No.5です。
あたらしい参考書籍のご紹介はしませんが 例示した書物の有効性をなお示すためにつづります。
★ なるほど、前の方も述べていましたが、失楽園のエピソードは人間の自由意思の発生と関わってくるのですね。そして、人間は時間的存在になると。カインのエピソードも考えてみれば不思議です。聖書は逆説に満ちていますね。
☆ おおむねそのように理解します。
なお越境行為になりますが
★(No.7お礼欄) 善悪の実を食べて得た知識が性であるとは、尤もな解釈ですね。天使には性がないと言いますが、エデンの園に住むアダムとエヴァもそのような罪のない存在だったのでしょうか。
☆ 自由意志によって みづからの心に逆らって判断しその内容を表現する(意志行為する)という・ウソから始まる自己背反行為は 人間関係の内の両性の対(つい)関係においては 情欲の問題として現われます。
言いかえると 善悪を知る木から採って食べる前には エワやアダムには 情欲のない生殖があった。と考えられます。実際に生殖行為があったかどうかに関係なく 自由意志問題としてはそういう解釈になろうかと考えます。念のために言えば したがってかれら二人には 男女という性は 初めから ありました。
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( a ) 聖母マリアの処女懐胎はお伽噺としての側面という考え方もあるのですね。
( b ) その場合でも処女である必要はあるのかしらと思いますが、
( c ) やはり純粋や無垢といった意味があるのでしょうか。
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☆ ( a )の《おとぎ話》あるいは《物語》とわたしが言ったのは この経験世界を超えた領域――つまり 神であり聖霊のことですが――を扱うゆえに 哲学としてはそういう表現をもちいて説明しています。
( b )ですが 《非経験》の領域のはたらきつまり聖霊によって身ごもったとすれば――と言うことじたいが哲学から見ればおとぎ話であるのですが その話としては―― 言うなれば《処女懐胎》という表現になる。そういうことだと理解します。わざわざそのように言ったという意味です。
ただし ( c )のようにそれ以上に意味を求めた向きもあった(ある)ようです。聖人であるかのごとく聖母マリアと言い(――だからと言って 低俗な女だったとは一言も言っていませんが――) 純粋志向となり 思い入れないし思い込みとしての純粋無垢の観念をいだく向きです。観念信仰のことです。偶像崇拝とも言います。
その母の子が イエスというふつうの人間であると同時にキリストと呼ばれた神であるというふたつの貌(かお)を持つ。ゆえに その子の母も その懐胎に際して ふたつの側面を持つとされた。ただそれだけのことなのですから。
強いて余計を添えるなら エデンの園の物語における《情欲のない性欲ないし生殖》という主題につながっているのかとも思われます。たぶんそれは こんどは《復活》という主題――もしくは 人間の前史から後史へのどんでん返しなる革命過程(?)――にからめないと 問題は解けないように思います。それは 元の楽園における生活の状態に戻るというのではないという意味が重要なのだと考えています。うんぬん。・・・
お礼
丁寧にありがとうございます。新共同訳の聖書は手元にあったのでまずはよく読んでみます。『聖書の読み方 』『旧約聖書入門 上・下』『キリスト教理解のために―カトリック教育にかかわるすべての人に』はどれも勉強になりそうです。読んでみます。 失楽園のエピソードを人間の自由意思と絡めて考えるのは興味深いです。自分でももっと深く考えてみたいです。 最後のご忠言も痛み入ります。そうですね、まずは耳を傾けることから始めて、色々な考え方(というより信じ方でしょうか)に触れてみたいです。信仰はとてもプライベートでデリケートな領域だと思うので、相手の立場に立って発言できるようになりたいです。