではないかと見ます。  このわたしの見方にあてはまらないのは いわゆる器質の問題だと思います。  あとは コダワリのコダワリが固定してしまって 捩じれてしまい 解きほぐしがむつかしくなっている。それだけのことだと見ます。    これでひととおり――お尋ねに対する直接の答えではなかったかも知れませんが―― お答えできたかと思います。全体として こういう問題だと思います。    自由な反論などを 返していただけるとさいわいです。

noname#181272
質問者

お礼

再度ご回答および僕の日記へのコメントありがとうございます。 返事が遅くなりました。 まず日記へのコメント返信をします。 心理療法家の N さんは、ヤンタローさんは誰にでも起きる可能性のあることが「気になって」「症状としてとらえて」悩んでいるからだと思うことをおっしゃいました。 それに対し、ブラジュロンヌさんは以下の文で返信しましたね。  ☆☆(ぶらじゅろんぬの見解) ~~~  コダワリを持つのは ふつうのこと。  コダワリについてさらにこだわるのは 精神分析学がわざわざ始めてしまったもの。  すなおな人は ちょっとコダワリがつよく作用すると この精神分析が始めたコダワリのコダワリという症状規定にとびついた。  そのコダワリのコダワリという世界は 閉じた場であり その場を出ると決めて出ないことには いつまでもそこにいることになる。 : 【A】僕がこの文章を読んで難解だった点は、「拘りについてさらにこだわるのは精神分析学がわざわざ始めてしまったもの」です。 これについてわかりやすく教えてくれると幸いです。 【ここまでAについて答えて欲しい内容】 【B】コダワリのコダワリという症状規定というのはコダワリが強く作用することによって起きる これは統合失調症や高機能自閉症、強迫観念などで起きるかと思いました。 「コダワリのコダワリという世界は 閉じた場であり その場を出ると決めて出ないことには いつまでもそこにいることになる」というのは閉じた場から出る=コダワリを気にしないようにする訓練をすることに思いました。 以上についてどう思うか、教えて欲しい所です。 【ここまでBについて答えて欲しい内容】 続いてNo.23の回答に対するお礼を書きます。 【C】 統合失調症がおそらく50代前後から起きたように思えました。 それまでは症状がなくて、安定していると思いました。 2000年の年の暮れからだとすると50代前後と言うふうに想像できます。 統合失調症を発症したきっかけというのは何かと、軽症か重症か、どのレベルであるかを知りたくなりました。 【ここまでCについて答えて欲しい内容】 【D】僕は、小学生から高校生前半まで、トイレ以外の所でおしっこやウンチをもらしたことがあって怒られたことが何度もありました。 トイレ以外の所というのは学校の教室などです。 他にもその頃は、机を倒したり、椅子を投げる、物を投げるなどの暴力行為をしたことも多かったのです。 でも最近はそういうことはなく、トイレでちゃんとおしっこやウンチをしてしまったことがありました。 小学高学年~中1の間からだと思うが、人が笑った時に笑い声がまるで自分のことを怒っているふうに聞こえたり、笑い声でうるさくて、びっくりした感覚がありました。お腹がびっくりする感じと言えばいいのかな、知りたくなりました。 怒っているふうに聞こえるのが高校までは続き、5年前からはそれがなくなってきました。 それが学校を休学するあたりから幻聴や耳鳴りが始まり、2006年の時幻聴や耳鳴りの音が大きく、ひどくて、動けなかったり自分で飲み食いできなかったり、その場で体が固まってしまい、それが心にまで広がったのです。 心にまで広がったというのは、心の中および頭の中で物事を言っていたり、音楽が再生されていたりすると何らかのきっかけで再生が止まったり、起きた直後に心の中や頭の中で言うのが静止状態になっていたりだと思うが、それがありました。 それは統合失調症の症状で言うと、「(心の中や頭の中で言うのなどが)止められた」「操られた感じ」です。 心にまで広がる=体も心も静止状態になっていた ←が同じ意味なのか、疑問に思いました。 でも最近はそれほどひどくないです。 静止状態のレベルが強かったりするのは、統合失調症の症状だと言えると僕は思いました。 止められたのが数年かひどかった後、その逆の体が勝手に動き続け、自分で自分の動きを止めることができなかったということもありました。 静止が緩んだりすると、自分で動作ができるようになったと思います。 【ここまでDについて答えて欲しい内容】 続いてNo.22に対するお礼内容です。 【E】 >頭の中で文字や言葉が妙に引っかかって 何だろうな? といぶかしく思うことは ふつうにあることだと見ます : 「妙に引っかかる」というのをわかりやすく説明してほしいと思いました。 また「コダワリのコダワリ」がどういう意味なのか説明してほしいと思いました。 【ここまでEについて答えて欲しい内容】 最後に文面からブラジュロンヌさんは哲学関連について述べている、そういうふうに思いました。 実は、#2~17の回答者さんのことも#18~23の回答者さんのことも頼りになります。

noname#181272
質問者

補足

補足します。 これから僕の日記でやりとりしませんか? (1)ブラジュロンヌさんがコメントする→(2)僕が日記で返信する→(3)再度コメントを頂く、の(2)僕が日記で返信をする のが気付きやすいか、気付きにくいかを教えて下さい。

