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なぜ 偽善がこの世に生じてしまうのか?
偽りでない善は存在しないという論理でもかまいません。 私は 嘘偽りの無い他人へ幸せを願う真心は存在すると思っていて そこからの質問であるわけですが、そのこと自体への反論も その? に通じるかと思いますので そのへんを頭をひねられてみてもかまいません^^。 偽善生成の理由に関することならなんでも 自在に書いてほしいです。 よろしくおねがいします。
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No.8の補足とお礼ありがとうございます。 「正しい嘘を認めるからです。」 指摘すると高圧電流を発生させる検査器です。 指摘によって壊れるのは定義を必要とする命題たちです。 この命題は壊れません。 自滅的な指摘を呼ぶための沈黙です。沈黙の方が効果的だと思ったからです。その指摘を自分の議論に向けてみて下さい。 偽善問題は「認める」かどうかの問題にしかなりません。確信犯的に嘘を言うかどうかということです。その認定は胸に手を当ててするのです。 一般法則は手放しで言える部分のみ!関係性を語ります。一般論を見つける議論とは、個別的である性質を議論から除外する議論です。 騙された思って私の一言を胸に手を当てたつもりで考えてみて下さい。 結局、私の沈黙が崩されたのです(笑)しかし補足質問は納得するまでされて下さい。いたずらに返すよりは考えるべきです。目的は交流ではないのですから。調べたり、それをまとめたり、考え直したりする時間を奪われます。 極論すれば科学も嘘です。数学なんて鼻から空です。ただし壊されない実用命題になりえるのです。極論すれば役に立つ空論なのです。哲学は役に立つ理論のない論外です。 知識は真摯な道具でなければなりません。知識(概念)が、道具ではない、主体だとなると、宗教になって、一巻の終わりです。 私は宗教を信じません。科学も信じません。道具を神様にすると切れ味が鈍ります。 科学の善用には「正しい嘘を認めないことです」
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- miko-desi
- ベストアンサー率19% (69/352)
調べれば調べるほど辻褄が合わない南京大逆説?ですが、 私はアジア旅行中にタイとシンガポールでは綺麗な日本語を話す老人に逢ったことがあり、 日本人が好きといって、日本人というだけでよくして貰ったことがあります。 インドでも現地の英雄はガンジーではなく二人のボース スバス・チャンドラ・ボースhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B9とボ ース・ビハーリー・ボースhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B9 と日本軍人の藤原岩市さんです。 日本人は昔から日記や手紙をよく書いていたので出版の資料として沢山残っていて 当時の外国人記者も負傷者や難民が戦死したことは認めていますが、 日本軍による大殺戮が行われた事実はないとあります。 子供は「未来表象能力=>未来からの圧力っていいですね」 などが大人より優れているかもしれません。 思考回路には自分で空想や工夫することが情報源になります。 しかし、危機感を植え付けたり、無用な感情論に終始するだけの皮相な情報 で思考が埋め尽くされると、 真理など追いやられ意図的でないのに勝手に思が閉じられるようになります。 好物ばかりを摂取しては病む因子も増します。 体と心に必要なもの、それは多くを必要にもせず、 必ずしも名物とされたり、必要ですよと、仕向けられていないかもしれない。 「善意が勝つべき」は偏見を含んだ発想です。何かと関連つけるのも人の性。 喜んで負けていく善意があったら、だからこそ、 その儚さに美しいという実相を抱いてしまう人のも人の性。 偽善が生まれるのは、大好物(同情や親切であれ)が過剰に定着してしまい、 同類である他の生活者に必要なものまでを脅かすからでもあるんじゃないかと思います。 朝から取り急ぎ、どうしても書きたくて、書きましたのでそっけなく お礼が遅れました。 こちらこそ内容をよく咀嚼してくださり、私こそ刺激を多く頂けました。 ありがとうございます。
お礼
