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人生とは

最近思ったんですが、生きている上で起こる様々なことは、どんなに辛いと思っていても楽しいと思っていても、結局自分がそう思っているだけにすぎないと気付きました。 自分が楽しいと思う事をやっていても頭では空しいというだけです。 全てが幻想のこの世に、人は何のために生まれてきたのか。 よくある話だと永遠の生命を得るためだとか魂の成長だとか次世代の宇宙を作るためだとか言われてますが、そんなことを認識することは不可能です。 こんな質問してもそれこそ無意味だとは思いますが 人生についての皆様の考えをお聞かせください。

みんなの回答

回答No.19

人生なんて、なるようにしかならない。貧乏人は、貧乏です。金持ちは、金持ちです。分相応が必要ですよ。小手先のテクニックで生き抜こうとしても、馬鹿を見るだけです。これでも分からないのなら、貴殿が、どうかしています。以上です。

  • toyo_35
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.18

人生は辛いものです。 人は幸福になるために生まれてきたと思うから、より不幸を感じるような気がします。 人は元、死後の世界に生きていた霊魂でした。 そこでは自由に空を飛び、不自由などなかったのです。 虚しくてたまらないけど、人生の意味を知りたい。 もしそういったことに興味があれば、参考サイトを覗いてみてください。

参考URL:
http://web3.incl.ne.jp/kaede/yakata/reikongaku/mokuji/mokuji.html
回答No.17

再回答致します。 ご存知かもしれませんが、少しでも悩みが晴れればと思い、以前に読んだ本をお薦めさせていただきます。 「なぜ生きる」 著者 明橋大二、伊藤健太郎 親鸞聖人の教えを基本に精神科医と哲学者のお二人が書かれた本ですが、感動しました。 あなたの質問にこれだけ回答者が今でもあるということは、それだけ共感する人が多いからでしょうね。 何も考えずに、目先の欲だけにとらわれて生きてる人間よりも、こうして人生とは何かと考えながら生きてる方が、余程、価値があるのではと思います。 あなたのそういう悩みを世の中の役に立つことができるよう、ぜひ昇華されることを祈ってます!

回答No.16

ご質問が解決されていませんでしたので、再回答致します。 恐らく苦しんでいらっしゃる原因は、ご自分で解決案を発見ができない為でないかと推測致します。 そのような事は、人生を歩んでいらっしゃる中で見つかる事も多く、何年も経ってから納得する結論を導き出せる事もありますよ。 あまり集中せずにのんびり考えて、そのうち分かるかも?くらいでも良いでしょうし、どうしても納得行かない場合は、最初から100%完璧な答えでなくとも良いのです。 自分なりの、例え未熟な結論でも答えを出してしまいます。そして、もし不安があるなら修正していけば良い事です。 完璧な答えを出そうとしないこと、結論を早く出そうとしない事、このような事が良いのではないでしょうか? 人間は考える葦である・・・大昔から考える事は人間の本分です。考える事は良いと思いますが、生活を最優先に、そのうちに結論が出ると思います。日々の生活を大切に楽しんでいれば、ノイローゼにはなりません。朝昼晩のご飯のメニューの心配を優先していれば、日常生活は過ごしていけるのです。

回答No.15

貴方と同じ事を14歳から32才までの、18年間考え続けた経験が有ります。そうこうしているうちに、感情が湧かない状態、ノイローゼの中の離人症になってしまいました。感情が湧かなくて『生きているのか、夢を見ているのか』分からない状態の事です。 生きている実感が伴わない状態のことですが、その元には『死に対する不安や、恐怖感』が付きまとっていました。18年の悪戦苦闘から、はっきりと不安の正体が分かる時が有りました。それ以後『死の恐怖』と言うものから開放された経験が有ります。 その訳と心の裏側を書いてみますので参考にして下さい。不安や恐怖とは、自我意識が感じている感情ですが、自分自身の中には、自我意識にそういう感情を沸かせる者が存在しています。その者は『無意識界や、潜在意識界』の主人公と言う言い方が出来ます。 人生の意味を考えると言う事、生きる意味を考えると言う事は、実にそのわけを知っている自分が、自分に問いかけている問題です。この事に付いて、いかに本などを沢山読んだとしても、いかに正解に出会っても、自分の本心が納得できない事には、どうしょうも無い問題と言えます。 そういう事で貴方に何も言う事は出来ませんが、参考になるとするものが有るとするなら、人間の本心を掘り起こして、自分の中に答えがあるという事に、昔から取り組んできたものが在ります。自分の中の本当の自分を見つけると言う取り組みの事です。世界の中で日本にしか存在しなくなったものですが、その中にこそ、今世界中で求めているものが存在していると思います。 生き甲斐の源は自分の心の中にこそ在る筈です。生きる意味を『問う』ている者は、自分の中の『自分自身』と言う事が出来ます。その答え自身がその答えを『求めさせています』鈴木大拙博士の書いたものを理解できた時に、貴方は自分で答えを出せるはずと思う者です。