回答No.21

 10時24分さん――とわざと何かを暗示をするような呼び方を いぢわるにも してみたく思いましたが―― あらためまして こんにちは。  § 1 特に変わったことはないという結論を得ました。  ご返答をいただいた限りで――そして このスレッドはぜんぶ読み終えましたので(だから 考古学のほうへも足を運びました)――思うことには 秋の田さんの心理の動きとしては お辛いこともあるでしょうが 特に変わったことがあるとも思えませんでした。  一にも二にも こだわりがあるということ ここに何かしら引っかかるものがある。ということではないかと すでに結論してしまいました。  § 2 どうしてその結論を得たか。  次の文章(つまり 事実認識とその判断)からです。  ★ (l)の延長の質問について:はい。上述したように、訳があって過去に聞いた音楽が頭の中か心の中で流れるのが止まらないのです。  ☆ ということは この  ★(α) 訳があって  ☆ のところを出来れば明らかにするということ。これだけの問題だと思われたからです。  あるいは  ★ ~~~~  (m)について:最近は変換がなくなりましたが、「ある」→「有る」、「有る」→「ある」の文字の変換があった頃は#19のお礼で書いた(g)の質問に対する回答のとおり、辛く感じたことが多かったです。  文字の変換については他の物事は関連してないと思います。過去に聞いた音楽が止まらないのは他の物事が関連していたと思います。  ~~~~~~  ☆ ここですね。つまり  ★ 文字の変換については他の物事は関連してないと思います。  ☆ これです。ここまで明らかになっているということです。言いかえると  ★ 過去に聞いた音楽が止まらないのは他の物事が関連していたと思います。  ☆ というときの  ★(α‐1) 他の物事〔が関連していた〕  ☆ に《犯人》は ひそんでいる。つまり 《(α) 訳があって》のことです。  § 3 《犯人》つまり《こだわりの原因》は かんたんには見つからないかも知れない。しかも 見つからなくても 《過去に 何かがあったのだ》と確認しておくだけでじゅうぶんであるとも考えられる。  というさらに 結論からのわたしの結論なのですが その原因は ふとしたことから分かるようになることもありましょうし あるいはもう永久に分からないままであるということもあるかも知れません。けれども 問題は 過去の事件〔なら事件としますが〕がたとえ明らかにならなくとも ふつうはそれと同じようなコトが ときには起きることがあると思われます。そのときに たとえ過去の事件との関連に注意が行かなくても そのあらたな事件にきちんと対処し得たなら そのことで こだわりの大部分は消えて行くのではないか。こう思います。(素人がえらそうに言っているということになりますが)。  以上が全体として見た ぶらじゅろんぬの見解です。      *  ★  bragelonneさんはどこまで回答を読みましたか?  ☆ 読み終えましたが 次の言葉が分かりにくいです。  ○ バッチン( battin )またはパッチン( pattin )とバッキュン    ( n‐1) バッチン・パッチンは 何かを打つ・叩く音のことか?  ( n‐2) バッチン( battin )は ばばっちい(=汚い)か?  ( n‐3) バッキュンは ピストルで撃たれたごとく衝撃を受けるの意か?      *  ★ 【「う」】これについて言い換えを教えてほしいのです。  ☆ これは 特に言い換える必要もないと考えます。  ★ 頭の中か心の中どちらになるかは判断できないが  ☆ 基本的に言って 自分がどちらを用いたいかで決めてよいと思います。  ただし 次のような区別が必要なばあいがあります。  質問ではありませんが:  ( o‐1) 花子が恋人の太郎に 次のように言ったら それは恋心のことです。    ・ いつもあなたのことを心の中で思っているの。  ( o‐2) けれども次のように言ったら 別の意味になります。    ・ いつもあなたのことを頭の中で思って(または 考えて)いるの。    ☆ これだと たとえば《あなたは ひょっとしてあの愛子さんと浮気をしてるんぢゃないかしら。心配だわ》というふうな意味合いが出ます。(つねに ではありませんが)。    感情や思いが入る場合は 《心の中で》と表現する傾向ではないでしょうか。  もっとも こういう場合もあります。  ○ 《「あ」「う」「な」などの一文字の言葉が ≫頭の中に≪ 浮かんで それが ≫心の中で≪も いだかれて辛い感じであった》。      *  ★(原文をぶらじゅが編集しました) 「ある」「動くな」「鳴らすな」から 一文字の「あ」「う」「な」への変換――あるいは その逆の変換――  ☆ こういうことは 頻繁には起きないでしょうが ふつうにあり得ることですよ。たぶん たしかに語の全体と一文字との互いの変換は めづらしいかも知れませんが そういった語や文字やあるいは音(メロディなど)の入れ替わりは 日常茶飯事ではないかと思います。  ということは そのような入れ替えのコトが問題ではなく それに関連した何か――たいていは 過去の出来事だと思われますが――が問題となって こだわりが起きている。こう解釈され得ます。(それはないというお考えだったのですが あらためてそう捉えてみます)。  ( p ) ですから 変換にはこだわる必要はないと言いたいのですが それは かんたんには処理するのがむつかしいですか?  ということは それに関連するような何かのほうにこだわってみては どうでしょう? 別の何かにこだわるように対象を変えてみるということですが。  だいたいは 家族か友だちか学校の先生か あるいは親戚の人か近所の人か・・・とのかかわりで 過去の事件は起きたと考えられます。     *  ★ (l)の延長の質問について:はい。上述したように、訳があって過去に聞いた音楽が頭の中か心の中で流れるのが止まらないのです。  ☆ 重ねてになりますが それは ふつう自分でとめられないものと思いますよ。放っておけば とまります。  というよりは 音楽や文字(?)や言葉にしても けっきょく外でも――家の中にいても街に出ても 外からでも――聞こえて来ます。これは 自分の意志だけでとめるわけには行きません。テレビなら消せばいいのですが 街頭の音や店の中の音楽やは かんたんに消せません。  そう言えば わたしはスーパーマーケットで流されている《春の小川》や《ぶんぶんぶん 蜂が飛ぶ》やそのほかの曲が よく思い出されますよ。  あぁそう言えば 春の小川で 笑い話をつくったことがあります。養老の滝ではありませんが 小川も酒飲みなんだなぁという話です。だって    ♪ ~~~  ・・・  きいし(岸)のすみれや れんげの花に  ・・・  さあけ(酒)よ さけよとささやきながら  ~~~~    とうたっていますから。花たちとの酒盛りのようです。     *  ★ 【「い」】これって「ストレスを感じる」って言って良いですかね?  ☆ これは もうご存じのように 現代人でストレスを感じていない人はいない。でしょう。  (もっとも わたしは 三十歳ころから ストレスという言葉は わたしの辞書から消えましたけれど。こういう大ほら吹きのところもあります。つまり 法螺ではありませんが ほらに聞こえることを平気で言います)。     *  ★ 最近は H さんと仲が悪くないです。  ☆ よかったです。  もっとも わたしの行き方としては 《けんかは 口げんかまでは 大いにしてもよい》という方針ですけれど。     *  ★ 〔* わたし=ぶらじゅろんぬの書いた文章を〕わかりやすく本みたいに作ってそれを読んでいたのです。  ☆ えっ? えっ? えっ? いやぁ そうなんですか。でしたら 大ほら吹きの側面もお分かりだったでしょうか。     *  ★ ~~~~  【「あ」】自分は頭の中以外の場所(例えば胃・耳・足など)にも過去にどこかで聞いた・見た情報などがこびりついていて、それがそこから湧き出てしまうことがあったと思うんですが、こういう場合何と表現したらいいか、疑問に思ったんです。  「心の中」ですかね?  ~~~~~~  ☆ たしかに《つらい》という気持ちがかかわっていたなら 心の中でもあると思います。  そして これらのこだわりは その情報じたいの問題ではなく それにかかわりのある過去の出来事なのだとわたしは考えます。     *  カレーライス二人前は せいぜい二か月に一度食べに行く程度ですから(つまり ほかの外食は別としてです) ちょっと大げさに言い過ぎました。感想をありがとうございました。  依存ではなく また 意志はけっこうつよいほうです。すみません。この部分では脚色が過剰でした。  見落としがあったら また見直します。それでは 今回はこのあたりにて。

noname#181272
質問者

お礼

再度ご回答ありがとうございます。 僕のokwaveIDのことですけど、10時24分という意味ではありません。 fall=秋、1024=10月24日、ta=自分の名(姓ではない)の頭文字です。 【●】実は「こだわり」が何のことかわからないのです。 イントロからエンディングまで頭の中で過去に聞いた音楽が流れて、それが止まらない(離れられない=音楽以外のことに意識を向けるのが難しい)ことは「こだわり」で合ってるかどうか、知りたいです。 サビ部分から音楽がふと頭の中および心の中で流れたが、《統合失調症の症状で操られた感じがして》イントロから音楽が流れたりして止まらないようなこと これについて「こだわり」かどうかと、《  》の文章などを言い換えた表現が知りたいのです。 操られた感じというのは、他者の意のままに動かされた感じと言えると思うのです。 > ★ (l)の延長の質問について:はい。上述したように、訳があって過去に聞いた音楽が頭の中か心の中で流れるのが止まらないのです。 > ☆ ということは この > ★(α) 訳があって > ☆ のところを出来れば明らかにするということ。これだけの問題だと思われたからです。 : 訳というのは、どういう事かというと、精神科の主治医の先生などから統合失調症の方で操られた感じがして(=被害妄想的な感じ)1つのことから離れられない つまり例えば黙読や過去に聞いた音楽が頭の中で流れて止まらない こういうことは良く聞くということを聞いたんです。 つまりそういう実例をご存知だと言うことです。 これに似たようなことが自分の中で起きていたと言うことだと思うんです。 その結果、音楽が途中のサビ部分から流れるのが嫌だとか、イントロ部分から流れて止まらないということが起きたのです。 このことについて、ブラジュロンヌさんがどう思うか、知りたいのです。 【ここまで●について答えて欲しい内容です】 文字の変換についてですけど、喫茶店(=作業所)で働く前でも、浮かぶ以前に見た文字が明瞭に記憶された それが文字として浮かんだが、幻聴や耳鳴りがきっかけで違う文字(関連している)に変換が起きたことがあったんです。 その時のことはもう忘れてしまいました。 例えば、 「栗」という漢字が幻聴・耳鳴りがきっかけで「くり」という平仮名に変わったということです。(これは幻聴・耳鳴りがきっかけで変換されたことのない文字です。だけど、例をあげておきました) もう1つ例をあげると「ポカポカ陽気」と言う文字が浮かぶ時、「ポカポカようき」 という文字に変わるということなのです。 おそらく喫茶店で働く以前にそのようなこと(=幻聴・耳鳴りをきっかけとした文字の変換)があった理由で、喫茶店で文字の変換が起きたのかどうかはわからないのです。 (n-1)(n-2)(n-3)について:「バッチン」「バッキュン」「パッチン」という言葉で幻聴が聞こえたように感じ取ったということです。 明確に聞こえなかったこともあったと思います。 汚いとかピストルで撃たれたごとく衝撃を受ける意味で聞こえたのではないと思うんです。 (p)について:簡単に処理するのは変換が起きた当時は難しかったのです。 例えば「ある」と心に浮かんだのが 車の音がきっかけで「あ」という一文字の言葉に頭の中および心の中で変換された。その時、自分の意志だと思うが速やかにモトの「ある」や「アントニオ猪木」「揚げ物」などの頭文字が「あ」である言葉に変換が起きたというようなことがあって、それで辛かったのです。 うまく対処できなかったのです。 でもこうやってメモしたり人に伝えることは認知行動療法という対処になると僕は思います。 ブラジュロンヌさんに質問ですが、もし僕が簡単な文章でも難しい文章でも何でも求めたら丁寧に言い換えてくれますか?? 再度返信の回答をください。

