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グローバル資本主義は国内グローバルの軽視
グローバル資本主義は、本当に経済効率をよくするのでしょうか。 海外の価値観を取り込むことは、いいことだとは思いますが、 ローカルが縦割りになることは、まず、物流の面からいっても 効率がいいとは思えません。また、労働集約型のアウトソーシングも、 コスト面でしかたないところはあるかもしれませんが、 積極的に押し進める利点はないように思います。 国内でも図面屋のような業種はありますが、それはやはり現場の実感が あればこそで、それが薄れるほどに、「モノ」が絵空事化していく危険 をはらんでいます。 また、イノベーションの面からも新しい価値観は横のつながり、 なくしては、ただロマン派的方向にそれたり、突飛な絵空事しか 生まれてこないのではと思えてしまいます。 自由なご意見をお聞かせください、お願いいたします。
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- compequal
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このご質問は、経済学カテゴリーでなされたほうが、よりよい回答が得られるかと思います。 私の経済学に対するさもしい知識を動員してお答えすると、 1. まず、大前提として比較優位の話からすれば、国際取引市場の活性化によって効率化される部分は、沢山あるように思います。(※知らなかったら「比較優位」でググってください) 2. ですが、おっしゃられるように、輸入コスト・輸出コストの高いもの。要するに運ぶための手間のほうが作る手間よりもかかるようなものは、効率化されませんね。たとえば、安くて良い美容室のサービスを受けようと思って、わざわざ中国人を招いたり、中国に行ったりするのは効率が悪いですね。(ずっと日本に居住するつもりの中国国籍の人に床屋になってもらうことは、悪くないとおもいますが) 一方で、それは、輸入・輸出コストが低くなれば、グローバル資本主義の価値が上昇する、ということも意味しています。IT産業などは、メール一本で、インドとアメリカで協業ができたりしますので、そういう産業では、すでにグローバル化が著しいですが、輸入・輸出コストが低い領域の経済価値が増えれば増えるほど、グローバル市場の価値は上昇すると考えていいと思います。 3. ただし、貿易のコストがどんなに下がっても、何も考えない「無規制のグローバル資本主義」みたいなものは、だいぶ危険だとは思います。 雇用の規制や、国際金融市場の規制などいくつかの必要な国際規制を構築しなければ、ただのグローバル資本主義、なるものがうまくいくとは思えません。 だけれども、今現在、どういった規制が国際市場にとって必要な規制なのか、ということは誰もわからないので、みんなで暗中模索をしている、というのが現状だろうと思います。 ★補: 「現場の実感があればこそ」というのは、良いご指摘だと思います。 現在、国際分業の仕方がいろいろと議論になっていますが、「現場の実感がないと作業ができない」部分については、闇雲にアウトソーシングはしないほうがいい、というのがどの業界でも前提となっているかと思います。 主な方法は、現場の空気感がなくても出来る作業「だけ」を海外に発注する、ということだと思います。 他には、現場の空気感を可能な限り伝えるためのツールをがんばって開発する(テレビ会議とか)という方法とか、海外の子会社に日本の文脈を伝えられてかつ現地のスタッフのとりまとめができる監督能力のある社員を派遣する、といった形で、頑張っているというのが現状だと思います。 いずれにせよ、「うまい国際分業のやり方」は、各企業にとっての大きな課題ですね。何も考えずに国際分業ができる、と思っているほどお気楽な会社は、さすがに今やないでしょうから、どうやれば国際分業がうまくできるか、が今後の企業競争力にとって重要になる、とみんな思っていますね。たとえば、ユニクロが、いかに頭を使って海外との連携をしているか、などという話を聞くと、本当にその試行錯誤には頭が下がります。 国際分業をいかに気合を入れてうまく自社の強みに変えていくか、を考える能力のない企業にとっては国際化は確かにマイナスにしかならないかもしれないですね。
お金は経済活動を円滑に行うためのものでしたが現在ではお金が社会を動かす原動力のようになっています。つまりエンジンを動かすためのがガソリンを増やすためにエンジンを動かそうとしているようなものです。最後はエンジンが壊れてガソリンだけになってしまうだろうということです。ガラガラのジャンボが空を飛んでいます。あれはお金を増やすために飛んでいるのです。人や物を運ぶためではないはずです。ガソリンはエンジンがなければ何もしてくれないことにどこで気がつくかではないでしょうか。経済効率というのはお金を速く増やすことではないはずですが…
