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人生はどの程度まで幻想か
人間は幻想の動物だと人から言われたことがあります。 それ以来ずっと、人間同士が理解し合うのはある程度は幻想なのだろうと漠然と考えてきました。 他人は他人を理解しないと思いますか? それとも、理解してもらえるように自分自身を提示しないからそうなると思いますか? この世は地獄だと思いますか? 理解なんてそもそも何でしょう?考えると袋小路に迷いこんでしまいますよね。 やはり人間は自分の域を出て他人にはアプローチするのは不可能なものでしょうか? 自分というのは檻でしょうかね?
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他人を理解できるか、出来ないか、のように 有るか、無いか、と考えるのはおかしいと 思います。 他人を百%理解できるハズはないですし、 全く理解できない、ということも無いでしょう。 つまり、どの程度他人を理解できるか、と 考えるべきではないでしょうか。 そうであるならば、長くつき合っている人間 レベルが同じ人間、同じような環境で育った人間 同じ性、同じ歳、同じ民族・・・・なら かなりの程度理解できる、という場合があるでしょう。 反対に、見たこともない人、話したことも無い人 ・・・・はあまり理解できないのが通常でしょう。 こう考えると、選挙ておかしいですな。 それから幻想についてですが、仮に他人を理解できた として、それをどうやって客観的に検証できるか、という 問題があります。 同じ色を見ても、男と女性では見え方が異なるかもしれません。 それをどうやって検証できるのでしょうか。 その意味で、他人を理解する、てことそのものが今のところは 幻想であると思いますが、どうでしょう。
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ああ 悩める者よ 良く聞きなさい。 この世は均等な揺らぎを破って生まれたのだ。 偏りと寝返りと返済の忘却という 志向性によって闇が姿を 変えた現象なのだ。ただひとつの真理をもとに。 ただひとつの真理から派生し 現象として瞬間にのみ存在して いるのだ。その瞬間においては幻ではなく100%現実である と思われるが 「我思う故に我あり」と 言われるほどに確定 されたものは 瞬間における我だけなのだ。次の瞬間には別の ことを考えているからだ。 しかし考えてもみよ。ひとつの真理から派生した我々なのだ。 即ち 他人 = 自分 ではないか。 檻は自分が創りだした幻であろう。 何を迷う事があろうか。他人を知るためには自分を深く知れば よいのだ。その中で偏りが大なるものと 小なるものがある事 を知ればよいのだ。というエポケー(最近エポケーが流行って ます)。 自分の迷いを知り 自分の迷いと闘うために 読書にいそしも うではありませんか。闘いのための武器は 知である。 そういえば ゲーテは偉大なる詩人であった。 ああ 『 ファウスト 』 いや独り言です。(´ω`;)
お礼
>確定されたものは 瞬間における我だけなのだ。 >檻は自分が創りだした幻であろう。 エポケーって確かペンディングのことでしょうか。現象学には詳しくないのですが、今度調べてみます。
- Mokuzo100nenn
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>人生はどの程度まで幻想か 人生は70%ぐらいが幻想です。 他人に対する評価や思い入れなどは100%幻想です。 今日、食ったものが数時間後に糞になって排出されることなどは幻想ともいえないので、加重平均して70%です。
お礼
70%ですか。評価や思い入れは100%ですか。
貴方が他人を切に必要としているらしいことがひしひしと伝わってくるご質問です。 割りきりが肝要だと思います。 本来が他人。お互いの完全な理解など不可能だということです。 当たり前のことです。 ひとはひと。 自分に必要な分だけ相手が理解できれば GOOD JOB!だ ということで。 おおかみは獲物を狩るときには群れて見事な連携プレーを見せますが、 そうでないときには共食いもします。 危険を感じる感覚だけはしっかりとはたらかせましょう。 自分自身は幻想などではありません。 これだけは絶対的な真実だといっていいと思います。 檻は他人から身を守るだけに必要なものです。 強く生きましょう。 なーんちゃって(汗;;)。
お礼