noname#181272
質問者

補足

補足します。 #21に対するお礼の最初の部分ですけど、10月24日というのは僕の誕生日です。 ブラジュロンヌさんにもう1つ質問があるんですけど、哲学カテゴリに良くいる方と言うことがわかったんですが、心理学についても詳しかったりするのでしょうか? また詳しいのなら、どうして詳しいかも教えていただけますでしょうか?

回答No.20

 秋1024田さん お早うございます。ご返答をありがとうございます。  No.6まで読みました。ちょうどよいご説明があったので 途中ですがそれをめぐって したためます。  つまり次の《頭の中で音楽が流れること》にかんしてです。  ★★(No.6補足欄) ~~~  「脳内音楽を止める →頭の中に流れる音楽を止めたいと感じた、ちょっと止めたくなった、自分で止めてみたくなった、・・・(中略)・・・」  :  僕の中ではまさに回答者さんが言うように「頭の中に流れる音楽を止めたいと感じた」り、「ちょっと止めたくなった」、「自分で止めてみたくなった」などが起きていたんです。  「止める」と言うふうに心の中(頭の中)で浮かぶ前でもそういうふうに思ったりしたことがありました。 「止める」という言葉が浮かぶ前までは、やはり「ネガティブな出来事(何らかのきっかけで音楽を止めるのを禁止されたと感じたり思ったなどが統合失調症の方に出る症状だと思った)」があったりしたんです。  サビから音楽が流れたときに何らかのきっかけでイントロからエンディングまで流れて止まらないことがあった感じだと思うんです。  統合失調症の方の考えで言うと、それは「意のままに操られた」と言えると思うんです。  ~~~~~~~~~~~  ☆ つまり これは 前回まさにわたしも触れました。そして わたしから言わせれば まったくふつうのことであると思う事例です。  ○ ~~~~  誰にでも ふと頭の中にメロディが流れることがあります。心地よいなら 流れるにまかせますし あまりいい感じがしないなら 放っておきます。  そしてまた 何かのきっかけで 別のメロディが頭の中に入って来てそれまで流れていたものを押しのけることもあります。  ~~~~~  ( h ) この問題を取り上げたいと思うのですが どうでしょう?  ( i ) つまり まったくふつうのことだとわたしは思うのですが それが こだわられて来るということでしょうか?  ★ 「ネガティブな出来事(何らかのきっかけで音楽を止めるのを禁止されたと感じたり思ったなどが統合失調症の方に出る症状だと思った)」  ★ イントロからエンディングまで流れて止まらないことがあった感じだと思うんです。  統合失調症の方の考えで言うと、それは「意のままに操られた」と言えると思うんです。  ☆ 《そのメロディを止めたいと思うけれど 止められない》ゆえに《意のままにあやつられた》 こういうことも じつは たぶんふつうに起こることだと思いますよ。  わたしは――すでに65歳ですから―― 塩分を控えなくてはならないのですが ついカレーを食べたくなって 食べてしまいます。(ガストで サラダバーとともにカレーを注文して――バイキングですから―― 二人前を食べてしまいます)。おいしい。ですよ。  そういうとき思うことは あぁ おれは 意志が弱いなぁ です。わかっちゃいるけど やめられない です。  ( j ) 以上のような話について どう思われますか?    *  ご返答でのお尋ねに答えてまいります。  ★ 既出の回答を途中まで読んだんですね。  ☆ No.18の回答を書いたあと読みました。  ★ ~~~~  そうですね、確かに#2~4の回答者は長い文章で丁寧に詳しく言い換えしてくれました。  それで心がスッキリした感じがありました。  正直な回答がもらえると、スッキリしたりします。要するに心のつかえが減ったり、解消したりするということです。  ~~~~~~  ☆ そうでしたか。それを知らずに わたしは そのつど質問者さんとやり取りして進めたほうがよいと言ってしまいました。  言い換えは その方にまかせてわたしは 対話のほうで話をすすめてまいりたいと思います。  ★ ~~~~  【A】一文が長いものを書いたりしてなかなか読みにくいというのは、一文が長いものをブラジュロンヌさんが書いたりしてなかなか読みにくいということ、それがそうなのかどうか答えてほしいのです。  僕も何回も文章を読んだことはありました。  ~~~~~~  ☆ えっ? そうなんですか。読んでもらったことがあるのでしたら むしろ どうでしたか? とこちらからお尋ねしたい気持ちです。  長い一文を書くことは 事実です。そのあと 読みにくいかどうかだと思います。あるいは 読み取りにくいかどうかが 重要であるかも知れません。  一度読むだけで分かるようには書いていないのではないかと 自分ながら 思います。いっぺん前へ戻って 読み返すことを《強要》しているかとさえ思います。  最近は 少しゆるくなって来ました。そういう批難の声を受けたからかも知れません。  ★ (a)作業所=喫茶店です。  ☆ そうしますと   ( k ) 《利用者》さんたちは そこで客の注文を取ったりそれをお出ししたりする店員さんの仕事をなさっているのですね?  ★ (f)「Hさんとの関わりはない・・・・」の意味が難解ですので、わかりやすく教えて下さい。  ☆ その《何だぁ》という言葉ですけれど うかがったところによれば それほど重大なこととは関係していない。と思われます。  ( l ) 確認ですが けっきょく H さんとの仲がわるいわけでない。ということですよね? H さんは何かわけがあって《何だぁ》と発したかも知れないけれど たとえばけんかをして そのようになったというわけでもない。のですね?  でしたら 上に見た《音楽が頭の中に流れて 止まらなくなったりすること》とあたかも同じように 日常生活の中でふつうに見られる何でもないことであるように思います。でも 気がかりですか?〔=問い ( l )の延長〕。  ★ 〔* 「ある」と「有る」の文字の想起と互いへの変換をめぐって〕 回答者さんがおっしゃるように、何回も変換が起きてこれが数ヶ月か続き、その後はこういう嫌なことが起きることがなくなったりしたのです。  ☆ については  ( m ) うかがった限りでは ごくふつうの出来事であると結論づけるのですが まだそれにまつわることなどとして こだわりがありますか? 文字やその変換のことではなく それらをめぐってほかのモノゴトが関連していますか?  途中までのデータを読んだかぎりでですが このように思っています。どうでしょう?

