- ベストアンサー
天皇家につながる豪族時代の氏
歴史書には、物部、穂積、斎部、葛城など、豪族の名がたくさん出てきます。 神武東征でも天孫の1人饒速日を始祖とする物部氏が現れますので、天皇につながる一族にも氏があったはずです。 3世紀ころから古墳(前方後円墳)があり、そこに埋葬者がいるならどの王かわかっていたはずです。 実存とされる最古の崇神天皇や、後に大化の改新(乙巳の変)を起こした中大兄皇子(天智天皇)につながる、豪族の氏は記録に残っているのでしょうか? つまりもともと天皇は何氏族と呼ばれていたのでしょうか。 もし中大兄皇子以前に政権打倒が起きていた場合、どの大王がなんと呼ばれていたのか調べている方はいるのでしょうか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%80%9D%E6%AF%94%E5%AD%A4 姓は阿毎 このへんじゃないですか。 天武天皇の頃に、歴史は整理整頓されます。 それが日本書紀なわけですが、天武天皇の頃の社会理解に基づいて、過去も理解(言い方を変えると、過去の改竄)が行われます。 海外に出した文章は日本では改ざんできないので、そのまま残った。 たとえば http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E5%80%89%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%BA%BB%E5%91%82 蘇我倉山田石川麻呂 後世では石川氏を名乗っていますが、石川麻呂の時代にはすでに文字による記録が残るようになったので、元は 蘇我氏だよね、というのがわかるわけです。 文字による記録が残っていなければ、ずっと石川氏だったということになっていたでしょう。
その他の回答 (2)
- mekuriya
- ベストアンサー率27% (1118/4052)
日本書紀と古事記以前の記録は存在しない。文字が無いから記録を残したくても残せない。それが百済経由で漢字が伝わり、長い間語り継がれていた伝承を元にやっと日本書紀と古事記に文書化できるようになったのです。語り継がれていたのは音だけで文字ではありません。今、残されている記録は日本書紀と古事記を編纂する段階になって、音と意味を考えながらふさわしい漢字を当てはめていったのです。文字の無い時代にはそもそも氏族という概念はありません。全部、後になってから天皇が豪族に賜ったものなのです。古墳時代には文字がありません。誰が埋葬されたのかという記録は存在しません。天皇は天皇です。天皇が「そちは今日から忌部を名乗るが良いぞ。」といった具合に姓を賜った以前には誰も姓などもっていなかったのです。それは天皇も同じで天皇は自分に姓を賜ったなんてことはしていないので、天皇に姓など存在しない。天皇は豪族とは別格の存在だったのです。
お礼
伝承でいいのです。神武と饒速日が出会ったとき同じ天孫と認めていますので、別格ではないと思いますし、別格でない時期のお互いの呼び名を知りたいですね。
補足
あ、古事記の序文にある先代旧辞や、日本書紀が引用したと思われる帝紀があるので、その前から文字使われていました。また1世紀には大陸とやりとりしていたということは、中国人を介してでも漢字を読めていたはずです。
- frown_knight
- ベストアンサー率30% (234/777)
天皇の起源について正確なことがよく分かっていないませんので、そのような記録はないということになるのでは。
お礼
記録はやっぱり残っていないのですかね。
お礼
タリシヒコのアメは、中国の当て字だっただけで、実はアマ、アメという名乗り方があったのではないでしょうかね。アマツクメ(天久米命)、アメノオシヒ(天忍日命)が神話にされてしまっていますが、実は「アマ」「アメ」が実際のものだったようにも思えます。聖徳太子は、アメタリシミコト(天多利思命)みたいだったとか。
補足
よいヒントになりました。これを忘れていました。 『新唐書』 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm 次用明、亦曰目多利思比孤 ずばり用明天皇でした。