再度ありがとうございます。 藤原岩市さんという軍人は、 当時英国からの独立を願っていたボースたちとインドの民衆の強い味方となるインド軍を創設した人として知られいるようですね。 そうした 外国人からむしろ慕われいた軍人や また国際関係も戦争にもかかわらずあったわけですが、 また そのへんの日本人の日記その他の史料とかは かなり想像できますが、 私が聞いた中国の南京でのお話は、 とても記録など残せるゆとりを失ってしまった日本兵たちの心の内のお話でした。 過去の罪自体、それは未来への肥やしにこそなるべきところ 恨みつらみを出来うる限り 前に向いて建設的に考えるべきが未来の子どもたちのためですし、 まさに兵隊さんたち自身に罪は無いところが大きいのが戦争ですが、 戦争の無い世界も それを願うだけでなく その実態を手に入れる一歩一歩の、未来への前進抜きには意味ありませんよね。 「未来表象能力」 これも 教育者でもあるアランの言葉なのでしょうか? 確かに子どもたちには そのへんの空想や工夫を生かす力の可能性(好奇心などの)が 宿っていると思いますし、 またそれが》情報源となります《というご指摘には深い示唆を感じます。 感性の研究者であり教育者でもあったアランの思想の片鱗なのでしょう。 しかし、今の教育は その好奇心などの芽を摘み取ってしまうところがあります。 そここそは、感性教育や その土台となる実力教育の大改革が今の情報社会でこそ 求められるところ、 さきほどの 情報源のお話ではないのですが、 私は 未来の教育は 子どもたちが世界をむしろ写真などを通して旅をしてその藝術や記録の世界に親しみ、考古学などのフィールドワークのある部分は子どもたち自身が 課題学習で 自ら考えならが開拓しても行く そんな教育の世界、 今からではイメージも難しいような^^な大きな変革が必要と思っています。 そうすれが みずからむしろ大人には無い豊かな情報源ともなり、 好奇心も失われず、 自ら考える力もつき、 すばらしい大人になってゆけるかと思うのです。 学校では歴史という言葉での史料の世界の暗記の世界を学習しますが 実際にもっと大きな人類史の観点、土壌(フィールド)に子どもたち自身が立って、 その上で 自ら歴史の誤りがどこにあったかを 子どもたち自身が考える学習であれば、 南京などの戦争史とかも 未来への創造の力にのみ変えてゆけるでしょう。 》「善意が勝つべき」は偏見を含んだ発想です。《 というところ以下の文は なるほど たぶん、かなりとり急いで、でも》どうしても書きたくて《書いた文という感じはしますが^^、 まさにミコさんらしい、 本質を突いていると思います。 海外を旅しておられるスケールの大きさの中での思索と感じます。 大きなスケールの場ではとくに、 腹芸というか、 善悪を超えた地点も把握しておかないと、 物事の正しい選択の《見通し》が見えてこないときもありますね。 そのへんのところを こちらこそ 刺激を受けるご回答です。 これは、 できれば、未来の子どもたちの教育を 大きく変えてゆきたいとかいうスケールの夢を持っている者にとってはとても参考になるご回答でした。 いよいよ アランを 私も勉強したくなりました。 ありがとうございました。
- kuruizaki1go
- ベストアンサー率23% (4/17)
偽善にもいろいろあります。 卑怯な利得を隠すためイデオロギーで武装したりします。 私の知っている人はラディカル左翼として理論武装し、労働組合の幹部となって、大勢の組合員から組合費を徴収し、使用者側と対抗するように見せかけながら、実際は使用者側の手先になって、労働者を締め付けました。 そして、定年延長までして貰いました。 労働者を踏み台にして出世するという恥を知らない、行為ですが、本人は組合員の為に長年働いたと思っています。 この人は決して賢くない人なのですので、使用者のおだてに乗ったのでしょうね。 こんなひどい偽善者もいるということです。
お礼
ありがとうございます。 また 新たな実際の 例示をありがとうございます。 そちらの書かれていますように、 その人は まさに》けして賢くない人《だから、 使用者のおだてに乗ってしまった ひどいけれども 悪賢いともいえない偽善者なのでしょう。 そのへん スターリンによって始まってしまった粛清の歴史は悲しいですよね。 大勢の民衆が 今度こそいい世の中が来るとも思っていただろうし、 心の面でもみんなが愛し合えるようになるとさへ思っていた人はたくさんいたと思います。 そんな人たちが粛清の事実を知ってしまったときには、 どんなに慙愧に耐えなかったことかと思います。 でも、 大勢の人が みんな結構こんな感じで弱いところを持っているのですよね。 一言で言うなら、弱さ これが偽善生成の根本原因なのかもしれません。 スターリンを責める前に みんなが自分の胸に手を当てて さらに強くなってゆくべき意志を持つべき時なのでしょう。 文の結語に 》こんなひどい偽善者もいるということです《 と語りつつ けしてその人を非難しているのでもない 悲しみのあるユーモア(ユーモレスク)ならぬ、悲しみのあるエスプリ回答、 また ここで お心を学ばせていただきました。 ありがとうございます。