noname#181272
質問者

お礼

再度ご回答ありがとうございます。 (h)について:いいですよ。 (i)について:そうです。 (j)について:カレーライスを食べることがやめられないのは依存していると思いました。パソコンを控えることができない(パソコンがやめられない)のと同じようなことだと思いました。二人前となると、かなりの量だと思いました。 話を具体的にします。 「(脳内音楽を)止める」という言葉が心の中か頭の中のどちらかは判断できないが、浮かんだ。 これはどういうことかというと、「(過去に聞いた音楽が頭の中および心の中で再生されるのを自分の意志で)止める」「(過去に聞いた音楽を頭の中および心の中でずっと流していたのを自分の意志で)止める」ということです。 喫茶店で働いていたときなどは単に「止める」と言うふうに頭の中か心の中で浮きあがったのです。 【「あ」】自分は頭の中以外の場所(例えば胃・耳・足など)にも過去にどこかで聞いた・見た情報などがこびりついていて、それがそこから湧き出てしまうことがあったと思うんですが、こういう場合何と表現したらいいか、疑問に思ったんです。 「心の中」ですかね? 【ここまで「あ」について答えて欲しい内容】 「(過去に聞いた音楽が頭の中および心の中で再生されるのを自分の意志で)止める」「(過去に聞いた音楽を頭の中および心の中でずっと流していたのを自分の意志で)止める」=喫茶店で働いていたときなどに単に「止める」というふうに頭の中および心の中で浮かんだ前や後も、過去に聞いた音楽が流れて、訳があって自分の意志で止めることが難しく感じたことがあったのです。 「止める」という言葉が浮かぶ前は、禁止、制限、命令などが強くて、それが「止めるな」ような言葉などが頭の中か心の中どっちかはわからないですが、浮かんだ感じなんです。 実はパソコンで「冷たい頬/スピッツ」「コイン/コブクロ」の曲を聞きながらこの回答に対する返事を書いていると「祭りのあと/桑田佳祐」という過去に聞いた曲が頭の中か心の中どっちかはわからないですが流れていたことがあって、止まらないことがありました。 他にも喫茶店で働いていて、朝礼時にラジオ体操をするのですが、体を動かしているときに、頭の中か心の中どっちかはわからないですが過去に聞いた音楽が流れて、止まらなかったこともあって辛く感じたこともありました。 つまり音楽が流れるほうに意識がいってしまったと思うんです。 他にもAの曲(例えば桑田佳祐)とBの曲(例えば宇多田ヒカル)がいっしょに頭の中か心の中どっちかはわからないですが流れていて、Aの曲とBの曲の再生が止まらないこともありました。 また途中のサビ部分から過去に聞いた音楽が頭の中および心の中で流れたりするのにもこだわりがあったのです。 *** 「何回も文章を読んだことはありました」-「えっ?そうなんですか。」に対して:そうです。文章を何回も読んだことがありました。パソコンをやってないときでもやりとりを一太郎でそのまま書いて印刷したものを読んでいました。 わかりやすく本みたいに作ってそれを読んでいたのです。 (k)について:そうです。客の注文を取ったりそれをお出ししたりする店員さんの仕事をしているのがホールの人の役割です。 逆に厨房の人の役割が洗い物がほとんどだったりすることがあります。 (l)について:最近はHさんと仲が悪くないです。Hさんは僕に「何だぁ」という嫌な言葉を言いません。当時はケンカをしたわけではありません。Hさんは、僕が喫茶店に働きに来ていたことを慣れてなかったために、「何だぁ」と言っていたかと思うんです。僕はこのことに対し、嫌だったことがありました。 【「い」】これって「ストレスを感じる」って言って良いですかね? 【ここまで「い」について答えて欲しい内容】 (l)の延長の質問について:はい。上述したように、訳があって過去に聞いた音楽が頭の中か心の中で流れるのが止まらないのです。 (m)について:最近は変換がなくなりましたが、「ある」→「有る」、「有る」→「ある」の文字の変換があった頃は#19のお礼で書いた(g)の質問に対する回答のとおり、辛く感じたことが多かったです。 文字の変換については他の物事は関連してないと思います。過去に聞いた音楽が止まらないのは他の物事が関連していたと思います。 実は、「ある」「動くな」「鳴らすな」などの言葉が頭の中か心の中どちらになるかは判断できないが浮かんだことがあったのです。それが何らかのきっかけ(=車の音が聞こえたとか、犬が吠えたなど)で「あ」「う」「な」などの一文字の言葉に頭の中か心の中どっちかはわからないですが短い語で浮かんで辛さを感じたのです。 短い語で強引に浮かんだということだったのです。 【「う」】これについて言い換えを教えてほしいのです。 【ここまで「う」について答えて欲しい内容】 その短い語で強引に浮かんだ出来事が数ヶ月か起きた後、作業所で働くようになってから職員さんの言動などがきっかけで、モトの「ある」「動くな」「鳴らすな」というふうに連続して頭の中や心の中で出てそれが強制されていた感じだったり、頭の中でだと思うが「断片的になっていた」要するに「あ」「う」「な」というふうになっていた情報がモトの「ある」「動くな」「鳴らすな」に変換されたりがあったと思うんですが、そういうことがあったのです。 このことが過去に聞いた音楽が頭の中をよぎるのが止められなかったことと関連していると思うのです。 それとbragelonneさんはどこまで回答を読みましたか? 再度回答を下さい。

