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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:どう生きるべきなのでしょうか。)

どう生きるべきなのか?

このQ&Aのポイント
  • 私は高校2年生の時から、どうやって生きるべきかを考えてきました。
  • しかし、宇宙の終焉が考えられている現代において、生きることの意味は果たしてあるのでしょうか?
  • 私は結局、この世が意味を持たないと納得し、自由に生きるべきだという結論に至りました。

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回答No.5

『お礼』を読ませて頂いて、きっと“永遠のテーマ”とでも言えるのではないかと思えました。 >今まで生きてきたから生きているとしか答えようがないです。 確かにそれは言えますよね。“生きていく”という意味は受け取り様としたことであると共に人それぞれですよね。 “十人十色”、“千差万別”と言えましょう。みんな方向性も思考性も違いますしね。 言えることは“今日一日を大事に生きる”ということです。 それは何かと言うと、“悔いの無い生き方”に通ずるものがあるからです。 十代の若さでこんなに哲学的なことを心理的に感じることが出来るという方はそう滅多に居ないと思います。 まだ、人生は始まったばかりです。これから社会人になり、いろんな壁にぶち当たり、またいろんなことに遭遇することでしょう。 人生って“乗り越えていく”ということの繰り返しなんですよ。 いい加減な生き方をすればそれだけの人生で終わってしまいます。 そして、やるべき時には無視せず、しっかり(怠けず)やりこなす事なんですよね。 そうしたことが自分の為であり、潤いのある人生を約束出来るんですよ。 一日、一日を悔いの無いものにしていくことで、恐れるものは影を潜めていきます・・・。 やがて大人になり、苦悩し、押しつぶされそうになったら、今のこの“初々しい”気持ちを思い出してください。そして“喜怒哀楽”大いに感じてください。生きているとした実感を味わってください。 それが“生きているとした証”なんですよ。 これからですね。頑張ってください。

itinose41
質問者

お礼

お礼にまでお答えいただけるなんて、感激です! 結局人生は自分が好きなように、自分が決定するままに生きるべきだという考えは、自分の中にすっかり定着したみたいです。 そしてどのように生きていくのか、私は前から抱いていた理想を追い続けることにしました。 固定観念は思考の柔軟性を失う原因になりかねませんが、この理想を追い続ける事をぶれない軸として生きていこうと思っています。 一日を大事に生きることが悔いのない人生に通づる、まさにその通りだと思います。 しかし頭ではわかっていてもおろそかになってしまいます。 なのでいやな事から逃げて人生をおろそかにしてないか、自分の事をしっかり直視して、理想を追い続けたいと思います。 ご回答ありがとうございました!

その他の回答 (4)

  • eld3399
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回答No.4

宇宙の終わりは、数千兆年先であり、宇宙自身からみれば、宇宙が生まれてまだ数時間しか経っていません。

itinose41
質問者

お礼

お答えいただきありがとうございます。 宇宙が終わる時は私、というか人類が関与するような時間ではないことはもちろんわかってます。 私は、宇宙が終わってしまうのなら今まで世界がたどって来た軌跡や、功績が全てが無に帰ってしまうということに絶望した訳です。(宇宙が全てではないかもしれませんが) ということは“生きて何かをすべき”という使命は必然的に存在しないことになりますよね、無に帰すことが使命って可能性もありますがまさか…

回答No.3

『どう生きるべきなのでしょうか。 』 と言うことはご自身の『生きる』事への執着心が感じられます。 それはとても人生というものを真面目に捉えている証でもある様に思われます。 文面全体が“自問自答”としたものと窺えます。 確かに、“生きとし生けるもの”いつかは死を迎えるなり、消滅とすることでしょう。 “これからの人生”そして、生き方であるなら『宇宙規模的』な“光”が届くまでの距離が、○千年や、何万光年、とした宇宙時間とでも言うか、惑星に於ける空間と同一視することは余りにも極端とも言えるし、照らし合わせ、ものを比較なりとした思考は、今こうして生きている者にとっては特に必要とするものではない様に思われます。(天文学に興味をもち研究しているとした事とは違いますから。) どうせ、人も宇宙(惑星、地球も)も亡びるとした事であるなら・・・とした思考性は明らかに“マイナス”であり人間本来の持つ、勇気、希望、向上性、歓び、感動、将来への目標・・・etc など必要とされている大切なものをを頭から否定し潰しているも同然ではないでしょうか。 『人間は考える葦である』は、フランスの思想家であり、数学者でもあった“ブレイズ・パスカル”の言葉ですが、拝読しているうちにこのようなことを連想してしまいました・・・。 何故、“人間は葦である。”と言ったのでしょう。? “葦”という植物はとても風に弱く少しでも強い風が吹くと直ぐに“しなって”しまい風の抵抗には勝てない・・・。 しかし、硬くて頑丈な木は強風でも、ものともせず抵抗をしてしまうので勝利する。しかし、それも繰り返し強風が襲ってくればやがて倒され根元から折れて倒されてしまう・・・。 しかし、“葦”は自分をよく知り、抵抗はせず風に身をまかせ、一見して敗北(服従)したかの様に思えるが、風が止めばまたゆっくりと身を起こし、何事もなかったかの様にそよ風に揺れている様は人(人間)とは、こうしたもの、とした比喩でもあり、教訓ともとれます・・・。 >この世は意味を持たない、そう納得してしまった私はどう生きるべきなのでしょうか。 結局、何か為すべく生まれてきたわけではないと理解したので(中略)しかし、今まで為すべきことがあるという思いにすがっていたので、自由に生きろと言われても急に広大な砂漠に放り出されたような気分で、どこに向かえばいいのかわからないんです。 先ず、言えることは、“絵に描いた餅”、“机上の空論”では意味を成さないと言うことです。 言われていることは分かります。“暗中模索”~“試行錯誤”それも決して異様でもなく、逆に人間らしさを感じます。 早く“答え”を出すことばかりが先行し、焦りを覚えている状態ともとれますよね・・・。 枠に填めた固定観念的意識は視野を狭くします。ご自身の“これから”はまだ始まったばかりです。悩まずして成長は無いと受け止めることも大いにありではないでしょうか。 >今までずっと色々生き物を食べ殺してきた事、です。 当たり前のことですがしっかり認識するのは衝撃が大きく、私の行動に反映されるほどでした(食事し終わったときに毎回本気で感謝する等) これは仰るとおりですよね。私達は『命』を頂いているのです。感謝すべきことですよね。(同感です。)だから食事の前には必ず感謝の意を込めて『頂きます。』と言う・・・。そして『ごちそう様でした。』と・・・。 こうした摂理、感謝するお気持ちをお持ちなのですから焦ることは無いと思いますよ。 素晴らしい感性だと思います。こうした“ありがたさ”を基本的に根底に持っておられることは人(人間)として略、完成しているとも思われます。 大いに“苦悩”するもありではないでしょうか。