- stm003
- ベストアンサー率29% (46/154)
まず偽善という物を明確に定義しなければなりません。 他人の幸福を自身の幸福のように感じる。 この感情を元に行動を起こしたのなら、それは偽善でしょうか? 残念な事に、ネットなどの一部ではボランティアの方々を上記のような動機の行動を『自信の満足感・充足感の為に行っている偽善だ』と非難する声もあります。 しかし、私はマザーテレサであろうとマハトマ・ガンジーであろうと上記のような理由で善行を行ったと考えています。 彼等にとっては人を使役することや大金を稼いだり欲望のままに生活することよりも、彼等の周りにいる人たちが幸福に生きていることこそ、自身の幸福であり喜びでした。 これは一つの角度から見れば『純粋な善行』であり、また別の角度から見れば『自己満足のための偽善』 でもあります。 うろ覚えで申し訳ないのですが、確か芥川龍之介が『善悪は美醜にその基準をゆだねている』という風なことを言っています。 つまり、その行動が美しければそれは善であり、醜ければ悪なのだと言う事です。 これを基にするなら善悪は客観的にしか判断されないものであり、 絶対的な善悪は存在しないということかもしれません。 基本の善悪が客観的な判断からしか決められないのなら、偽善もまた個人個人の客観的な判断からしか決められないものではないのでしょうか。 万人が納得する『善』も『悪』も『偽善』も存在しないと思います。
お礼
ありがとうございます。 もしかしたら 苦悩、人間求道の苦悩とともにある筆なのかもしれません。 また すばらしい豊かな御回答をいただけました。 今回の質問への御回答は みなさん 熱いです。 まさに 人間は人間なのですね。 明確な定義というのではないのですが、 私自身は 偽善を必ずしも否定していません。 それを乗り越えるべき地もあるという主張もあるのですが、 自我についての考え方が 最初から太陽の下にくっきりと明るい石ころや卵のように見えるのです。 希望は そのまま、 それを分析するだけでいいという感じで あまり苦悩の闇を感じないですむ考えです。 しかし、マザーテレサとか マハトマ・ガンジーのような人は メチャクチャ無心のようでいて、苦悩を乗り越えて善の無心たどりついた人のように見えます。 誰かを助けたところで もっと苦しんでいる人たちがまだいつづけている?! 神こそ 悪魔だ! と泣いてもがき苦しんだかもしれないような人たちに感じます。 洞穴の真っ暗闇の中を歩き続け とうとう絶望までして、たおれたときに そこから それでも生きている? の?に存在への沈黙の中の一点の光を見出してまた歩き始めたような そんな感じの聖者たちです。 わたしも似たようなことはあったのですけど それ自体そんな辛らつなものではないですし、 もっと最初から 気楽な感じの考え、 太陽の下の考えです。 近い内に自我の構造についての 私の考えからの質問をするかもしれませんので、 是非その時には また お考えとかお聞かせください。 よろしくお願いいたします。 ありがとうございました。
- thegenus
- ベストアンサー率49% (330/673)
正しい嘘を認めるからです。
お礼
ありがとうございます。 アイロニー あれ? 今度忘れしてしまいましたが、 ともかくエスプリの効いた 一言であることを感じます。 できれば、 「正しい嘘」について、 説明していただけると さらにいいとも思いますが、 でも この名エスプり、 説明すると その頓知の深さが壊れそうですね。 Ano7の方(かた)の御回答が雄弁の王様なら、 こちらは沈黙の騎士なのかもしれません^^。 ならば ここも 沈思黙考させていただきましょう。 神話 のような嘘でなく、 生活の真実を写した虚構さへ、 真実の生活そのものには … おっと あとは 私も沈黙させていただきます。 なんか ほんとに涙がでてきます。 みなさん、すばらしいです。 ありがとうございました。
補足
では、 けして 嘘はつかない科学については、 その未来像をthegenusさんは どう思いますか? もしよろしければ、 科学はどうすれば善となりえるか そのへんのご見解をおよせください。