回答No.19

 秋1024たさん あらためまして こんばんは。  お答えしてまいります。  ★ ~~~  【A】あなたは考えることや文章が上手い誠実で堅実な人と聞いたんですが、そうなのか知りたいです。  そうだとしたらどうしてなのか知りたいのです。  ~~~~~  ☆ 文章は うまいと思うときもあります。でも一文が長いものを書いたりして なかなか読みにくいという評判もあります。わざと 二度読みさせてしっかりと考えさせるという魂胆です。  考えることについて これまで哲学カテを全般的に見渡したかぎりでは あんがいいい線を行っていると自分ながら思います。  その考えについて・または考え方についていつも堅実であろうと心がけています。  誠実は むかし・つまりわたしが若い頃ですから大昔 信条は何かと訊かれてこの誠実だと答えたら どうもその人は やさしさだと言いました。そのときから考えを重ねてたどり着いた結論は こうです。  つまり 相手に応じて その人がいちばん自由な発想や行動を起こすことのできる状態にいることが出来るようにというそのことのために 或る時はわざとふざけたり或る時は同じくわざといぢわるを言ったりするようになりました。  言いかえると 自分に対して誠実であることをつらぬくということからは 少し飛躍するようになりました。相手との関係で さらにそのときの広い全体の情況に応じて 互いの共生や自由を目指す。こういう方針です。  ★ そうだとしたらどうしてなのか知りたいのです。  ☆ 誠実にかんしてもう少し書きます。つまり 上に書いたことは かなり危険を冒すような内容をもった方針です。言えることは 自分に対して誠実の一辺倒であることは その誠実を変える必要はないでしょうが 相手が 誠実すぎていやだと言う感じを受けているとしたら 誠実を変えることをせずに 控えたりぎゃくにおどけたりすることがあります。  言いかえると それは 或る程度互いに信頼関係が出来ているという条件のもとで 出来ることだとも考えます。たぶん舌足らずだと思いますが このあたりまでとします。  ★ ~~~  A(1)喫茶店で働いていたとき:バイト・正社員として働いているわけではありませんでした。  作業所で働いてました。当時(2010年)週2回働いてましたが、最近は週2~3回僕は働いています。  ~~~~~  ☆ この問いは なんとなく前もって知っておくとよいと思って出したものですが   ( a ) 作業所は 喫茶店に付属しているということですか?  ★ 【B】(2)「心の中で浮かんだり、頭の中で浮かんだ」と言う文にしたほうがいいかどうか知りたいです。  ☆ 《言葉が浮かんできた》という場合は 心の中でと頭の中でと どちらの場合もあると思います。頭の中でというのは おもに考えをしているときなどに思い浮かぶという感じです。心の中でというのは その言葉が好きだから心の中で思っているなどといった場合に使うと思います。  ★ 《あ:記憶されていた文字》「ある」  ☆ だとすれば 頭の中でのほうが合っているように思われます。それほど感情は入っていないと思われるからです。  これは 順序が前後しますが 次の問いについても答えていると思います。  ★ ~~~  (5)記憶されていた文字「ある」が頭の中で別の文字「有る」に変換された:  【C】なぜ「頭の中で」と言うのか、わかりやすく詳しく教えて欲しいです。  ~~~~~  ★ (4)ある時お客さんが発したとありますが、正しくは喫茶店で働いていた利用者(Hさん)です。  ☆ ( a )の《作業所は 喫茶店に付属しているということですか?》もかかわってくるようですが  ( b ) 《利用者》というのは 作業所のということですか?   ★ ~~~~  「何だぁ」という言葉は、喫茶店の控え室(2階)で昼ご飯を障害のある利用者さん(Hさん)と僕とNさん(利用者さん)の3人だけだったと思うが、食べていた時にHさんが声に出して言った言葉です。  1Fの厨房で働いていてHさんが「何だぁ」と言ったかどうかは覚えてません。でもたぶん言ってたかとは思います。  僕に向かって「何だぁ」と言っていたと思うんです。  ~~~~~~  ☆ ということは    ( c ) 喫茶店の控室(2階)も 作業所につながっているのですね?  ( d ) 1F の厨房では おそらく H さんは あなたに向かって「何だぁ」と言っていた。それは 怒っていたのですか? 何かわけがあったのですか?  ( e ) 昼食を食べていたときには H さんが「何だぁ」と言ったのは 必ずしもあなたに向かってではないのですね? そしてどういうわけで言ったかも分からないのですね?  ★ (6)Hさんが「何だぁ」と言ったこと これがきっかけで「ある」が「有る」に変換されたり、数秒後にまたHさんが「何だぁ」と言ったこと これがきっかけで変換された「有る」が「ある」に戻ったと言う出来事が起きていたと思います。  ☆ これは わたしが思うにですが   ( f ) 単なるきっかけになったということであり それほど H さんとのかかわりはないのではないかと思われるのですが 違っていましょうか?  ★ ~~~  「何だぁ」とHさんが言う。 * 数秒後に「何だぁ」とHさんが言う。  *の時に「ある」から「有る」に文字が変換が起こったが、速やかに「有る」が「ある」に戻ったことを辛く感じたのです。  自分の意志で「ある」が「有る」に変換が起きて、速やかに「有る」が「ある」に戻るのを止める気持ちがあったと思うのです。  ~~~~  ☆ これはですね。《きっかけ》となるコトやモノというのは 何ということもなく案外つよくはたらくものだと思います。たとえば あさ起きて何となくリズムが脳裏に生じて来て そのメロディに覚えがあるとその続きを頭の中でたどっていることがあります。そしてしかも 次にテレビから違うメロディが聞こえてくると それがなじみやすいものだとすると 今度はその違うメロディに頭の中は変わって行きます。簡単に変わり得ます。  というような経験があるのですが   ( g ) いまの問われている場合には その変わることを止めたい気持ちがあったということですね? それが 辛い感じを与えたということですね?   わたしには 上に述べた体験からすれば それほど問題にすることもないようには思います。  ★ ~~~~  (7)  回答者が書いた出来事が起きたんではありません。  「有る」が「ある」、「ある」が「有る」などの変換が何度も起きた これが数ヶ月か続いた後、変換がないことが多くなった。  ~~~~~  ☆ これは 失礼しました。なるほど。何回も変換また変換が起きたということですか。  そうですね。ただ これも それほど問題にすることもなく そういう変化と言いますか動きと言いますかは よくあることだとも思います。けれども 止めたい気持ちがあって 辛い感じもする。ということですね。  それはそれで お医者さんに伝えるということになるかと思います。  ★ 既出の回答も読んだらそれに対する回答も下さい。  ☆ No.4までを読んだ感想としましては No.2~No.4さんは ていねいすぎるというほどにきちんと言い換えをなさっていると思います。  《辛い感じ》についても その事情を察してその考えで述べているようです。  もし乱暴にその難を言うことがゆるされるとしますと そのつど 質問者さんに尋ねることも大事かなと思ったのでした。質問者さんも そのような問答をつうじて その事態や情況のことがさらに明らかになっていくこともあるかと思うからです。  起きたことについて 自分の意志や気持ちや そして相手の心やさらに周りの情況などをきちんと把握してすすむことがよいと考えます。割り切れなさを持ち続けないで行くのが よいのではないかとです。  こんなところです。  あぁ えぇ わたしは医療のことは素人です。その点は ここに書き込んだことについて 割り引いておいてくださったほうがよいかとも思います。

noname#181272
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 既出の回答を途中まで読んだんですね。 そうですね、確かに#2~4の回答者は長い文章で丁寧に詳しく言い換えしてくれました。 それで心がスッキリした感じがありました。 正直な回答がもらえると、スッキリしたりします。要するに心のつかえが減ったり、解消したりするということです。 >文章は うまいと思うときもあります。でも一文が長いものを書いたりして なかなか読みにくいという評判もあります。わざと 二度読みさせてしっかりと考えさせるという魂胆です。 : 【A】一文が長いものを書いたりしてなかなか読みにくいというのは、一文が長いものをブラジュロンヌさんが書いたりしてなかなか読みにくいということ、それがそうなのかどうか答えてほしいのです。 僕も何回も文章を読んだことはありました。 【ここまでAについて答えて欲しい内容】 本題に移ります。 (a)作業所=喫茶店です。 ※喫茶店で働いていたとき:バイト・正社員として働いているわけではありませんでした。  作業所で働いてました。当時(2010年)週2回働いてましたが、最近は週2~3回僕は働いています。 : ※のことで言い忘れていたことがありました。 2010年5月は体験として働きました。6月から9月下旬前半までは週2回でした。それ以降は週2~3回と言った具合です。体操教室があったので、週2~3回に増やしたんです。 (b)利用者=作業所で働いている障害の人のことです。ランチなどを食べに来るお客さんではありません。 利用者数は2010年当時は僕入れて6人でしたけど、今は9人です。 (c)はい。つながっています。 (d)怒っていたかどうかはわかりません。わけがあったと思います。 (e)僕に向かって言っていたかもしれません。どういうわけで言ったかもわからないかどうかに対して、そうだと言えます。でも最近は僕に「何だぁ」という嫌な言葉は言ってないです。職員さんに一昨年「何だぁ」と言った利用者さんが注意されたためだと思います。 【B】 (f)「Hさんとの関わりはない・・・・」の意味が難解ですので、わかりやすく教えて下さい。 【ここまでBについて答えてほしい内容】 (g)1:「何だぁ」とHさんが言う。******2:数秒後に「何だぁ」とHさんが言う。 1の時、文字「ある」が文字「有る」に変換された 2の時、文字「有る」がモトの文字「ある」に変換された ******の時、変換された「有る」が自分の意志だと思うが文字「ある」に戻ったりすることに辛さを感じたということです。 ******の時、「有る」が「ある」に変わるのを自分の意志で止める気持ちがあって、それで止めていたが、2の時に「有る」が「ある」に戻ったことがあったという記憶があるのです。 回答者さんがおっしゃるように、何回も変換が起きてこれが数ヶ月か続き、その後はこういう嫌なことが起きることがなくなったりしたのです。 以上を踏まえて再度回答下さい。