>おおかみは獲物を狩るときには群れて見事な連携プレーを見せますが、 そうでないときには共食いもします。 危険を感じる感覚だけはしっかりとはたらかせましょう。 割り切りですか。確かに完全な理解は不可能ですね。 ご回答ありがとうございます。
- 雪中庵(@psytex)
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「~が幻想だ」という人は、幻想以外のものを知っているのでしょうか? だとしたら、それこそ幻想です。 物事を確かにすべく、原理的に確定しようとすれば、不確定性原理 によって無限不確定性(=無)に還元され、その自分の認識を決定 (=公理系において証明)しようとしても、不完全性定理によって 無矛盾ではあり得ないのです。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め 込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、その 潜在的認識可能性の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の 時系列化=宇宙膨張)にとり、相対的に無の風は光になり、その 光=量子相互作用パターン(感受)の向うに自我仮説の補完として の時空仮説=宇宙を認識するのです。 自我仮説に対する相補として時空仮説が生じているならば、全ての ものは、あなたが存在するための(物理的根源まで遡った)補完なのです。 「他人を理解しない」以前に、自分も理解していないと言えましょう。 「自分」とは、異なるプランク定数hの時系列化、即ち量子的不連続性を 仮説的に軸(時間)とする事で成り立っているのです(=他人と過去の 自分は等価(時空的不連続性)。 その“記憶=経験の蓄積”において、階層現象表面的に定性化する (=本質的に確定化しない)という、もう1つの虚構を重ねることで、 「自我仮説(時間的流れ)と時空仮説(空間的広がり)の相補分化」 は可能になっているのです(本当は「分化」していない)。 本当は無いとは分からない事が有である以上、理解とは「それが 本当は如何に無いか」=幻想であるか、の過程に過ぎません。
お礼
>本当は無いとは分からない事が有である以上、理解とは「それが 本当は如何に無いか」=幻想であるか、の過程に過ぎません。 今迄、考えた事もないような壮大なご回答ありがとうございます。 ご回答内の難解用語をネット検索しようと思います。
こんばんは。 自分は「人は自己を表現しようとする生き物だ」と考えています。 例えば、自分の部屋というのは、まさに自身の頭の中を具現化した 場所と言えるのではないでしょうか。 >他人は他人を理解しないと思いますか? する気がなければ、しないのでしょうね。 でも、洞察力に優れた人であれば、理解したくなくても わかってしまうことがあるかもしれません。 例えば、警察官や探偵です。ドラマとかでもよくありますよね。 部屋の様子が、容疑者の人となりを、ある程度わからせてくれる ってことが。 他人を、自分の部屋に入れたくない、というのは、 自分の頭の中を見られたくない。といことだと思います。 >それとも、理解してもらえるように自分自身を提示しないから >そうなると思いますか? 別固体の肉体を持って生まれている以上、何もせずに以心伝心の ようなことは、ないと思います。 相手が、自分の部屋を見せてくれない、つまり頭の中を見せてくれない とすれば、コミュニケーション(外での会話とか)をとることで、 お互いを理解しようとするのでしょう。 関りあった年月が長いことが前提の以心伝心だと思います。 >この世は地獄だと思いますか? 天国でもあり地獄でもあるのでしょうね。 戦時中の悲惨な時代を考えれば、今の日本は、ひとまず天国に近いん じゃないですか? それでも問題山積ですが、1人1人がどう捉えるかだと思います。 >理解なんてそもそも何でしょう? 自分が産み落とされた場所において、自分の周りの環境を 知ることではないでしょうか? 自分の身に危険が及び易いのかを判断する為だと思います。 動物が、自分の縄張りを渡り歩いているような状態のように。 >やはり人間は自分の域を出て他人にはアプローチするのは >不可能なものでしょうか? 精神的なようなものだけで、アプローチするってことですか? 無理なんじゃないですか?そのために五感という道具(能力)が あるんだと思います。 こういうサイトで、こうしてやりとりするには、 五感をもっていなければ、できないことじゃないですか。 >自分というのは檻でしょうかね? 肉体という檻を持っているんだと思います。
お礼
質問に個別にお答え頂きありがとうございます。 動物が縄張りを歩いているような状態ですか。やはり五感ですかね。 興味深いご意見参考になりました。