こんにちは。 善か悪かという見方は「誰にとって?」という視点抜きには 意味を成しませんよね。 誰かの利益(精神的充足も)に与するものは、その人には 感謝してもらえますが、その人にとっては善、ということでしか ありません。 利害が対立する者、例えば感謝している人の敵から見れば 当然敵が喜ぶ行為は、悪としてマイナス感情の対象になり得る。 小さなスケールでの善悪は単純に立場の問題に集約されます。 善意が一人二人の少数に対して行われている間、その動機は 概ね余り深く考えられずに単純な好意として短絡的に行われます。 だから、善意、はあくまでも自分の利益を主な目的とするので なくて、誰かを幸せにしたい、誰かの役に立ちたいという、 素直な心情に対しての言葉です。 文字通り、善の意、です。 純粋な善意、というものは無思慮と表裏一体で心の中に ぽっ、と顕れます。 その段階では偽善が生じる余地は一見無いように思えます。 腹黒い人が偽善的な思考をすれば、その時点で純粋な善意に なりえないからです。 現実には、多くの人と善悪の観念が全く相容れない異質な 倫理観念を持つ、いわゆるサイコパスが存在するため 彼らが思うところの善意、というものは時に危険な倒錯を含み ますので、ここでは除外します。 「善意=人の痛みを感じ、人の苦しみを取り除こうと思う心」、 その基本が壊れてしまいますから。 さて、一度善意が行為となると、それは「善行か否か」という 別な評価を受けることになります。 良かれと思ってしたことが裏目に出る、という短絡的な行動で 無思慮な判断が相手にとって害になった、ということもあります。 善意は心の中の純粋な形では、その存在は証明できません。 言葉や表情から良心的であることを伺うことは出来ますが、 具体的に善意を他人が知るには、善行を通じて、或いは善意の 発言を聞いて善意と受け取るしかありません。 ですから、「善行」に対して誰かがそれを善意によるものと 解釈出来ない!と判断した場合、偽善という指摘が生まれます。 ただし、単なるコンピュータソフトが善悪など感じないように、 理性的な思考には、偽善を指摘するという「感情的な拒否感」は ありません。 純粋な論理的な考えは、その行いが、それを取り巻く世界で どのような意味と価値を持つのかを数値化し、計算し、動きとして 捉えるだけだからです。 様々なパラメータが変化する限り、 論理的な思考の結果も柔らかく変化することになります。 「偽善」とは「善悪」という「快・不快の超拡大解釈」の中で 一見理性的な批判・否定として振舞われるのですが、根本的に 感情的な快感と不快感の二極に他人の行いを分類することに 他なりません。 なので、他人の意見に耳を傾けることも、沈思黙考することも なく、どうしても独善的で断定的なものになってしまいます。 善行は基本的に利益を受ける者との対話によって行為の内容を 決めるものではなく、利益を与えようとする者の一方的な考えで 行われるものです。 それゆえ、一方的です。 それが時々独善的な無思慮の善意となり、裏目に出ることに なるわけです。 感情の発露であり、短絡的で無思慮、一方的で独善的。 単純に理屈だけで考えていくと、偽善と指弾する心と、善意は 正反対の心情でありながら共通する点をいくつも持っている事に 気づきます。 他人の善行を偽善と指弾する人の多くは、非常に苛烈です。 徹底的に相手の人格を否定せずにはいられない。 そこには、自分と同じように様々な人生を重ねて築かれた 自分以外の人格を、冷静に深く理解しようとする思慮は無く、 相手を、決して自分と並び立たない水と油のように拒絶する心理 ・・・盲目的な敵愾心、恐らくは心の底に滓のようによどむ、 自分についての自信のなさ、自分が取るに足りない存在だと 感じさせられてしまうことへの強い恐怖・・・存在不安に根ざす ヒステリー心理が強く伺えます。 偽善、という言葉が意味するものは否定であり倒置です。 ありていに言えば、他人への無償の善意と言いながら、 自らに利する下心が動機だと決め付けることに他なりません。 皆、騙されるな!そいつは社会に有益な価値ある人間じゃない! 私は今は手探りで、存在感を示せずにいるが、少なくとも 自分はそいつなんかと違って真実という絶対的な価値がある 人間だと、確信しているんだ! などと言葉で書けば痛々しい限りですが、当たらずとも遠からずに 思える人を沢山目にします。 例えば、乙女の恋心は美しいものですが、恋敵を窮地に陥らせる 未必の故意を隠した善意ならば、それは恋の戦いに属するものです。 彼女達にとっては時に弱肉強食の生存競争となる恋愛の一部で しかありません。 でも、女性心理に懐疑的な人の目には偽善的に映るでしょう。 彼女達が闘うとき、善悪や偽善という観念は単なる武器に 過ぎない場合があります。 恋愛を成就させるためなら恋敵を人間的に潰してしまうことさえ 厭わない・・・生物としてはごく普通の生存活動の一環とも 言えるのです。 