回答No.18

 こんにちは。  既出の回答をまだ読んでいません。が直接 趣旨説明について応答してみます。  【 A 】  ★(1) 一昨年(2010年)喫茶店で働いているとき、  ☆ バイトか正社員かを明らかにしたほうがよいと思う。  ★(2) 心の中(=頭の中)で「ある」と言う言葉が浮かんできた(言った感じ)。  ☆ 《心の中》と《頭の中》とは 必ずしも同じではない。確かにそれは その人の感触による違いのようなものだが おそらく自分の感覚として どちらか一方に決めたほうがよいように思う。  ★(3) その時、《あ:記憶されていた文字》「ある」がいっしょに浮かんできた。  ☆ 言い換えです。   ○ ・・・「ある」という《記憶された文字》(これを 《あ》とする)が・・・  ★(4) それが何らかのきっかけ(=喫茶店の利用者さんが「何だぁ」と言って嫌だったこと)で  ☆ 言い換えです。   ○ きっかけ(たとえば 喫茶店に来ていたお客さんが或る時発した言葉 たとえば「何だぁ」と発したことば)で  ですが この「何だぁ」は どのような場合に発せられたのかが これでは分かりません。それを明らかにすることが必要です。  ★(5) 《あ:記憶されていた文字》「ある」が文字「有る」に変換された。  ☆ こういう場合は だいたい 《頭の中で》になると思います。そして そのように添えたほうがよいはずです。  ★(6) それを辛く感じたことがあった。要するに「有る」がモトの文字「ある」に変換されることなどに辛さを感じたということである。  ☆ ひとつに  ○ モトの文字「ある」が漢字の「有る」に変換された   のでしょう?  ひとつに この《辛く感じた》のは どういうふうにか? どうしてだったか? 辛く感じてさらにどう思ったか? をもし分かっていたなら さらにつけ添えたほうがよいと思う。  ★(7) 変換が数ヶ月か起きた後、《う:文字が変換されるのが解除されるまでの流れの出来事も起きた》。  ☆ 言い換えです。    ○ 変換が起きて何ごともなく数か月が過ぎたころ あらたな出来事にわたしは出遭った。すなわち 《「有る」に変換されて記憶していたその文字が いつしか再変換されてモトの「ある」という文字に戻っていたのだった》(この出来事を 《う》とする)。  もしくは それに添えるに:  ○ ・・・この《う》なる出来事については 《漢字への変換が解除されるがごとく 再変換されるその流れ》じたいをも あざやかにわたしの頭の中では体験したのだった。     *  もう少し行きましょうか。  【B】  ★(8) ~~~~  パソコンで「Outlook Express」を開いた後、例えば「[受信トレイ]に20通の未開封メッセージがあります」「受信トレイ(20)」という文字を見たり心の中(頭の中)で言う感じではき出したりしたときに「おい」という幻聴がきっかけで「--通の未開封メッセージがあります」「0通の未開封メッセージがあります」という、《い:別の文字》に変換されたり、「--通の未開封メッセージがあります」「0通の未開封メッセージがあります」という言葉に頭の中(心の中)で変換されたりしたことがあった。変換内容が後で当たったり外れたりした(後で迷惑メール以外のメールなどが来ている[来てない]ことに気付いた)。  ~~~~~  ☆ こういう予感は 誰にでもあります。頻繁にはないかも知れませんが 或る種の予言のごとく当たるときはあります。  ★(9) ~~~~~~  :  《あ:記憶されていた文字》ということについてですが、わかりやすく言うと、自分の目に焼き付いたり、頭の中に記憶されたりしていたもの(要するに文字を見てその見た文字が映って見える 要するに見た文字がそのまま長く残ったもの)が浮かんでくることなんです。 写真のように文字が記憶されると言えるんです。  ~~~~~~~~~~  ☆ それを記憶と言います。当たり前です。  ★(10)「有る」という文字も、見た文字が自分の目に焼き付いたり、記憶されたりしていたものだと思うんです。  ☆ 上に同じ。  ★(11) 文字が長く記憶されている(見えている)のも例えば人の顔を見ると、見た人の顔がそのまま長く自分の中で見えるのや、人の顔を見た後に文字を見ると文字が人の顔に見えることと同じようなことだと思うんです。  ☆ 《文字》と《人の顔》とが連想されることは ふつうにあります。それ以上に連動するのは 記憶に何かこだわりがあって そうなるのではないかと考えます。あるいはつまりその顔の人物にこだわりがあるといった場合です。  ★(12) 《い:別の文字》というのも《あ:記憶されていた文字》と同様です。  ☆ おそらく そうでしょう。つまり ふつうのことです。  ★(13) 《う:文字が変換されるのが解除されるまでの流れの出来事も起きた》の別の表現(言い換えた表現)も知りたいんです。  ☆ =(7)。  とりあえず ここまでとします。どうでしょう?

noname#181272
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 #2~17さんから聞いたんですが、あなたが年がら年中哲学カテゴリにいるブラジュロンヌさんなんですね。 【A】あなたは考えることや文章が上手い誠実で堅実な人と聞いたんですが、そうなのか知りたいです。 そうだとしたらどうしてなのか知りたいのです。 【ここまでAについて答えてほしい内容】 A(1)喫茶店で働いていたとき:バイト・正社員として働いているわけではありませんでした。 作業所で働いてました。当時(2010年)週2回働いてましたが、最近は週2~3回僕は働いています。 【B】(2)「心の中で浮かんだり、頭の中で浮かんだ」と言う文にしたほうがいいかどうか知りたいです。 【ここまでBについて答えてほしい内容】 (4)ある時お客さんが発したとありますが、正しくは喫茶店で働いていた利用者(Hさん)です。 僕も障害がありますし、利用者さん(Hさん)も障害があります。 当時障害がある僕も利用者さん(Hさん)もそれ以外の利用者さんも9時半から15時半まで働いてたんです。 「何だぁ」という言葉は、喫茶店の控え室(2階)で昼ご飯を障害のある利用者さん(Hさん)と僕とNさん(利用者さん)の3人だけだったと思うが、食べていた時にHさんが声に出して言った言葉です。 1Fの厨房で働いていてHさんが「何だぁ」と言ったかどうかは覚えてません。でもたぶん言ってたかとは思います。 僕に向かって「何だぁ」と言っていたと思うんです。 (5)記憶されていた文字「ある」が頭の中で別の文字「有る」に変換された: 【C】なぜ「頭の中で」と言うのか、わかりやすく詳しく教えて欲しいです。 【ここまでCについて答えてほしい内容】 (6)Hさんが「何だぁ」と言ったこと これがきっかけで「ある」が「有る」に変換されたり、数秒後にまたHさんが「何だぁ」と言ったこと これがきっかけで変換された「有る」が「ある」に戻ったと言う出来事が起きていたと思います。 ★どういうふうに辛く感じたか、どうしてだったか、さらにどう思ったか  「何だぁ」とHさんが言う。 * 数秒後に「何だぁ」とHさんが言う。 *の時に「ある」から「有る」に文字が変換が起こったが、速やかに「有る」が「ある」に戻ったことを辛く感じたのです。 自分の意志で「ある」が「有る」に変換が起きて、速やかに「有る」が「ある」に戻るのを止める気持ちがあったと思うのです。 流れとしては 1.記憶された「ある」という文字が浮かんだ 2.Hさんが「何だぁ」と声に出して言った。  それがきっかけで文字「ある」が文字「有る」というふうに変換が起きた 3.2の出来事が起きた時に、自分の意志で「有る」が「ある」に戻るのを止めていた そういう気持ちがあった 4.3の出来事が数秒か続いた後、Hさんがまた「何だぁ」と声に出して言った 5.4の出来事がきっかけで文字「有る」が文字「ある」に戻った このような流れの出来事も起きていたかと思うのです。 このような流れの出来事が何度もあったと思うのです。 (7) 回答者が書いた出来事が起きたんではありません。 「有る」が「ある」、「ある」が「有る」などの変換が何度も起きた これが数ヶ月か続いた後、変換がないことが多くなった。 解除されたというのは、意識に上らなくなったということだと思うのです。 既出の回答も読んだらそれに対する回答も下さい。

