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ヘーゲルの「大論理学」本文冒頭の一節について

 超難解で知られる(?)ヘーゲルの著書「論理学」(所謂「大論理学」)本文冒頭に以下のような一節があり、難儀しております。  (大意)「・・・純粋存在と純粋無とは同一のものである。真理であるのは・・・存在が無へと、無が存在へと・・・移行してしまっていることである。真理とは、この両者が区別され、分離されているのと同様にこの両者が分離されておらず、分離されえず、直接この両者がその反対のものにおいて消去されているということである。したがってこの両者の真理とは、一方が他方において直接的に消去されるというこの運動、生成である。・・・」  この文章から存在と無の生成の運動こそが真理であることを了解することは容易ですが・・・、  「純粋存在」(=純粋な無規定性であり、空虚な直観。)  「純粋無」(=完全な空虚、規定や内容の完全な欠落態。)  ・・・と、わざわざ「純粋~」と記していることが僕にはかなり不可解なのです。  もしヘーゲルの言うように、「純粋」な存在や無というものがあるとすれば、そのものは「純粋」ゆえに他のものに生成、消去するはずはなく、生成、消去するものであれば、「純粋」なものではないはずではないでしょうか?  いまどきヘーゲルなんぞの著書の末節に拘泥するのは馬鹿げているかもしれませんが、皆様のお考えをお聞かせください。  

みんなの回答

  • zorogane
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回答No.5

 ヘーゲルの論理学は、抽象的で一見すると難解ですが、しかしわれわれを取り巻く世界のもっとも基本的な法則を明らかにしたものです。だからこうした抽象的なカテゴリーもすべて身の回りのものから具体的に考えることが可能なのです。  だから、貴方が問題にしている「純粋存在」あるいは「純粋有」や「純粋無」というのは、簡単な問題なのです。  まずこの世の中にあるすべての物を考えてみてください。それらはすべて今、貴方が考えているその瞬間に、「有る」とともに「ない」のです。机の前にあるコーヒーカップを考えて見ましょう。これは一見すると安定して存在しているように見えますが、しかしそれは瞬間・瞬間に変わっています。それが動かずじっとしているように見えますが、それは貴方自身がコップと一緒に動いているからそう見えるだけです。地球の外から見ている人があれば、それは回転しており、だからあるところにあったと思ったものは、次の瞬間には別のところにあるのです。また安定しているように見えるのもその変化がきわめてわずかだからそう見えているだけなのです。しかしコップはもし何百年もたてば恐らくそれはそのままあったとしても変色するなど変化します。ましてや貴方が机から落とせば、割れてしまいます。そうするとそれはもうコップでさえない、ただのガラクタになります。  つまり世の中にあるものは時々刻々変わっているのです。しかしその瞬間にあるものをどのように表現したらよいでしょうか。その瞬間にあって、次の瞬間には別のものへと変化していくようなもの、こうしたものは純粋にただ「ある」としか言いようがないものです。それは純粋に「ある」とともに、次の瞬間にはすでに「無い」のです。あらゆるものは変化しています。だから貴方が「ある」と見たものは、次の瞬間には「無い」のです。それは別の「ある」になっいてます。こうして「純粋な有る」と「純粋な無い」と相互に推移しあっている状態が、すべてのものをもっとも表面的に、だから直接的・抽象的にとらえたものなのです。だからこそ、これは論理学の端緒にきているのです。  次の「定有」あるいは「定在」というのは、それこそ今あなたが見えているとおりのコップです。つまり一定の質をもち、規定された存在です。これは常識的な意識にも普通にとらえられるものです。しかしこれも有限なもので、別の何物かに変化します。最初の純粋有や純粋無はそうした定在をもっと直接的に(表面的に)見たものなのです。  このように論理学のすべてのカテゴリーは具体的に考えることができます。だからヘーゲルの文章の字面だけを追うのではなく、徹底的に自分で具体的なものを頼りに考え抜くことが必要なのです(本当はヘーゲルも具体的に考えているのですが、思弁的な体系として展開するためには、そうした考察の過程はすべて削除されているわけです)。そうすれば、ヘーゲルの論理学がどれほど深い真理を明らかにしているかを知って、驚くことでしょう。頑張ってください。 zg

maskkazu
質問者

お礼

なるほど・・・。身の回りの具体的な物に置き換えれば理解しやすくなる訳ですか・・・。僕には結構難しいことなのですが・・・。なんとかあなたのように思考できるようにがんばってみます。  ありがとうございました!

  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.4

岩波書店「大論理学」(「ヘーゲル全集」6a,6b,7,8) 引用の文章は、6aの79ページの文章ですね。 難解、超難解のわけを知りたければ、大月書店から出版されている、 見田石介 ヘーゲル大論理学研究(1) を、図書館で読んでみて下さい。 学生時代に、見田さんの著作集と大論理学を購入しましたが、 研究者に、譲りました。 見田さんの、大論理学研究(1)の、72ページに、 成の弁証法 という項目の始めに 1 有と無との統一 という解説があります。 いまどき、ヘーゲルなんぞの著書の・・・ 学問とは、わからないから、立ち止まって、だれか、同じところを、どう乗り越えたのか、 聴いたり、一緒に考えることではないでしょうか? 末節に拘泥するのは、ばかげているわけがない。 見田さんも、吉田松蔭も、きっと、そう言うでしょう。 なぞ、疑問は、解決したときに、富士山の頂上に立つ(まだ、登ったことがない)気分でしょう。 大いにお励み下さい。

maskkazu
質問者

お礼

 ああ・・・やはり先達の助けは必要ですね・・・。  ありがとうございました!

