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漢詩の英訳、意訳と弁護しうる余地はありますか?
日本の方の英訳で、二人のネイティブが英語を監修しているそうです。 春眠暁を覚えず 処処に啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つること知んぬ多少ぞ I wonder how great a number of the cherry-blossoms have been scattered away. 「花」をcherry-blossomsと訳すのは和習英訳(誤訳)だろうと思いますが、意訳として弁護しうる余地はありますか?
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- bakansky
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日本人が漢詩を読む時には、日本人の感性で読んでいます。というか、個人によってもその受容感覚は異なっている、というべきかもしれません。 さらにいえば、たとえ芭蕉の句であっても、現代の日本人が読んで想像するのと、芭蕉が意図したものと一致しているとは限りません。時代が違いますし、生活も違うし、食べ物も違うし、風景も異なり、空気や水の味も異なるでしょう。 自国の作家のものでも、現代に、自分に引きつけて解釈して読んでいるわけです。まして、古い中国の詩を読むのに、しかも日本語に直して読んでいるわけで (中国語の音だけでも詩としての雰囲気は日本語にしたそれとは違うでしょう)、そもそも詩を翻訳するということが不自然な行為です。 そうはいっても、内容の高雅さとか高潔さとか、自然の風物が与える感興とか、現代人が自分の環境に引きつけて理解する手段としてなら、翻訳があっても何ら悪いことではないと思います。 その blossoms は、たしかに 「花」 に近いといえます。なぜ flowers でないかはさて置くとして、まず日本語に訳されたものを英語に移したもののようにも見えます。 すると、日本人として読んだ人には、その詩のイメージの中で、桜の花が散っている風景が見えたわけでしょう。何の花か分からないが美しいい風景だ、というのでは言葉の上だけで鑑賞しているようなものです。 とりあえずその人のイメージがある。それを英訳したら、とうぜん 「桜」 の花とせざるを得ません。 言葉を、機械的に翻訳するのなら、cherry-blossoms と訳されることはあり得ないと思います。 blossoms と訳したのでは、読む人に具体的な花のイメージを与えられないと考えたのか、それでは詩的な感興を呼び起こすに十分でないと考えたのか、それはその人に尋ねるしかないでしょう。 「意訳」 ではなく、訳者の 「解釈」 が付け加えられた訳だと思います。 その訳がいいとか悪いとかは、読む人の判断に委ねられるべきことがらでしょう。 アンデルセンの 『即興詩人』 のように、言語も文化も異なる日本で、森鴎外の訳したものが高く評価された例もあります (本国では見向きもされない作品です)。その場合、日本人がそれで満足なら、それで文句をいう筋合いはないということになります。 漱石の小説だって、英訳されたものが読むに値するものかどうか、それは原作とは関係のないことです。とにかく翻訳はありがたいもので、全く読めない言語で書かれたものを読むことができます。今日の日本人にとっても分からないことが山盛りの漱石の小説ですが、それをそのまま訳したところで、非日本人ならなおさらチンプンカンプンでしょう。英訳ではかなり思い切った改作といってもいいような変更を加えて訳されていたりするみたいです。それでも内容を知ることはできます。 「花」 を cherry-blossoms と訳すのは、日本人の感覚というフィルターがかかっています。 日本人は日本語として読めばいいわけで、英訳なら英語を母国語とする人が中国語おから翻訳すればいいことだ、とは思います。 しかし現に訳したものがあるのなら、英語を母国語とする人が読んで、気に入ればよし、気に入らぬもよし、としか我々としてはいえません。 翻訳というのは面白い面もあって、誤訳が後世に残って、その誤訳が正当な解釈になった例もいくつかあります。「アリとキリギリス」 の話は、実は 「アリとセミ」 だったのだ、とか。 あるいは、昔の日本の文語体の聖書の文章が賞賛されたりもしましたが、あれは中国語訳を漢文式に読み下して日本語らしく直したものでした。それでも名文扱いされるのですから。 結論としては、そう訳してしまったのなら、それはそれでひとり歩きするだけのことで、どうこう言っても始まらないのではないかなぁ、ということです。 それにしても、日本語に読み下してしまうと原詩の脚韻が消えてますねぇ。中国人から苦情が来ないか心配です。
お礼
>「花」 を cherry-blossoms と訳すのは、日本人の感覚というフィルターがかかっています。日本人は日本語として読めばいいわけで、 これも先ほどと同じ、読者と翻訳者との立場の弁別が出来ていませんね。 また、日本の読者も学生・主婦・教師など立場により読み方が異なります。 >現に訳したものがあるのなら、英語を母国語とする人が読んで、気に入ればよし、気に入らぬもよし、としか我々としてはいえません。 >結論としては、そう訳してしまったのなら、それはそれでひとり歩きするだけのことで、どうこう言っても始まらないのではないかなぁ、ということです。 要するに結論は、質問への回答ではなく、お小言のようなものですね? >日本語に読み下してしまうと原詩の脚韻が消えてますねぇ。中国人から苦情が来ないか心配です。 正月でアルコールでも入ってるのでしょうか?これだけの文章なのに矛盾してますよ。↓ >母国語とする人が読んで、気に入ればよし、気に入らぬもよし、としか我々としてはいえません。 読み下しを掲げたのは日本の語のサイトだからでもあり、それに皆が慣れているためです。 日本人でも高島俊男などは非を唱えてますね。学者が原音主義というのはもっともなんですが、この講釈師は文化の伝統、継承というところにもっと目をむけるべきでしょう。 他方、西脇順三郎はこう言ってます「私は中国の詩を読むときは、昔ながらの漢文のよみ方(訓読のこと)で読むことが好きである。それはその音質の方面からも音調の方面からも一種の美を感じる。今の日本語の翻訳ではそうした美しい音質も音調も感じられない。」(西脇順三郎全集V 87頁) >あれは中国語訳を漢文式に読み下して日本語らしく直したものでした。 『日本の聖書―聖書和訳の歴史』(講談社学術文庫)はだいぶ前に読んだことありますが、文語訳聖書には何段階かの訳の手直しが確かあったような……その認識では人に教えるのに不十分だと思いますよ。 >それでも名文扱いされるのですから。 文語訳の聖書ですが、私は最初、随分のろくさした散文だと感じました。いい散文がもつ、何というか「直進力」とでもいうべき性質が乏しいように思いました。慣れるとあれはあれでいいものですけどね。
