- ベストアンサー
友情と恋愛に於ける三者の幸せ
- 友情と恋愛において、三者の幸せを考えてみました。
- 彼女の友人がデート中に割り込んできて、幸せになれるのか心配です。
- 友情と恋愛の関係において、信頼や裏切り、成功や絶望などが重要な要素として関わってきます。三者の幸せを探るために、自由な意見を募集します。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんばんは。 もっと心を寛くいたしましょう。三人でカラオケ、お食事、ボーリングなどすればなお楽しいでしょう。貴方が、彼女を射止めた暁には、彼女の友達も貴方の友達になるのですから。あ~僕も混ぜてだった。そして、お話を聞くだけでよかったのです。まずは、みんなお友達からでしょう。両手に花?(笑)
その他の回答 (5)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.5ですが こういうことです。 すなわち ★ ~~~~ 仮にロジック的な完成をみたとしても,それが幸せに 繋がるのだろうか.という疑問などを含んでいます. ~~~~~~ ☆ よって その心は: ★ ~~~ 愛と信仰は不可分であるかもしれない.という ある意味,なげやりな,あるいは天に任せるような. ~~~~~~ ☆ ということでしたら これを経験科学の言葉に翻訳すれば《成り行きにまかせる》という決断と選択をおこなったということだと思います。 つまりは こうです。 ☆☆ もっとはっきり言えば あなたがどうしたいのか? ☆ このひとつの目指す地点を持った・持っている。けれども そのためにいま動くことはしない。何ものかのこころにゆだねる。という選択と決断を成した。のだと。 わたしもすべてをゆだねて 祝福へとみちびかれますようにとさえ言わないことにします。言いかえると むすばれることが 祝福されることかどうかすら 自分で決めず ゆだねていると受け取りました。
お礼
ありがとうございます. 仰る通りです. あるかないか わからない存在への捧げ.ないし 委ね. つまりは,わからないということが,わかる. そして非思考の庭に既に成った. 世の流れに任せる(非本来的自己)―― 世界への頽落 信仰による愛の理解(わからないということの受け入れ) 何もしない(本来的自己) ―― 選択についての決意性 という流れがあったことを示しています. 明日からまた守銭奴として働く使命を負っていますので, このへんで,土日信仰を終了させていただきます. ありがとうございました.
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 これは 一般論つまり哲学の主題として考える内容を持っていますが――そしてすでにその種の回答も寄せられているようですが―― 基本的には 個人の考えと けっきょく その決断による問題だと見ます。 決断というのは 単純です。何を・誰れをえらぶかという選択の問題です。 この選択には――むろんよいわるいの評価とそのための思索が必要であり 哲学の出番であるかとも考えますが―― けっきょくにおいては それらの理論的なまた倫理的な人間的な評価を超えて 《わたし》が何を求め何をどうしようとするのか ここにおいて決まると考えます。 もっとはっきり言えば あなたがどうしたいのか? 彼女は どうしたいのか? まづこのふたりの問題でありましょう。 そこに合意が成らないのなら ことの成り行きを取りあえずは見守ることになりましょう。 ★ この三者の幸せとは如何にして可能となるのか ☆ は すでに行動をおこしてから――あるいは 起こしつつつねに―― 考慮していく問題だと考えます。 ★ 友情と恋愛 ―― その三者 ☆ と捉えておいでですが そこにはふたつの段階があるでしょう。 (あ) 彼女とのあいだに ふたりの男が まづ友情を結んでいるという段階 (い) あなたとの間の友情が 愛情に成っているのかどうかの段階 すでに(い)のステージに来ているのなら 選択と決断・行動の段階になっていて それと並行して 三者の折り合いについても考えて行く。こういう段取りになると考えます。
お礼
ありがとうございます. ロジック的な考察を賜りました. 土曜日~日曜日なので,この質問は, ~~ 5つのパンと2匹の魚 ~~ 聖書より ~~ に,ちなんでおります. 哲学と信仰は,不可分ではないだろうか. 人の心と信仰は不可分ではないだろうか. もしそうならば, 愛と信仰は不可分であるかもしれない.という ある意味,なげやりな,あるいは天に任せるような. 仮にロジック的な完成をみたとしても,それが幸せに 繋がるのだろうか.という疑問などを含んでいます. 仮に,三者ではなく,一人の女性と,五千人の男性ならば すべての人が幸せになれるロジックを,人は持ちえない のではないか. しかしそこに信仰があり,神の祝福を受けたならば, すべての人が幸せになることも可能ではないだろうか とも考えております. ≪わたし≫ の 非思考の庭に,神の国は成ったのです. (土,日,信仰をもつサラリーマンとして)
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
”こんなボクは幸せになれるんでしょうか” ↑ なれます、というか、そういう性格でないと 幸せになるのは難しいと思います。 自分のことだけを考え、自分の利益だけを追求 している人は幸せになりません。 虚しいですよ。 人を幸せにすると、心が満たされます。 愛とは存在の絶対的肯定であります。 愛する人を我が手にするのは、愛とは 関係ありません。 我欲に過ぎません。
お礼
ありがとうございます. 信仰にもとづき,人を愛せよと賜りました. ~~しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう 言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善 を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。 あなたを侮辱する者のために祈りなさい。~~ (ルカの福音書6章27~28節) あるいはまた ~~しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出 しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。~~ (ルカの福音書11章14~26節) つまりは,人間同士の淘汰は終わった.神の国は非思考の庭に すでに成っている ―― もの ―― こと ―― それ が表しているとも考えられるのでもあります. それは愛による,相補的不確定性に於ける定性化であり, 再分化ともいえる自律的行動であると思います.
- k_mutou
- ベストアンサー率12% (101/783)
“恋愛”をする上で【遠慮】をしている方はまず無理です。 『狙った相手』がいたら、その友人が来ようが家族が来ようが、『狙った相手』以外に眼中にないのが“恋愛”だと思います。 『狙った相手』をモノにするのに「友達が来たから遠慮してあげよう」とか「友情を壊してはいけない」などと考えてたら、その間に別の男性が『狙った相手』をサッとかっさらって行きます。
お礼
ありがとうございます. 進化論的淘汰の原理をお考えと賜りました. ある意味での,優性であるための暴走.それが恋愛のもつ 一側面でもあるのだ ―― そういう考え方もありましょうか. 暴走 ―― それは ~~父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。~~ ルカの福音書23章34節 ないしは ~~ヱヴァンゲリヲン的なエネルギー補給システム.~~
- Tefu_Tefu
- ベストアンサー率27% (87/322)
#1ですが。 付け足し、彼女が貴方と親しくなれば、後は宗教と一緒で彼女を褒めてやったりetc・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・欲求・・・・・・価値観が合えば仲良しカップルとなります。
お礼
ありがとうございます. ちなみに,彼女はボクと同じく,山岳信仰の家に育った と,以前に本人から訊きました. 信仰における価値観が,似ているという信頼があります.
お礼
ありがとうございます. 三人で友達に ⇒ 相補的な関係の構築 さらに ◇将を射んと欲すればまづ馬を射よ ◇彼(彼女)を知り己を知れば百戦危うからず の示すが如く. というわけですね. やがてボクと彼女がカップリングした暁には, (ボク+彼女) ⇔ (彼女の女子会) というハイブリッドな親密性に至るという, 合目的的な,あまりに合目的的な意思の統合を 果たすという,人間的な,あまりに人間的な お考えを賜りました.
補足
Tefu Tefu さんの考え方が,いちばん神の国に近いと 感じました.