  • ctaka88
  • ベストアンサー率69% (308/442)
回答No.3

うーん、これは単なる感慨ですが >「純粋」な存在や無というものがあるとすれば、そのものは「純粋」ゆえに他のものに生成、消去するはずはなく、生成、消去するものであれば、「純粋」なものではないはずではないでしょうか? この論理展開は龍樹の「中論」ですね。 「中論」では、であるが故に「絶対」はなく、すべての存在は縁起の中にあるとなっているかと思います。仏教的「空」、色即是空の論理ですね。

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.2

西洋思想は、ひらがな、の思想なんですね。基本的には26文字のアルフアベット、の発生言語 によって考えているのです。それを難解というのは。日本語に、感じに翻訳する。耳慣れない。 漢字が当てられ。漢字の意味から理解し概念を構築しなければならなくなります。 翻訳者が違うと、違う思想になりかねないものです。解らないまま、解ろうと考えながら、 保留しておけば。後で(たいした事は言っていないなと?)気づくようなものでは。 この言葉の意味はこういう事だ、などと日本語の概念を知識として記憶し、その知識を組み合わせ 、横文字を加えたりして理屈にしても。知恵、考える事、にはなりません。 マルクスが、アリストテレスの形而上学、アカデミーな学問を、「知恵を台無しにした」と言っているような 事でもあるのでしょう。 弁証法とは、すべては変化して行くものである。として。変化しないもの、として、定義し固定化する。 概念の統一を図り、皆に同じように思わせよう、とする形而上学に対する、対立物としての考え方です。 ヘーゲルはその弁証法の祖とされているようですが。 実は、弁証法は東洋哲学の基本、とも言える考え方であり。 西洋思想は、2500年遅れて、やっと「諸行無常」、常なるものは無い、世界は変化して行く過程として、常に今起きている、という考え方に気づいた。やっと神の存在枠を外した。でもあります。 存在と無、サルトルのそんな書がありましたが。原典書題は、忘れましたが、「イ、リ、ア、エ、??」 「ある、と言うこと、ない、という事」というようなような、簡単なひらがな言語?なのです。 ドイツ語も基本的には同じであり。質問分をひらがなに?置き換えてみましょう。 有ると無い、とは。同じものであり。有がなければ、無はない。無がなければ有はない。 現れていることは、有が無へ、無が有へと移行し、変化、し認識されることである。 しかしこの両者が、分離されている訳ではない、分離出来ないまま、一方が現れると、 一方は、現れない、 有×無=有  無×有=無  有が現れる時、無、は(×1)であり。無が現れる時は 有が(×) となって、消去される(×1 不確定)になっている。 これは、これは、両者が分離されているのと同様に分離されておらず、直接的にその反対のものによって、現れなくなる。 有=無 であるとは。 有=(1/有)  有×(1/有)=1  あり この(1/有)が、無、と名付けられるものである、から 有=無 であり。有×無=一つの統一体としての、存在、現れているもの、となる。 純粋存在?   知識や前提となる情報や体験がなくとも、有る、と認識される対象 純粋無?    純粋存在が存在が認識されない、非 対象  おつしゃるように、純粋、という言葉は、無意味な言葉なのでは? ひらがなに置き換えると言いながら。 かって理解出来た者が一人もいない、難解な哲学、とも言われる 「老子」の 道は道にして常の道にあらず。名は名にして常の名にあらず。を当てはめただけです。が 同じ、弁証法思考であり。ヘーゲルも同じようなことを考え模索していたのでしょう。

noname#150036
noname#150036
回答No.1

こんにちは.またおじゃまします. まず純粋存在と純粋無については,ロジックを通していない 純粋な直観であることを述べています. たとえば,夜にあったはずの月や星が,昼に観たら無くなっ ていた.みたいな. 次に真理については,純粋な直観からロジックを通過して, なんらかの規則性をみいだした状態,すなわち日常の直観 (単に≪主観≫と言ったりもする)である,と述べていること を窺い知ることができます. たとえば,昼は明るすぎて,星が見えるはずがない.みたいな. ボクはいま,ハイデガーを読んでいるんですが,フライブルク 時代に,哲学を学ぶ学生たちが,ハイデガーのもとへ集まった そうなんです.そのなかに,日本人も含まれており, 田辺元,三木清,九鬼周造などがいた,とされています. ヘーゲルが亡くなってから50年後のことですから,彼等も 「大論理学」の(少なくとも草案の)解釈を試みていると思 うのです. 田辺元,三木清,九鬼周造,ここらへんにヒントがありそうな 気がするのですが,ボクはこの人たちを知りません. さっぱりです.(´ω`;)

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