noname#151955
noname#151955
回答No.17

質問者さんの書いた文を勝手に解釈してみたら、色々間違えていたので、回答者さんは残念というかつまらない気持ちになりました。 回答者さんが自分のことを回答者さんと呼び、質問者さんが自分のことを質問者さんと書くことに、回答者さんは違和感を抱きつつ、そういう書き方もしてみると、なんだかなまぬるい感じがでてうっとうしいような気がしました。 質問者さんの文章の中に「good morning!おはよう」と言ったと書いたあったので、回答者さんは要するに質問者さんが当時、口で言ったのかなと思ったら、たんに思っただけなのですね。それは紛らわしい書き方だと回答者さんは思いました。心の中で、という文がついていなかったので、まるで口に出して言ったのかと回答者さんは誤解しました。 いろいろ間違えると、役立つことがあまりないので回答者さんは少し悲しくなります。 質問者さん本人の心や過去がどのようだったか、ということのうち、質問者さんが充分に理解していることを、回答者さんが改めて指摘しようとしても、たいてい間違えるし、当たってもせんないと思いました。 心理カウンセラーさんや精神科医さんの言うことが、たいていは正しいのだろうと思います。 回答者さんはやる気が湧かないので、あんまり無理をせず、質問者さんから訊かれたことや、書き直しを求められた部分にだけ回答しようと思います。 でもやる気が湧かないのでそろそろ退会します。 《「あ」》 質問者さんが犬とか人とかに怒っていた経験がないということに対し、回答者さんは意外に感じました。 本当なのかなと思いました。素直で誠実で正直で正確なことなのかなと疑いました。 質問者さんは犬とか人とかに怒っていた経験が一度か二度か何回かはあるのではないかと、回答者さんは思いました。 でも犬とか人とかが怒っているみたいに感じた時、その時は質問者さんが人とか犬とかに怒っていたわけではない、ということなのかなと思いました。 人とか犬とかが怒っていないのに、こちらから見て怒っているかのように見えるという勘違いは、誰にでもあることだと思います。 その誰にでもある勘違いは、誰にでも起こりうる投影という心の現象に基づいていたりするのだと思いました。 投影が起きていることに自分で気づく場合と、気づかない場合があると思います。 でもあんまりこんなことに拘泥していてもつまらないと思います。 心理カウンセラーさんが言ったように、誰でもあることなのだから、あまり気にしないということで良いと思います。 続いて、「good morning!おはよう」について。 とくに質問者さんからの質問はないようでした。 あと質問者さんが「動くんだぱも」や「動くんだなも」という言葉を使っても、「動くな」という言葉が浮かんできたのだと質問者さんは思うのですね。 質問者さんは言葉の意味合いについて考えたり疑問に思ったりすることがあるのですね。 疲れましたから、また退会しますが、もし気が向いたらまた入会します。

noname#181272
質問者

お礼

【退会した方へ】 そうですか。つまらない気持ちになったんですね。 回答者の述べた文章と質問者である僕の体験は違っていることがあるので、それはご理解してください。 例えば#2、#3、#6、#7、#8、#9、#10の回答の文章と僕の体験は違っている部分があるということです。 「good morning!おはよう」という言葉は心の中(頭の中)で浮かぶ以前に、中学校で勉強をして覚えたりしてそれが浮かんだかもしれない気がしました。 《「A」》精神科医さんの言うことと精神科の主治医の先生が言ったことは異なっていたことがありました。 例えば「視線かどうか判断できないものが落ちたりするような感覚」については、何らかのキズが中枢神経系に残っている可能性があれば器質性幻覚障害とも言える。そうでなければ、大脳の認知の問題になってくると思うことを精神科医はおっしゃってましたが、主治医は、器質性幻覚障害は証明されてないと言うことをおっしゃっていたということです。 自分がつばが飛ぶような感じで視線かどうか判断できないものが落ちたりする感覚が昔ひどかったんですが、今は薬のおかげか良くなってきてます。 このことについてどう思うか、教えていただきたいんです。 《ここまで「A」について答えてほしい内容です。》 「動くんだぱも」「動くんだなも」を使って対処しようとしても「動くな」と自然に浮かんでしまって辛かったですよ。 《「B」》 実は自分は、以下のような体験があったんですが、、、また言い換え文を作ってほしいのです。 【1】過去に見た風景や人の顔、犬の顔、文字など見たもの全てがずっと残って見えたりする。また、目を閉じているときは目の中で、目を開けているときは目の外の空間で点々と細かいものなどが見える。点々はゆっくり動いている。色カラーではない。≪何らかによってそれが全て消去された≫時は、辛く感じたことがあった。≪消去されたのは何らかの理由で起きた≫と考えられ、また≪消去されたのが解除されたような感覚≫もあった。 : これは★を●のような感じに言い換えて欲しいということです。 【C】実は、自分がどこにいても、「つなげて言う」「短く区切る」「ずっと鳴らす」「自分も動かす」「途中から読む」「朝もやる」「朝も言う」「何回も言う」「何回も変える」「考えが入ってくる」「捨てる」「まんまにする(=そのままにする)」「家にも何かやる」「体にも何かやる」「来週も操られる」「(曲の)題名を言う」と言ったような言葉が、頭の中で勝手に浮かびました。それらの言葉が浮かぶ以前は、《え:「ネガティブな内容を何らかに言われたり、そのように動かされた感覚など」》がありました。 ↓ ●実は、自分がどこにいても、「(言葉を詳しく長く)つなげて言う」「(言葉を)短く区切る」「ずっと鳴らす」「自分も動かす」「(長文を)途中から読む」「朝もやる」「朝も言う」「(同じ言葉を速く)何回も言う」「何回も変える」「考えが入ってくる」「捨てる」「まんまにする(=そのままにする)」「家にも何かやる」「体にも何かやる」「来週も操られる(来週も自分で自分を動かす)」「(曲の)題名を言う」と言ったような言葉が、頭の中(心の中)で勝手に浮かびました。それらの言葉が浮かぶ以前は、様々な禁止や命令、制限などが強かったんです。 ≪  ≫部分を特に言い換えてほしいのです。 《ここまで「B」について答えてほしい内容です。》 再度回答を入会したら、ください。

noname#181272
質問者

補足

【長い文章を書いてくださった方へ】 昨日(4月7日)、長い文章を書いて回答してくださった方からブログにコメントが入っていたことに対し、ブログにて僕が返信した内容を書いておきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > こんにちは。相談サイトで長い回答文を書いていた者です。 > 退屈なので回答しますが、入会するのが面倒なのでこちらのブログに書き込みます。思いやりが足りないのに半端なサービスをします。 : ブログに今後書き込みしてくれてもOKです。ブログにコメント(返信)ありがとうございます。嬉しいです。 okwaveに入会するの確かにめんどいと思います。 僕は3年前にokwaveに入ってました。 > 間を一、二週間あけるのは、共依存の予防や、患者さんの心というより医師やカウンセラーの心を健やかに保つためかもしれないと思います。 > 私の述べた文章と質問者さんの体験が違っているのだと理解しようと思います。 : それでOKです。違っているのは確かです。 > 「good morning!おはよう」という言葉は心の中(頭の中)で浮かぶ以前に、中学校で勉強をして覚えたりしてそれが浮かんだかもしれない気がしたのですね。 : そうなんです。 > 精神科医さんと精神科の主治医の先生がいらっしゃるのですね。その見解が不一致なこともあるとか。 > つばが飛ぶような感じで視線かどうか判断できないものが落ちたりする感覚が昔ひどかったんですが、今は薬のおかげか良くなってきてます。 > : > 良くなってきているのは良かったですねと思います。 > 目から飛ぶつばの幻覚をまた勝手に解釈すると、五感はみな欲求なので、たいてい見たいものは欲しいものなので、欲しいものにつばをつけてじぶんのものにしたいという心の働きがあるかもとか。 : 先月の上旬まではネット上で精神科医が掲示板をやってましたが、先月中旬から掲示板を休止したんです。 確かに見解が不一致な点もありましたし、一致していた点もあったように思いますが・・・。 目から飛ぶつばの幻覚について これは、自分の中から視線かどうか判断できないもの(視線やそれ以外のものだと思う)がまるでつばが飛ぶような感じで落ちたり、見る目当てのものに命中する感じなんです。 これも感覚異常だと自分は思ったんです。 > 「動くんだぱも」「動くんだなも」を使って対処しようとしても「動くな」と自然に浮かんでしまって辛かったですよ。 > : > 辛かったのですね。私は疲れていたので人の辛さに共感することができませんでした。動くなと何度も心の中で命じられるのは辛そうです。 : 「動くな」「動くな動くな動くな動くな」や「動くんだぱも」「動くんだなも」などが浮かんで辛く感じたのが2006年夏にあった出来事だったんです。 2006年夏より前に、「動くな」と自分や他人が声に出して言ったものが記憶された や、自分が心の中(頭の中)で言ったものが記憶されたものなどが2006年夏に浮かんだ(意識に上った)と思うんです。 > 【1】過去に見た風景や人の顔、犬の顔、文字など見たもの全てがずっと残って見えたりする。 > また、目を閉じているときは目の中で、目を開けているときは目の外の空間で点々と細かいものなどが見える。点々はゆっくり動いていて、色はついていない。 > その点々が全く見えなくなる時もあった。その時は、どうして消えたのだろうかと疑問に感じた。そして、きっと誰かが自分の点々を消したのだろう、隠したのだと思うと、辛かった。まるで目から点々を奪われたようで腹立たしかった。なぜ勝手に消すのだろうと疑問に思い、辛さを感じた。 > それからまた点々は再び見えるようにもなった。 : 言い換え文を教えて下さりありがとうございます。 質問が再度あるんですが、 《「あ」》 ★過去に見た風景や人の顔、犬の顔、文字など見たもの全てがずっと残って見えたりする。 : これはフラッシュバックと言えるか。自分の中でおそらく頭に上った・浮かんだ疑問だと思うんです。 《ここまで「あ」の質問内容》 点々に関しては目を閉じていると、目の中がもともと黒いが、その中に白い細かな点々が見える。 目を開けていると、空間に黒い細かな点々が見える。そういうふうに見えるんです。 《「い」》 点々が全く見えなくなることについてですけど、なぜ「まるで点々が目から奪われたようで腹立たしかった」というふうに解釈したか。 《ここまで「い」の質問内容》 再度【1】の言い換え文を書き改めてほしいのです。 最後に、あなたはメールアドレス持ってますか? 僕はメールを長い文章を書いて回答してくれた人とメールしたいんです。 もし持ってたら非コメにして、アドレスを書いて教えて下さい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 長い文を書いて回答してくださった方に質問します。 ブログに上記の返信があったことには気付きましたか? 気付いたなら、どういうふうに気付いたか詳しく教えてほしいです。 4月7日の夜の段階でブログを見て、気付いたかとか。。。