itinose41
質問者

お礼

strvegger-poさんのご意見、気づかされたことが多かったです。 確かに生きる事を前提に考えていたので、生きる事への執着心は少なからずあるのでしょう。 ただ何故生きているのか聞かれたら、今まで生きてきたから生きているとしか答えようがないです。 この答えが欲しくて自問自答を繰り返したみたいです、これからも続けることになるのでしょうけど。 確かに宇宙の終わりの時など私の人生に関与するはずもない時間であり、そんなことを気にしなくても現実では生きていけます。 しかし生きることに何かしら使命があるのではないか、という考えに対して否という答えを導いたという意味で、私の中では価値を持っています。 「人間は考える葦である。」興味深い言葉を教えていただきありがとうございます。 gooで質問したときは私が出した答えにマイナスな感情を抱いていましたが、今はなんだか束縛から解かれ新しい世界を体験してるようです。 故に未だ彷徨っているわけですが・・・ 葦のように何事もなかったが如く、とはいかないものの、真っ向から抵抗せず柔軟に受け入れて生きていこうと思います。 そしてstrvegger-poさんの仰るとおり、人間が持つ高貴な感情を大切にしつつ、これからも悩み続けたいと思います。 ご回答ありがとうございました!

noname#140719
noname#140719
回答No.2

まず理屈を考えるより先に人助けを基本に体を動かしてたくさんの人と接して色んな事を体験して色んな事を感じる事ですね。 その中から貴方の知りたい事は貴方なりに見えて来ます。 人助けから生まれた人脈や人間性は人生の宝になり貴方自身の自信になります。 言葉は悪いですが机の上の禅問答は時間の無駄だし30歳を過ぎてからの後悔の原因にしかなりません。

itinose41
質問者

お礼

実際に体で感じるのが最も早く、深く残るものですよね。 人助け…、確かに私は自ら他人を積極的に助けようという考えをあまりせず、自分を磨くことの必死すぎて周りが見えていなかったみたいです。 時間の無駄、というのは言いすぎだと思います。 が、それほど実際に体で感じることが重要だということですよね。 ご回答ありがとうございました!

  • hekiyu
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回答No.1

哲学的ですね。 哲学ってのはキリスト教と密接に関係して いるものです。 神は、人間を特別なモノとして創った。 他の生物と異なり、神の姿形を真似て創った。 なら人間には何か与えられた使命、意義、意味 があるのではないか。 という論法です。 しかし人間が特別な存在と思うのは思い上がりです。 人間の出現は、確率的にはそれほど奇異なことでは ありません。 他の生命とどこが異なるのか。 染色体の数が、遺伝子が少し異なるだけです。 全く貴方の指摘する通りです。 いつか、必ず死ぬ人間、亡びるであろう人間 そんな人間の人生に、客観的な意味など存在しません。 あるのは、そう納得する、そう信じる主観的な 意味だけです。 その主観的意味ですが、現代の欧米では 「自分の能力ぎりぎりまで頑張り、これだけやったん  だから死んでも後悔しない」 てのが多いようです。 この主観的な意味も、必要か、と問われれば どうかなあ、という感じもします。 どう生きても所詮は死ぬだけなんだから、と 考えると何でもあり、とも言えますね。 そう主張している哲学者もいます。 中島義道という人です。

itinose41
質問者

お礼

hwkiyuさんもやはり人生には意味がない、とお考えですか。 同じ考えを持っている人がいる、というだけで安心感を覚えるものですね。 次は、人生自体にに意味はない、とわかった上でどう生きるかというのが問題ですよね。 世のルールを守りつつ、好きなように生きればいい、という答えに至りましたが“好きなように”というのもなかなか曲者で… 18歳なのでまだまだ時間があり人生経験もひどく浅いので、当分はいろんな経験を重ね悩みつつ、自分を磨いていこうと思います。 ご回答ありがとうございました!