• 締切済み

繰り返される生き死にの悲しみ、苦しみ、怒り

「赤ちゃんが産まれた、おめでたい」。子供が生まれると皆そう言います。 しかし、本当におめでたい事でしょうか? この世に産み落とされた赤ちゃんは、人生というもう生き地獄のような道を約80年間歩まねばならないんです。 僕自身、「なんで僕を産んだんだ!」と親を恨んだ事が何百回もあります。 この80年にも渡る罰ゲームを味わわされて、親を恨めば「親不孝」。自殺することも許されない。 僕という精子を膣に入れたのはさぞ気持ち良かったでしょうが、産まれさせられた方はたまったもんじゃありません。 僕は思ってます。この世なんか無けりゃよかったのに。 辛い事があるからこそ喜びがあるんだよと仰る方に言いたいです。この世には10の喜びと100の苦しみがある。 喜びも苦しみも両方無ければどんなに良かった事か。

みんなの回答

回答No.16

あなたが100の苦しみがあるというなら自分のその100の苦しみを 文字に表して見てください  そんなにないと思いますよ それでも有ったのなら1000の喜びを探して見てください どんなに小さくてもいい 昼ご飯が美味しかった、空が綺麗だった、信号が青だった きっと喜びは苦しみより多いはずです

john_and_paul
質問者

お礼

挙げてもいいですが苦の多さにびっくりなさるかもしれませんよ。

noname#156094
noname#156094
回答No.15

失礼ながら 愚痴をぶちまけて、少しは気が晴れたのでしょうか? まだ晴れなければ、もっとぶちまけたらいいです。 それでも・・・ 親は親です。 生んで育ててくれた親です。 また、この世に生まれてきた責任は親だけにあると一方的に考えるのは間違いです。 人は縁があって生まれてくるのではないでしょうか。 その縁とは、直接的には自らがこの世の生を望んだ業であり、間接的にはあなたを我が子として生んだ親の業です。 業から見れば、親とは子の生の間接的な責任をもつものに過ぎないものです。 自分はこのような生を望んだのではない、というのは それは自らの業を自覚できない無知から生じた愚痴であり、間接的な責任を負う親に向かって言う言葉ではないと思います。 愚痴をこぼすな、とは言いません。 むしろ声が枯れるまで、気が済むまで大声で叫んだらいいと思います。 ただし親に向かっては言わないでください。 間接的な責任を問い詰めても、お互いに救われないはずだからです。 この人が、この世に生まれたいという我儘を叶えてくれた人だった・・・と思ってください。 親とはそういうものです。

  • gadovoa
  • ベストアンサー率28% (835/2909)
回答No.14

そうなんです。 この世は罰ゲーム、地獄なんです。 分かりますか?あの世は楽で怠惰になるから、 この世に送りだされ、修行を積むのです。 修行から逃げて楽になりたいと自殺しても、 直ぐにこの世に送り出されます。 この世は地獄なんです。 そして生まれたことに後悔すると、 次回もまた生まれたことに後悔します。 それが業というものなんです。 あなたがこの世に生まれてよかったと感じることができてら、 再び生まれ変わった時、その業は背負わなくてもいいんです。 心配しなくてもこの世で人一倍生きた人は、 直ぐにあの世につれ戻されます。 ジェームスディーン、セナ、ブルースリー、戦場で戦って命を落とした名も無き兵士など。

  • try50
  • ベストアンサー率20% (65/324)
回答No.13

生きるということを、どのようにとらえるかは個人の考え方しだいですが。 死ぬことによって、あなたの世界(私の世界も同様ですが)は遠からず、いずれ無に帰す訳ですから、生きている間くらいは、いきいきとしていた方がいいのではないでしょうか。

noname#150036
noname#150036
回答No.12

回答にはほど遠いですが 原理的なつぶやきなど ひとつふたつ。 子は親が作るものではない。親が粘土をこねるように子の手足を 作った試しは ニ千年の間 一度たりともないのだ。 では何が子を作ったのか。 子を作ったのは この現象世界である。この現象世界が子の形を 決め 親の肉体を通じて作ったのである。 すなわち 親は ただの通過点に過ぎないのだから親は不本意に 子を産まされただけなのである。 子が親に似て見えるのは眼の錯覚である。子の成長に従い 人と しての性質を決めるのもこの現象世界のなせるわざである。 この現象世界のものは すべて対発生している。楽の子が産まれ れば同時に苦の子がうまれ 富める子が産まれれば同時に貧しき 子が産まれる。 この世界に産まれたからには 世界が決めた事に逆らう事はでき ないのだから 苦に産まれたならば 全力で苦しまなければなら ないのだ。決して手抜きなどしてはいけない。手抜きをすれば 現象世界から見放され 生きてもいないし死んでもいない ただ 悩むことしかできない亡霊にされてしまうのだ。 子が産まれて いったい何処に めでたいことがあろうか。 むしろ親は 自分たちが亡霊として扱われなかったことに 感謝 すべきであろう。 その言葉は めでたいではなく ”ありがたい”である。

noname#180065
noname#180065
回答No.11

賛成が欲しいのであれば、やなせたかしさんは そう感じてアンパンマンのマーチを作って子供に歌わせたのだと思います。 http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/so/anpan/anpanmannomarch.html