各々の人が、自分の価値観や行動原理に従って行う行為が 完全無欠の利他行為であることは、実は考え難いのです。 何故なら、利他行為を善とするポリシーを守る、という自分だけで 完結している価値観に従った行動だからです。 それが善であるのか悪であるのか、すべきなのかせざるべきかは シェークスピアならずとも煩悶の中の自問自答に閉じ込められて 容易に答えはでないでしょう。 つまり、誰かに自身の偽善の有無を問い詰められた時に 「純粋な善意」を誰に対しても完全に証明し得るかについては 極めて困難だと言わざるを得ないのです。 (無論、人の価値観ばかりを追いかけていても善悪の判断は 付きませんが) 他者の利益を純粋に願って為される善行も、その行為だけを 取り出してみれば誰かにとっての悪行となりうる。 ゴミを拾っただけでも、ゴミ拾いを生業にしているホームレスから すれば、ショバを荒らされたことにもなるわけです。 「善」の反意は「悪」であり、行為をなそうとする心情そのものは 明快な二極化に分類し得るでしょうから、純粋な善意というものは 当然存在します。 しかし、それは行為にならない限りは社会では 不可視の虚像とも言えてしまう。 しかし、行為そのものの是非を問うた場合は、先に述べたように 視点を変えれば姿を変える、立体的に社会の中に存在する、 実像として評価の対象になります。 所で、それを「悪」とする対立する他者がとても沢山いたならば 特定の個人なり団体という少数にのみ利する善意は反社会的な 行為となりうるケースも当然起きてきます。 癒着や賄賂、いじめや暴力も、極めて少ない特定の個人・集団に とっては善とされますが、当然社会的には罪悪とされます。 例えば、暴力団組織においてはヘタを打った組員がエンコを 詰められたりコンクリ詰めにされて海に投棄されるのは、 彼らの組織利益を守るためなので「当然」とされます。 すなわち、善悪を規定するための利と害、それ自体が様々な 綱引きや条件付き交渉、妥協やネゴシエーションの産物なので 非常に流動的に変化するものになってしまいます。 これをスケールアップして考えるにつれて、本質的に異なる 疑問が浮かび上がってきます。 ●その善行が少数の人々に害となり、多数の人々の利益に 寄与する場合はどうか?(例えば成田空港の土地問題) ●逆に、その善行が多数の人々に害となり、少数の人々の 利益になる場合はどうか。(例えばタバコ販売) ●長期的な理想や展望に従って、現実的な害悪を将来的な 投資、と考えて進められる政治的行動はどうか。 (ダム・道路の公共事業投資問題から果ては戦争まで) 偽善、という言葉を常識範囲を超えて考えれば、善として 民衆に認知されるように仕向けられ、民主主義という多数派 システムで目的を達成するために周到に用意された様々な 戦術の一つに過ぎない、という解釈が成り立ちます。 冒頭で述べましたが偽善だと批判したい気持ちは、純粋な 「善意」と同じく極めてプライベートな感情です。 独善的で一方的で短絡的で無思慮だから。 他者の善行が自分の存在を脅かすように錯覚するのは、 自分の中で自分が「善」ではない、という根深い不安感、 自分が偽善的であるという自覚から生まれます。 それが時には、自死を選ぶような絶望として心を満たす ことも、理解出来ないことではありません。 その意味で、自分が苦しい人は、誰かを偽善者と批判せずに いられないのです。 しかし、もう一方で悲惨な境遇にある人に同情し、 人の尊厳を踏みにじる理不尽な暴力に憤慨して、 つまり昔風に言えば義に感じて行動する検察官の情熱も この「独善的で一方的で短絡的で無思慮」な正義感から 発露するものでもあります。 決して人間賛歌をするつもりではなかったのですが、 状況を観察しながら次々に答えを変えていく機械的な 「純粋論理思考」だけでは人間の動機になりえない。 その意味で、偽善と思う心もまた、諸刃の剣として 自分を、他人を動かしていく動機の元となるものだ、と 野良猫は思慮しているところなのです。 動機は意思の源となるものです。 偽善、というキーワードは、人のアイデンティティに 深く根付いているかのようです。 ごめんなさい。 指が止まらなくて・・・。
お礼
ありがとうございます。 フレキシブルな 指が止まらないほどのスピード思考^^、 その通り としかいいよう無いですし^^、 このような人が政治家になってくれたら、という感想だけにしておきます^^。 私は 政党政治には反対です。 政党政治でなくても すぐれたスピードと 相手の長所を すばやく読み取り 議論をリードしてしまう議長が 豊かな結論をすばやく引き出しつづけてゆければ、 そういうい議長がいれば、 そのネット民主会議政治は けして衆愚政治にはならないと思えているからです。 私は 彼方のように頭は早くないですが^^、 もしこれが間違いないなら 彼方が是非いつか その議長になってください。 キーワードは 偽善を包みこむだけでなく 人を認める 人を知る、 そして尊敬できているか。 というあたりですね。 最高です! ありがとうございました。 勇気付けられます。