効率というのが金融機関の業務の迅速化とすれば、人の生活がよくなるということとはむしろ相反してしているのではないかということです。カネがカネを生むのが迅速化とすれば、どこかおかしいのではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 確かにそうですね。 しかし、どうしてそのようにおかしくなってしまうのでしょうか。
ごく小さい話でいえば、自分が気に入ったコップを買おうとした場合、こっちのほうが安いからこれを買えといわれるようなことではないかと思います。また自分が呑もうとしているものが冷たいビールなのか熱い紅茶なのかも無視されているかもしれません。
お礼
ありがとうございます。 市場を開放することで、かえって市場が閉鎖的になるということですか。 どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。 もし、宜しければ、ご教示いただければありがたいです。
NO.2 です。 >芸人さんがマラソンでオリンピック出場の為に、国籍を変えました が、あれはそういう感覚なのでしょうか。 確かに、もっとボーダレスになるということは、世界単位で考えて 世界で公正に競争する上で適していますね。 私自身はあのニュースは好感が持てませんでした。 私の言う「競争は人類の進歩の最大のエンジン」だというのは、事実としてそれを認めねばならない、これをなくすことは人類は当面できない、ということなので、必ずしも競争が善だと言っているのではありません。世界の自由競争を更に広範に認めるためには、もっと人間の倫理性を高めねばならないと思います。 商業そのものが人間間の信頼なくして成り立たないように、グローバリズムは人間社会の倫理性をもっと向上させるか、そうでなければ、そのかわりとしての厳密な国際法の整備が必須だと思います。それがなければ、リーマンショックのように、かならず世界は過度な自由競争の果てに破綻するでしょう。 >そういう個人の自由はさておいても。 それは人類が選択したい本当の目的なのでしょうか。 個人の自由、あるいは法人の自由が他の自由を妨げない限りそれを制限する理由はないというのが現在の考えだと思います。しかしこういったシンプルな考え方も最近では様々な矛盾に遭遇していますし、国際的にも更に個人の自由の範囲は狭められ、かって考えられたほど広範なものではなくなっているのが現実だろうと思います。 まして、そういった自由そのものが人類の目的だとはいえないと思います。人間が社会的な生物となった時点で真の自由はなくなったと考えるべきでしょう。
お礼
ありがとうございます。回答がおそくなってすいません。 人間は自由に競争することに大きな喜びが本当にあるというのなら それを制約することには慎重にならなければならないはずではない でしょうか。 それは、本当でしょうか。 寧ろ、自然への征服欲がそこには隠れている気がします、そして、 自然は人間や社会も含んでいるから、より秀でたいんじゃないかと。 しかし、人間は同じ人間の尊厳性を認めたいというのも自然なこと だから、その自然なことを社会構造が抑圧しているということかと。 そういうことなんでしょうか、それで、それを倫理観や国際法で是正 していきたいということなんでしょうか。 もしそうであれば、その抑圧の原因の本質とは何なのでしょうか。 それがとても気になってきました。
補足
補足です。 自由な競争をしたいという欲望と征服欲は 関係があるのかないのか、わからなくなってきました。 それというのも、 征服欲は、探求心や冒険心によって 本質を知って、それを認識の下におきたいというような感覚。 競争心は、優位、劣位を決めることにより、支配、被支配の 社会構造的役割が決定づけらられる抑圧からくる動機。 何か似てますね。 自然科学的探求以外の対人間において前者は性交以外は、無効。 後者は、役割分担は能力に応じて決めることがあっても、 支配、被支配というより、管理、管理される側は必ずしも 能力の優劣のような単純な理由で役割分担できるものではない。 強いて言えばゲームのルールを楽しくさせるエッセンス やっぱり、構造的な欠陥ということになっちゃいますけど。
- tattaro
- ベストアンサー率19% (30/153)
目線の高さが違うだけ。 月から地球眺めて戦略考えるのと、あなたの目線と見えかたが違うだけ。
お礼
ありがとうございます。 そうですね、そういわれるとそうかもしれません。
補足