- バグース(@bagus3)
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すべては幻想です。 犬を見たとき、かわいいと思う人、怖いと思う人 大きいと思う人、きたないと思う人、さまざまです。 同じ1匹の犬を見て、どうして違ってくるのでしょう。 それは、犬そのものを見るんじゃなく、犬を見たときに 脳が作ったイメージを見ているから、人それぞれになるのです。 イメージとは、脳の中にある架空の映像です。つまり幻です。 同じように、すべての見るもの、聞くもの、触るもの、 考えること。すべては幻想です。 そして、すべては幻想だというこの考えも幻想です。
お礼
>同じように、すべての見るもの、聞くもの、触るもの、 考えること。すべては幻想です。 そして、すべては幻想だというこの考えも幻想です。 これをまともに受け止めたら、修行僧の心境ですね。しかし、仰ることはわかります。
- 51549
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他人の言動から他人を推測して動いているのが残念ながら人間。学問的には回答はそうでしょう。でも、理解しようと行動して、発言して他人と関わっていくうちに関係性を持つのも人間の特性です。現代は1人でも生きていけるのでこのことに関心があまりなかったように思われます。ところが、東北の震災や、大きな事件があると人類はそのことに気づくという特徴があるように思います。しかし喉元過ぎると希薄になっていって、また気づくのも人間なんですね。ところで、人間という字は大変よく考えられた字と思います。ある程度の間が必要なのと、人と人の関係性も必要ということをこの字は表していまして(いにしえの人はえらい)で、自分は檻かどうかという問題は、パーソナリティーというものやエゴ(自我)が個人にはあります。特に年をとればとるほど、経験や習慣や自分の規範に基づいて行動しようとするのです。なので、あなたはもっと柔軟性を持って(リラックス)する必要があるのかも知れませんね。でどうするかといえば、元に戻るのですが、間を学ぶには、禅と落語がいいというようなことが言われています。どのように自分をうまく表現できるかが人間関係の肝なので、間について考えてみられては如何かなぁと思います。(回答になっていなかったらゴメンなさい)また、僕たちは日本人なので「季節を感じられる生活」をすると人間性・人間味が増すという発言はけっこう最近あちこちで見かけます。また人間も動物なので、ついアタマで考えがちになる習慣から抜け出して五感を感じる習慣をつけると良いとも言われています。 アジア人的感覚特に日本人的感覚も近年注目されています。「間」「季節感」「五感」この三つを得ようとするする努力をすると、他人が魅力あると感じてもらう自分になることができるイコール他人からも愛されるのではと思います。
お礼
禅と落語ですか。五感を磨いて身体を使う感覚で今後やってみます。
- やっちゃん(@510322)
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人間は幻想の動物? いやいや現実の動物ですよ。 幻想の動物は河童や竜などの昔話や逸話にでてくる 動物のことですよ。 ちょっと質問者様は偏った考えをお持ちで、真面目すぎますよ! 他人は他人を理解しないなんて、おかしな考えだと思いますよ。 質問者さまにも友達はいるかと思います。 友達とお話しすることがあると思いますが、友達を笑わせたり、 友達の話に納得することがあることかと思います。 その時点で意志の疎通が成立して、お互い理解しあっているじゃ ありませんか。 あまり深く考えてしまいますと、どんどんド壷にはまりますから、 人生もっと安易に気楽に考えましょうよ。 この世だって捨てたものじゃありませんよ。 決して地獄なんかでもありませんよ。 質問者様だって最近笑ったことがあるかと思いますが、 地獄でしたら、笑えませんよ。 まぁ私はアホなんので、哲学的な質問に、哲学的な回答は できませんが、人間は気の赴くままに生き、理性でなく本能で 生きるのが一番楽かと思います。 稚拙な回答でアドバイスにはなったかわかりませんが、 あまり考えすぎずに生きてください。 その方が人生楽しいですからね。
お礼
考えても答えが出ないのは知力に頼るなというサインかも。 現実的なご回答ありがとうございます。
お礼
>どの程度他人を理解できるか、と考えるべき そうですね。仰るとおりです。 その客観的検証に関しては気付きませんでした。ご回答ありがとうございました。