- miko-desi
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人間を産むものは人間であるはず、 しかし「人間性を育むのは社会」と定義して差し支えないもので、 人間関係とは個人と社会の共生関係です。 人間らしい理性を見出せるのは個人の内からであっても(原因があって結果となる因果率:エントロピーの法則)、 人間の卑劣さや野蛮なことは社会の中から出てくる(未来が今を決定させる逆因果律)。 と、人間として禁じていることを社会は強要することもありうる。とアランはいいます。 弱い個人が弱い他者や社会を助けては共生どころか共倒れです。 組織化した社会は個人に安らかな眠りを保証するために機能しなければならないはずが 社会が弱くなくても不信なものであったら共倒れというより「共食い」されてしまう。 偽善とは「わざとデコボコで不自由な道を作っておいて、自由に行き来できない人に暖かい手を差し出す」 という手の込みようであるかも。 社会の都合と、個人の理想が共生し、幸せが一致するならいいのですが。
お礼
ありがとうございます。 この質問は 急いで書いたよくない文なのに、 求めている以上のすばらしい豊かな内容の御回答が多くて驚いています。 そちらの文章は 内容が豊かで それを自然体で書かれているにもかかわらず全体がまとまっています。 私は 哲学の世界は詳しくありませんが いい哲学文となっているのではないでしょうか。 》人間を産むものは人間であるはず《 女性としての感性も含んだ豊かさを感じさせて 文はスタートさせられています。 》しかし「人間性を育むのは社会」と定義して差し支えないもので、 人間関係とは個人と社会の共生関係です《 この名文で言われていること、 ここが私も大事だと思います。 ここで、 社会全体の大きな教育の世界が示唆されて 次の文へと進んでいるわけです。 次の 段落の文は、 最初の段から アランの学習から得たものですか? しっかり解釈されていることが解ります。 アランは 詳しくはまだ知りませんが まさに教育者でもあり 哲学者でもあり、 何よりも感性の哲学を通して それまでの西洋哲学を全面的に総合的に改革しようとした方だと思います。 おそらく 情報化社会の今こそ、 私たちが学ぶべき最大の哲学者に一人なのだろうと思います。 そちらのような方が アランを解説してくださったらすばらしいですね。 おっと すみません 時間がなくなってしまいましたので 続きは仕事が終わってから 夕方 補足文の方に書かせていただきます。 内容が豊かな文、 重要な内容ばかりですので、 感想その他長くなります。 ありがとうございました。
補足
》人間らしい理性を見出せるのは個人の内からであっても(原因があって結果となる因果率:エントロピーの法則)、 人間の卑劣さや野蛮なことは社会の中から出てくる(未来が今を決定させる逆因果律)。 と、人間として禁じていることを社会は強要することもありうる。とアランはいいます。《 アランは鋭いですね。 この短い文から 多くを新たに考えさせられます。 直接のアランの文やその訳ではないでしょうから、 これは 少なくとも、miko-desiさんの センスがすぐれていることを意味すると思います。 このアランの部分の 感想は 長くなりすぎてしまいますのでここでは略させていただきます。 しかし 何度読み返しても さらに味わいがある内容、 最後の「人間として禁じていることを社会は強要することもありうる」という そちらの文全体の中でも 要(かなめ)なる部分については、 少し こちらで解釈して解説させていただこうと思います。 解釈というより 感想なのですが、 未来が今を決定させるような事例は、 大きくは不安とか恐怖による意思決定の世界であるわけです。 しかし、このうちの恐怖というのは 大きない意思決定への強制力を持つ時がたしかにあります。 戦争時には 人の神経は 通常では全く考えられない状態になります。 例えば 私が子供の頃 直接そのお話を伺うことができた南京の大虐殺の当事者の方のお話では その方(かた)自身、 足を骨折しながら、何千里も歩いてから ふと休んだ時に気が付いたと言います。 また その方(かた)もその方(かた)の仲間の方(かた)がたも、 最初は 結構田舎の素朴な人たちが多く(たぶん 東北地方の人のように純朴な人が多かったのでしょう)、虫も殺せない人たちばかりだったと言います。 