目線の高さの違いということなのですが、 ローカルにおいてもグローバルにおいても 競争心は生産には基本的には必要ないのではと思っています。 視野を広くして興味の幅を持つことで、横の広がりが大きい程 土地を肥やすことができて、果実を生産してより広範囲に与える ことができるのですが、 現状は、土地を肥やすことができずに、生産があがらない状況に 陥って悪循環に陥っているため、よりローカルな範囲においても 競争を軸足にならずをえないのだと思います。 だけど、本来は競争は生産を邪魔するものではないかと、根拠は ないんだけど、なんとなく考えています。 アップルのイノベーティブを気にする声がありますが、 基本的には文明は、みせかけは「はぶく」ことだと思います。 インターフェイスをよりソフトに人間に近づけて、 情報(考えを伝える)にかかる資源や空間や時間を省いている だけのように思えるのです。よりソフトには人間のエネルギー を省いているにすぎません。 ですが、最近の日本は、あまりそういうことには関心がなくなって いるのがなぜなのかがよくわからないのです。 もっとより抽象的なことに興味があるのではと思えるのです。 その原因が何なのかを知りたかったのが正直なところです。
お金はその人や地方のの環境条件などを含めた個性を無視いたします。南極大陸まで舗装道路を完備させようとします。その結果地球の表面が札束で覆われてその重みで地球が崩壊あるいは窒息してしまうだろうということでした。
お礼
ありがとうございます。回答がおそくなりすいません。 私自身の観があまりにもにぶいので、 比喩がなんとなく伝わってくるような、 まだよくわかってないような感じです。 もしかしたら、自然価値よりもしだいに、 その交換の価値基準の為につくられた価値が大きくなってくるという ことでしょうか。 それって、世界バブルってことですか。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
マネジメント能力で一番適した人がマネジメントを担当し、 モノづくりで一番適した人がモノづくりを担当し、 営業で一番適した人が営業を担当する と言うのが、グロール資本主義の究極の姿です。 日本人が、いづれかの職種で世界一の能力・生産性を達成出るのか否かの問題は、国内問題として残りますけどね。
お礼
ありがとうございます。お礼が遅くなってすいません。 そうですね、そういわれると理にかなっている気がします。 ただ、その土地で暮らす人は、今まではその土地で暮らす為の 知恵や技術をどうやって身につけてきたのかと考えるとすると。 というのは今までの歴史がどうだったかということよりも、 今までの歴史のなかで人々は未来をどうやって切り開いてきたのか という事の方がやはり、生産活動を考える上では重要じゃないかと。 遠く離れた土地の方が「あること」の生産に適していた場合に、 今までその土地の「あること」の生産技術という文化遺産をすぐに 手放すことをしてきたのか、それともさらに発展させようとそれより もすぐれた生産技術に学んでそれをさらに磨いてきたか、どちらを 選んできただろうと考えると。 それは、交換ということと、未来の自然利益(人的資産を含む)の確保 を天秤にかけていたのではないかと思うのです。 ですから、短期的に不得手だからといって、すぐになにもかも手放して いたのでは、残るモノは未来をいっさい勘定にいれない現時点という一瞬に おいての自然利益(人的資産をふくむ)しか残らないことになってしまう。 ということは赤ちゃんや子供、まだ生産知識を蓄える経験をもたない若者の 未来の可能性は勘定に入っていないから、普通に考えると先細ることはあって も、新しい価値観の生産などが生まれる道理などはありえないということに なりませんか。
補足
競争心が社会構造の役割争いになっている現実問題があると 他の回答に書き込んでから、ここの回答とのパラドックスに 気づきました。 つまり未来の自然利益の確保というのは、事実、死活問題と しての競争にのっかっているということです。 ローカルな土地の自然利益から生産する権利を確保したいと 考えるのは、動物の生存本能と奴隷になりたくないという尊厳 を守りたいという欲求です。 やっぱり、グローバルとローカルは、倫理で折り合わなければならない となりそうです。当然、そういう意味で、競争欲求とも折り合わなければ ならないとなるのかもしれません。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
ひとくくりにして、グローバリズムが良いとか悪いとか 言うことはできません。 ただ、燃料も材料も海外から来ている以上、鎖国は 不可能で、国際協調が必須である事は否定できません。 かといって、単純に短期的な経済性や目先の効率性に よって、環境に負荷をかけたり、文化を破壊したりする 事も正しくありません。 生物の進化において、多様化によって異なる環境や 変動への適応を可能にしており、グローバル化とは 世界の均質化ではなく、分業のための多様化であり、 文化的・技術的多様性はメリットのある事なのです。 手放しにグローバル化するのではなく、品目など条件 によっては地産地消を確保すべきです。
お礼
ありがとうございます。 異論はありません。 ただ、一番疑問に思うのが、イノベーティブな考えというのは、 自然科学分野の価値観をベースにしながらも、社会学的に考える ことをする必要があると思うのです。 「自然と人間社会」をワンセットの世界観で。 地球規模の分業化は、自然と社会にかいりしすぎて、生産開発効率 を損ねないのでしょうか。 どうなんでしょうか。