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.10

>この世には10の喜びと100の苦しみがある。 ○それで合っているのですよ。生まれるということはそれ自身、苦しみを背負って生きるということなのです。人生が楽しいと思うのは勝手ですが本当は人生という試練なんですね。みんな厳しい人生という問題集をもって生まれてきているのですから、「この世には10の喜びと100の苦しみがある。」のが普通なのです。人はそれぞれの能力に違いがありますので背負える苦しみも違っていますが、背負える程度の苦しみが待っているのですね。その苦しみを通じて自身を磨けということのためだけに苦があるのです。 これは、お釈迦様が王宮を出て出家する時の動機でもあるのですね。この世は苦に満ちているそのわけが知りたいために王宮を捨て王子の地位を捨て出家したのですね。 >喜びも苦しみも両方無ければどんなに良かった事か。 ○ お釈迦様が菩提樹の元で悟られたことは、「人間は本来、喜びも苦しみも両方無い霊的世界の住人であり不死でもある、でもそれでは霊的進歩がないので、地上に肉体を持っていろんな試練を受けることでより強くなって欲しい、より経験を積んで戻ってきて欲しい、という目的でのみ苦の人生がある。」ということだったのですね。更に付け加えれば、そのような人霊を創り、修行・試練システムを創られたのもご本人の本体であったという悟りだったのですね。 このように誰しも苦の人生、人生の問題集からは逃げられませんが、それはあくまでテスト期間だけのことなのです。わずか80年ほどのテスト期間なのですから、いやな問題にも果敢に挑戦して解いてください。その実績と経験を持ち帰って懐かしむのも楽しいことかもしれませんよ。

  • yuimakozi
  • ベストアンサー率22% (25/110)
回答No.9

あなたの質問は、質問になっていないのでどのように回答したものかと考えたのですが。  まず、言いたいのはあなたの考えは正しいですよ。  ずっと昔から人間はその様に考えてきたのです。  約二千五百年前にこの世に存在していたお釈迦様もそのような悩みから出家し、修行の生活に入ったのです。  そして、悟りを得て仏陀となりました。つまり、苦しみから解放されたのです。  享楽的に生きている人間が多い中、「一切皆苦」を悟ることは尊いことだと思います。  

john_and_paul
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます! 賛成して頂いて本当にうれしいです1

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.8

修行者たちよ ここに4つの真実がある 苦と苦の起源と苦の滅と苦の滅に致る道とである。  苦とは何か 生も苦、老いも苦、死も苦、であり。 愛する者と離別するのも苦なら好まぬ者と結合するのも苦である。  苦の起源とは何か 喜びと貪りとを伴い、あれこれ執著する愛着である。  苦の滅とは何か 愛着の心を残り無く捨て去る事である。  苦の滅に至る道とは何か 八っの正しい道 1、正しい思惟 2、正しい見解 3、正しい言葉 4、正しい行為 5正しい生活 6、正しい努力 7,正しい思念 そして8、正しい瞑想 である。 これが かって修行を共にした5人のバラモン修行者を前に釈迦が語った 最初の説法、だそうです「世界の歴史」という本からの話しですが 漢訳仏教では、苦集滅道、とか、四諦の法門、とか、八正道、 とか言われ。仏教の入門とされているようです。 あなたが悩んだり苦しんだりするのは、 1っは、苦しんでいるのはあなたの心が苦しんでいるだけ。  その苦しんでいるのは、縁によりて想起している、常に変わる、  実体としては何処にも存在しない、心、であり。  心を捨てる、気にしなければ、なんでもない事なのです。 若い頃の私の落書きでは  人の心など別に美しいものでも複雑なものでもない。自分の心を 美しいなどと思える人間はいない。見えない心まで化粧しようとす (人の目を気にする)るのは、阿呆? もう一つは、釈迦が言うように 正しい思惟=考え方=理法 を会得していないから。 そしてその理法に導かれた見解を自らの認識とせず。人の意見や知識 から納得出来るものを捜そう、聞こう、とするから、余計に迷う というような事になるのです。 生が苦である、と気づく、あなたの苦を、解消、解決出来る回答は 知識を披露する回答者から得られる事はないのです。 あなたが、正しい生活、正しい努力を続け、正しい思念(自己の構築) を求めるしかないのでは。

noname#181697
noname#181697
回答No.7

この世が罰ゲームに思えるのは、 アナタが弱いからだよ。 自分が大好きで、難しい事を考えたりもせず、 数と力でブイブイゆわせている連中にとっては、 人生は楽しいゲームなんだよ。 アナタが弱いから、 苦しみの比率が上がるんだよ。 無けりゃいいと思っているのは、 この世がアナタにとって都合が悪いからじゃない? 強者として、勝者として振舞えないから、 悲しみ、苦しみ、怒ってるんじゃない? 生まれてこなければ苦しむ事も無いって事は、 要するに何もしたく無いって事じゃない? でもそれって、マジで無気力な話だし、 タダの逃避に過ぎないって事に気付こうよ。 酸いも甘いも噛み分けるには、 それなりにタフでなければならんのよ。 80年間、ただ苦しみ抜くだけで終わるのか、 それとも自らの可能性と限界に挑戦してみるか、 はたまた自分が本当にしたい事を見出そうとするか。 ダメ元でやってみればいいんじゃない? 理由はともかく、 生きちまってるものは、 仕方ないっしょ。 文句や泣き言を言ってる暇があるなら、 今、出来る事をしようよ。

john_and_paul
質問者

お礼

人生楽しそうでなりよりです。 ww

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