もちろん銃を敵とわかっていても 最初は撃てなかったそうです。 みんな指が うとうとすると 震えてしまったといいいます。 敵を想定して 何度も訓練を重ねてきたにもかかわらず。…。 が、そのうちに仲間が目の前で 弾丸に当たり倒れ死していったりするのを目の当たりにして、 まったく別人となってゆくわけです。 そのへんを 子どもになのに 詳しくいろいろお話してくれたのです。 やがて 南京の大虐殺の現場にて、 自分たちよりはるかに多い捕虜たちが 「ううううう」という 大陸特有の低い声で うなり始めた時、 誰かが飛び出して 捕虜を威嚇し始めた後は もう 味方の全員が 恐怖をおさへることができなくなり、 飛び出していったのです。 女性も子どももみさかいなく、 生き埋めにされてしまった 南京の大虐殺の 事実のお話です。 戦争は 兵隊さんを、非難できるようなものではないです。 しかし、 もう二度とあってはならない世界であることは確かです。 これは極端な例なのですが、 捕虜が うなり始めたからといっても まだ 何も起こってなどいないのです。 自分たちがしてきたことを捕虜たちにヤラレル! その恐怖しかそこにはありません。 しかし これが ありとあらゆる兵隊たちを一瞬にして巻き込んでしまったのです。 私が 今その場にいても、 これは同じだったでしょう。 》人間として禁じていることを社会は強要することもありうる《 大勢の人が関わる社会が これだけの蛮行、野蛮なことをおこなわせてしまった端的な例です。 戦争は確かに極限状況です。 しかしそこから 逆に考えをすすめてゆくと、 まさに 未来が決定する》人間の卑怯さ《についても 様々な事例が思い浮かんできます。 この発想は 考えてみればなるほどと思うのですが、普段は頭に無かったことです。 考える上で 本当に参考になります。 》弱い個人が弱い他者や社会を助けては共生どころか共倒れです《 そうですよね。 ほんとうにそうですよね。 人間は 強くならなければ 少しでも強くならければ、と思います。 不安にも、恐怖にも少しでも打ち勝って、》人間らしい理性《を 少しでも 活かせるように 社会をまた私たち自身を より深く《みつめ》られるようになってゆきましょう。 そうでなければ 》共生どころか共倒れ《 これこそ事例はごまんとあるところですよね。 自ら反省もしなければならないところでもあります。 》組織化した社会は個人に安らかな眠りを保証するために機能しなければならないはずが 社会が弱くなくても不信なものであったら共倒れというより「共食い」されてしまう。《 まさに そうだと思います。 やさしく子どもたちを抱きしめる母親や、子どもたちが 安らかでありますように。 社会全体はそのために機能しなければならないですよね。 》社会が弱くなくても不信なものであったら《 重要なところですよね。 資本主義社会は 大きな力を持ちました。 どれだけ多くの人がその恩恵を受けている部分も大きいか計り知れないものもほんとうにあります。(そこも よく《みつめる》べきです) しかし、こここそが この社会的な大きな力に信頼できないものがあることで、 つまり つまり 偽善があることで、 小さなことのようでいて 心を簡単に捻じ曲げてしまうようなまだ存在しない未来の圧力が》逆因果律《(学者じゃないので、言葉の使い方は間違ってるかもしれませんが 御了承ください。文意、言いたいことは解っていただけると思います)が、 巨大な無意識的 未来創造のための人間らしい理性を鈍らせるのです。 》共倒れというより「共食い」されてしまう。《 これは、いつまでも だましだまされる形の今までの資本主義を超えて行けないと 見えない津波にやがて飲み込まれてしまうとういう感じの、女性らしい直感による、警告ですよね。 》「共食い」《 ほんとうに上手いことを言いますね。 センスがいいです。 》偽善とは「わざとデコボコで不自由な道を作っておいて、自由に行き来できない人に暖かい手を差し出す」 という手の込みようであるかも。《 そうですよね。 今までの資本主義の中の、この偽善を見失っては 私たちに 未来は無い(おおげさですに聞こえるかもしれませんが、 上記に触れました 未来からの無意識作用はここにおいても馬鹿に出来ない)のですよね。 子どもたちのために いっしょに、 このへんを もっと信頼出きるものへと変えていきましょう。 アランのような哲学者をさらに学習し、 その感性論や 教育論 ビジネス論(哲学者で本格的哲学からビジネスを論じた人はアランしかまだ知りません)を 今の私たちこそ さらに謙虚に学んでいきましょう。 