補足
回答ありがとう御座います。 ただ随分同じような主張が繰返されている文章ですね。 しかも言葉の消費量にしては肝心のことが書いてありません。 意訳ならば、英語母語話者のイメージを明瞭にするなり理解を補助するなりの意図があるわけですよね、cherry-blossomsの選択に、 英人のイメージを明瞭化する、その選択としてcherry-blossomsは適切なんですか?最良なんですか? この点から意訳とみなしうるかどうか全く論じてないじゃないですか。 誰の詩か忘れましたが、(Anthology of Modern Japanese Poetry [Tuttle]この本に採られているのは確か)鮎が出てくる詩なんですが、英訳ではtroutが使われていました。手元の英語辞典の説明ではfairly large fishとあります。向うの人は鮎よりたくましい魚をイメージするでしょう。しかし、これは鮎よりまだtroutのほうが向うの人にイメージがしやすいからで、意訳として成立していると思います。意図された訳です。 翻ってこのcherry-blossomsが意訳だとしたら、どういう意図をもって当てたと推測できるのでしょう? 「英語のQ&Aサイトへ行ったほうがいい」ですか? 「本人に聞くべき」ですか? 答えられないときは遠慮なくこのフレーズを切り札として使ってくださいねぇ あとはこの質問とそれほど関係がない無駄話です。疑問符を使っていますが、補足説明を求めているわけでも期待しているわけでもありません。 >古い中国の詩を読むのに、しかも日本語に直して読んでいるわけで 多くの人はそうでしょうね、バカんスキーさんもそうなんですね。 >日本人として読んだ人には、その詩のイメージの中で、桜の花が散っている風景が見えたわけでしょう。 漢詩文に多少なりとも知識のある人なら、日本人でも桜を思い浮かべることはないと思いますよ。趣味のある人なら、cherry-blossomsとしては相当な違和感をおぼえるでしょう。 刊行物の翻訳家の話してるんですよ、このサイトで翻訳のお手伝いしてる素人の話をしているわけではありませんよ。 >とりあえずその人のイメージがある。それを英訳したら、とうぜん 「桜」 の花とせざるを得ません。 個人で読むだけならそれでいいと思います。 これは翻訳でしょ、訳者と読者の立場が全然弁別されてませんよ。いいんですか?極端な話、早春の梅が示唆されているところで、訳者のイメージがトロピカルな花であったら、その植物で訳しても? >その訳がいいとか悪いとかは、読む人の判断に委ねられるべきことがらでしょう。 上記と同じです、訳者と読者の立場が全然弁別されてません。 >「意訳」 ではなく、訳者の 「解釈」 が付け加えられた訳だと思います。 「解釈」がおかしくても無条件で良とできるのでしょうか? >アンデルセンの 『即興詩人』 のように、言語も文化も異なる日本で、森鴎外の訳したものが高く評価された例 >その場合、日本人がそれで満足なら、それで文句をいう筋合いはないということになります。 鴎外の時代は近代文学の草創期でもあり、翻訳が創作の刺激・代用となった時代で今と全く時代状況が違いますね。それに、鴎外の文才とそのへんの語学屋を比べるわけにはいきません。前者は文章そのものを賞味できますが、語学屋はせいぜい読みやすさと正確性に励んでもらわなければ困るし、第一本人が食いっぱぐれるでしょう、回答者さまのように閑適の人ばかりではありませんよ、世の中は。 余事にわたりますが、漱石の書翰からの引用。 「猫」を英訳したものがあります。見てくれといって郵便で百ページばかりよこしてきました。有難いことであります。しかし、人間と生まれた以上は、「猫」を翻訳するよりも、自分のものを一ページでも書いたほうが人間として生まれた価値があるかと思います。(明治三十九年七月・漱石全集22巻) これも余事、夏目漱石『こころ』の英訳を引用。 一番下の訳はネットでも読めます。 人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、 それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、 ――これが先生であった。 A person who could love human beings, a person indeed who could not help loving human beings, but a person who even so could not open his arms to embrace those who attempted to enter his heart — that was Sensei. (Mark A. Johnson) Sensei was a man who could, indeed must love, yet he was unable to open his arms and accept into his heart another who sought to enter. (Meredith McKinney) A man who could love human beings, who could not help loving them, yet was unable to receive with wide open arms those who wanted to come into his heart — this was the sensei. (Kondo Ineko) A man capable of love, or I should say rather a man who was by nature incapable of not loving; but a man who could not wholeheartedly accept the love of another — such a one was Sensei. (Edwin McClellan)