noname#151955
noname#151955
回答No.16

カウンセリングや心療内科への通院て、たいてい一、二週間から一ヶ月に一回くらいの頻度でしたけど、そのくらいが適度なのか、あまり毎日頻繁に長い時間、ネットでも人と心の問題についてあれこれやりとりして向き合うと、心がくたびれすぎて良くないのかも知れませんね。 なるべく短く書きます。自分が文を長く書くのは自分の無知さを隠したいためだと思います。ものをよく分かっていれば短文で済むものなのですが。 《「あ」》 【C】の言葉群とともに「飛ばして読む」や「(過去に聞いた音楽が頭の中で流れるのを)止める」「人の名前を言う」などの言葉も勝手に浮かぶ。 というのは、浮かぶ時もあれば浮かばない時もあるという感じか、疑問に思いました。 : そういう感じかどうか、どういう感じなのかは、質問者さんの感じなので、私には正確には分かりませんが 勝手に浮かぶ時もあれば勝手に浮かばないときもあるんじゃないですかと思います。いつも浮かんでいるわけではないと思いますし 感情とか気分とかみたいなもので、疲れたり疲れなかったりするみたいに、浮かんだり浮かばなかったりすると思います。 質問者さんにとって(文章を)飛ばして読む必要があるときは、「飛ばして読む(方がいい)」という言葉や気持ちや判断が心に浮かんで来るでしょうし、 ぎゃくに文章が軽くて短い場合などは、飛ばして読む必要がなければ「飛ばして読む」という気持ちはあまり浮かばないものだと思います。 普通に場合によるんじゃないですか。 疲れてもう文章なんか読みたくない面倒くさいと思ってる時なんかは、どんな文章でも「飛ばして読む」という気持ちが浮かんできやすいと思います。私の場合はですが。   《「い」》 翻訳の仕事してません。今ここだけでやってる勘違いボランティアです。 心理学得意じゃないです。ただ引きこもりが長びいたせいで図書館で借りる本が心理学系の本に偏りました。 でも統合失調症について無知です。ウィキペディアの統合失調症の説明を見たらむずかしそうですねと思いました。 あんまりカウンセリングは効果なかったとか医師が役立たないとかネガティブなことを書くのは良くないみたいですね。 質問者さんが統合失調症なら、統合失調症について無知な私は質問者さんの言葉を言い換えることが下手だと思います。 心理学には投影なんて言葉があり 中学生の頃の質問者さんが人や犬に怒られているように感じたのは 質問者さんが犬とか人とかに怒っていたせいじゃないですかと思います。犬とかうるさいですし。 犬や人に怒ってて、犬や人から怒られているような気もした、ということと、呼び捨てや丁寧語との関係がよく分かりませんでした。 質問者さんが「good morning!おはよう」と同級生に言ったけど、同級生が質問者さんに「good morning!おはよう」などを言い返さず、ただ笑ったので、質問者さんの挨拶が機能せず、ただ笑われて、まるでばかにされたような気がして腹が立ったのですか。 《「う」》の言い換え。 言い換えというか、下手な解釈や別表現を混ぜて文章量を含ませるだけになりがちですが。 : 「2006年、心の中で『動くな』などの言葉が浮かんだ。それがきっかけとなり、またその他じぶんの中で起きる何らかの理由もあって、体が静止状態になったことがあった。つまり統合失調症の場合によくある『他者に止められた』という感じである。 それに対して自分は対処した。『動くな』という言い方では辛さを感じるので、自分は『動くんだなも』『動くんだぱも』などの別の言葉を使って対処していた。そうすると他者に止められた感じが和らいだ。」

noname#181272
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 回答者さんは『中学生の頃の質問者さんが人や犬に怒られているように感じたのは質問者さんが犬とか人とかに怒っていたせいじゃないですかと思います。犬とかうるさいですし。』と言ってますけど、質問者さんが犬や人などに怒っていた経験はないように思います。 実は心理カウンセラーから、他人や犬が怒ってなくても怒っているように感じ取ってしまうのは誰にでもあることだと聞いたのです。 誰でも頻度の差はあると思うが、体験していることだと言うことです。 《「あ」》このことを回答者さんはどう思うか知りたいです。 《ここまで「あ」の質問内容》 続いて、『質問者さんが「good morning!おはよう」と同級生に言ったけど、同級生が質問者さんに「good morning!おはよう」などを言い返さず、ただ笑ったので、質問者さんの挨拶が機能せず、ただ笑われて、まるでばかにされたような気がして腹が立ったのですか。』ということを回答者さんが述べたことについて、それは違います。 「good morning!おはよう」と同級生に言ったのではありません。 流れで言うと(1)「good morning!おはよう」と言う言葉が頭の中[心の中]で浮かんだ。(2)心の中で浮かんだ「good morning!おはよう」が意味のある言葉だと感じた。それが何らかの理由で実際に同級生が笑った声がまるで笑ってないふうに聞こえたと思うんですが、どういう感じで聞こえたかは覚えてないのです。 例えば「漢字 中国の文字」の意味のある言葉が中学生の時、心に浮かんだときに、家の犬がそのタイミングで吠えたような感覚もあったんです。 >「2006年、心の中で『動くな』などの言葉が浮かんだ。それがきっかけとなり、またその他じぶんの中で起きる何らかの理由もあって、体が静止状態になったことがあった。つまり統合失調症の場合によくある『他者に止められた』という感じである。 それに対して自分は対処した。『動くな』という言い方では辛さを感じるので、自分は『動くんだなも』『動くんだぱも』などの別の言葉を使って対処していた。そうすると他者に止められた感じが和らいだ。」 : これに関して、『動くな』という言葉を使うと何らかのきっかけ(=幻聴・耳鳴りなど)で何らかの理由もあって体が静止状態になってしまうので『動くんだぱも』『動くんだなも』などの別の言葉を使って対処していた。そうすると止められた感じが和らいだんではありません。 別の言葉を使っても『動くな』という言葉が浮かんできたと思うんです。 「good morning!おはよう」=「good morning!」の日本語訳が「おはよう」 「漢字 中国の文字」=「漢字の起源は中国である」ということだと思ったんです。wikipediaで調べると、漢字は古代中国に発祥を持つ文字であることが書かれていたんです。 「in front of ~の前に」=「in front of」の日本語訳が「~の前に」などの言葉って意味合いがあると言うのか疑問に思いました。

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