補足
すいません補足させてください。 別スレで、生物の進化は多様化(熱量の増大)であると述べられていました。 人間の恣意的なものを極力含まない自然科学目線でそうだから、 人間社会も自然の一部にすぎないのだから、グローバル化がもし多様化を 目指すのなら望ましいことではないか。 というような理解をしましたが。 そうなると社会構造が恣意的なものを含むのは望ましくないということ になりますが、そうであれば賛成できる面と反対したい面があります。 科学には明るくないのですが、人間の普遍的倫理観はその立場よりも、 尊厳性というエゴは無視できないから、それよりも少し恣意的なものを 含まざるをえない気がするのです。 そうしないと、それはかえってエコロジーの為の奴隷というファシズム的 な欺瞞を許してしまうのではないでしょうか。 また、尊厳というエゴは人間という動物の特殊ではあるけれど、まったく 自然な人間の生物的な性質だと思うからです。 ですから、グローバル化が多様化を目指すことが、尊厳というエゴを 含む自然に逆らわない行為であれば、と個人的には思ったのですが。
>グローバル資本主義は、本当に経済効率をよくするのでしょうか。 単純化すればそういうことはいえると思います。あらゆる製品、職種でひとつづつの巨大メーカーが適正利潤で生産販売するのが効率の面では最適だと思いますが、現状での世界はそれがすぐ実現するほど単純ではありません。ほとんどの市場はそれを望んではいません。人間は多様な価値観を持っているからですが、それ以外にもいくつもの理由はあると思います。競争の原理が進歩を生む(進歩の最大のエンジンが競争)ということもあります。 いずれ世界のメーカーはほとんど絶滅して一握りのエリートだけで動き、サーヴィス業の現業だけが世界中に残って、働かなくなった(職場を失った)他の大多数を食わしていく時代が来ることになるとは思いますが、それには様々な条件、特に人類全体の倫理観の進歩が必須だと思います。
お礼
ありがとうございます。 進歩の最大のエンジンが競争、とはっきり言う人もめずらしい 感じがします。しかし、自分にはない価値観なので新鮮ですが。 芸人さんがマラソンでオリンピック出場の為に、国籍を変えました が、あれはそういう感覚なのでしょうか。 確かに、もっとボーダレスになるということは、世界単位で考えて 世界で公正に競争する上で適していますね。 とにかく世界で何番かを公正できめるのが最大の目的であれば、芸人 さんは責められる道理などありはしないでしょう。 そういう個人の自由はさておいても。 それは人類が選択したい本当の目的なのでしょうか。 宇宙規模でみれば、人間がこの一瞬にどんな選択をしようが、大した ことではありませんが。 そんなことを知っているから、もっと賢い選択をしてもいいので はないかと思うのですが。 まだ、よくわかってないかもしれませんが、何か私の認識不足が ありましたら、再度ご意見を承りたく思います。
補足
すいません。まだ、競争心と征服欲がもやもや状態です。 征服欲が認識欲求にかかわっているとしたら、人間同士のコミュニケーション にも関わってくる問題に思えてきました。 また、競争心が社会構造の役割争いになっているというのは。現代においては 現実的問題です。そして、もし競争に勝つ喜びがもともとは、戯れのゲーム 感覚の楽しさか、ヒグマに襲われた時にしとめたときの開放感であるとしたら あまり健全な状態ではないということになってしまいます。 そして人間のコミュニケーションがもし征服欲のようなドーパミン全開の 口げんかゲームに勝つ喜びばかりを求めるもので、その快感の為の知識欲 が中心だったら、これもあまり生産に適していないことになります。 人間以外の動物は基本的に生産はしないわけなので、動物的社会構造は 生産に適しているのか、どうかという問題になります。 そして、もしそれを社会構造が抑圧することが人間の尊厳にかかわることで あれば問題なのですが、なんとなくそうでもなさそうな気がするのですが。 (趣味的快楽とか芸術創造に開放を求めてもいいことのような) これはどういうことなのでしょうか。 もし、競争心や征服欲について、私の認識不足があれば、ご教示お願いします。
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お礼
ありがとうございます。 本当にそうですね。 ただ、最近本当に感じるのは、消費者の意見というのはどれくらい 言ってもいいのかということです。 明らかにこれはちょっとと感じていても、何か批判的なことを言うこと で、そのために不利益を被る人がいるのではと考えると、やっぱり 控えなければと思ってしまいます。 しかし、そうかといって声を上げないと、市場の原理があるから その生産者の労働価値もあがらないわけでとなって。 空のジャンボが飛ぶことで、誰かに配分がまわっていると考えると よくわからなくなります。