  • IXTYS
  • ベストアンサー率30% (965/3197)
回答No.14

こんにちは。 #8の再入場です。  否定的なコメントが少なくないようですね。 しかし、私には質問者さまの意とすることが良く理解出来ます。それはとても大切なことだからです。 旧約聖書の伝道者の書というところに次のことばがあります。 『神は永遠を思う心を人に与えられる。』(3章11節) どんなに忙しい人でも、夜床に就いた時、真夜中にふと目を覚ました時などに『永遠』、『いのち』、『死』といった思いが心を過ぎる瞬間があるものです。  その思いを与えて下さったのは神様だよ、と聖書は教えているんです。  『そんなことを考えるのは暇人のやることだよ。くだらない。』  私の父もそう言いました。 やがて、年を取り不治の病に見舞われ、最期の時を迎えました。 或る日の明け方、『おにいちゃーん、こわいよう。こわいよう。』 ずっと大声で叫び続ける父の声にみんなびっくりして飛び起きました。  『おとうさん、死ぬのが恐いの?』と私。 『うん、』とこっくり。 そこにいるのは88才の老人ではなく、6才の男の子でした。  あなたは決して暇人でもなければ、くだらないことを考えている馬鹿でもありません。 全ての人がいつか必ず対峙しなければならない最大の問題なのですから。 そしてこの問題の出題者は神様だと聖書は言っています。 

回答No.13

私も若くて時間を持て余していた頃、そのような事を考えました 主婦ですが、日々の生活と子育てと、家計のやりくりに追われると正直考えてる余裕もありません 明日の糧に困れば、考えなくなるのではないでしょうか? 例えばユニセフに全財産寄付をして、エチオピア難民キャンプで暮らせば、考えなくなると思います 今は、次の仕事のシフトで如何に都合の良い時間帯に入れてもらうように主任を動かすか、仕事場の仲間でしのぎを削ってます そうしないと子供の都合に合わせられないからです 人生とは、現実に真面目に向き合う人にのみ理解できるものですよ

  • ivviv
  • ベストアンサー率22% (2/9)
回答No.12

生きる意味を探すために私は生きています。 …っていう言葉をどこかで見たことがあります← 私はべつに魂の成長とか次世代の宇宙とか そんなんどーでもいいと思ってます。 問題は自分が死ぬときに良い気分で死ねるかってことじゃないんでしょうか…。 私はまだ人生経験浅いので分かりませんけれども。 自分が楽しいと思うことをやっていても頭ではむなしいというときは 誰か人のために何かをするといいんじゃないですか? プレゼントかってあげたり手紙書いたり。 相手の喜ぶ顔を見るっていうのもなかなか満たされると思います。 なんて。 …多分何年かあとにはこのむなしさも良い思い出になってるんじゃないでしょうか。

回答No.11

>永遠の生命を得るためだとか魂の成長だとか次世代の宇宙を作るためだとか言われてますが、そんなことを認識することは不可能です。 と言われているのに、大いに同調します。 世の中には怪しい、達成できるのかどうか分からない、曖昧なことを生きている目的と言っているものが多いのではと感じます。 そんな、生きていると時にハッキリしないもののために生きているとは思いたくありません。 私は仏教の勉強をしていますが、そこでは、はっきりと分かりやすく教えられていました。 考えを聞きたいとのことでしたので、よく勉強しているHPを紹介します。

参考URL:
http://jns3.netfarm.ne.jp/~ac206277/4ae5c1fa/i/irohamokuji.htm
回答No.10

僕も、大学時代には色々理想的なことを考えて、 社会に出てギャップに悩み、海外ボランティアに 逃避したりしながら、自分なりの結論を得ました。 ご参考になれば幸いです。 物質に「目的」はありません。 しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。 「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。 (あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする) 一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。 生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。 「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。 であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。 生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。 しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう? 人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。 原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。 お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。 本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。 要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。 (「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)