》社会の都合と、個人の理想が共生し、幸せが一致するならいいのですが。《 と 最後に「人間らしい理性」からの祈りの文、 深い願いの文で mikoーdesiさんの文は結ばれています。 ありがとうございます。 感動しました。 長い、闘いは必要かと思います。 ですが、 ですが、 はるか昔にもアランのような哲学者はいたのです。 一人では何もできないかもしれません。 でも ネット社会では こんなに大勢の人が 真剣に、豊かに言葉を交わし始めています。 きっと、 子どもたちに、 その未来は きっと 来ると思います。 mikoーdesiさん、 すばらしい御回答 ありがとうございました。 感動しています。 目に水がたまり 熱くなっています^^。 ありがとうございました。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
しかし、善というのは相手にとっても自分にとっても喜びであるはずじゃないでしょうか。 お年寄りに席を譲ることは相手を気遣う気持ちもあるし、相手が喜ぶことが自分の喜びであるし、自分が道徳的な生き方をしていることの喜びもあるはずです。 嘘偽りの無い他人へ幸せを願う真心は自分自身にとっても喜びではないのですか。 自分の喜びを悪と呼ぶならこの世に善はないでしょう。 偽善とはなんですか? それほど問題ですか? 悪を否定することは最終的に自分や他人、ひいては人間を否定することになりませんか?
お礼
ありがとうございます。 偽善とはなんですか? それほど問題ですか? というご質問に対しては 極端なまでの問題となるような偽善も世の中にも、今の時代にもあると思えていますので そこからの私の質問なのですが、 そちらのご見解は 重要なところを語ってくださっていると思います。 感謝されたい気持が強くて それが目的で善いことをしたってそんなに問題は無いと思っている心とか、 いや 自分の名誉とか 虚栄心とかのため、または物質的にも密かに見返りを期待する心とか それは 相手に対するあたたかさが無い冷たい心であり 相手を無視している心だ、 というふうな 分離が 果たして 私たちの中にあるのか また そういうふうに完全に分けてしまうような考えは必要なのか、 というと 私も そのへんは、 そちらのお考えと たぶん似ています。 みんな 同じに弱い生物でもあるのですし、 社会的な貢献を求める心、名誉心もあるそういう脳も持ってるわけですし、 自我というのは 必ずみなさん持ってると思うのです。 だからといって、同時に 純粋に 他の人が喜ぶ顔 苦しみか解放されたときのうれしい顔とかを いっしょに共感する感情も同時に持っていると思います。 実は そのへんの機微を書いてくだったあたりが、 質問者としてはありがたいところなのです。 質問は 言の葉でしています。 当然 豊かな、さらに豊かな言の葉の世界を みなさんの御回答に求めているのです。 勉強になり、 力となり、こやしとなるものを求めるのでなければ質問しても意味はないでしょう。 こうした 生きられた心の機微を求めているというのが 私の質問の大きな目的なのです。 shift-2007さんが 私の質問から 偽善心を単に非難しているように受け取られたのであれば、 言葉足らずだったと思います。 しかし、それでも Shift-2007さんは、 人の心の 重複性(二重人格のことではないです^^)の具体例について 語ってくださっただけでなく、 最初の段落では 、結びにて、 》自分の喜びを悪と呼ぶならこの世に善はないでしょう。《 という人間性にとって 私もとても重要だと思っていることを端的に語ってくださいました。 後段の方でも 最後に 》悪を否定することは最終的に自分や他人、ひいては人間を否定することになりませんか?《 というふうに、 偽善のみならず、《悪》自体への寛容の理性を語らんとされています。 ここは、 文の流れから考えると 飛び出ていて 私の解釈では これこそ Shift-2007さんのまごころの部分だと思うのです。 直接伝わってくるものを感じます。 ありがとうございます。 お心学ばせていただきました。 ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
偽善にもいろいろあるんでしょうね。 本当の善への過渡期としての、蝉の抜け殻をお尻につけている状態やら、人間という存在の両面性からの宿命的な現象やら、単に虚栄や見てくれだけの偽善とか。 しかし、偽善も認めないといけません。嘘から出た真ということにも変化することがあるんですから。 偽善でも感謝したい状況もありますし、感謝されて本当の本物になることもありますから。 本物になれることはめぐみです。本物になりきるのは何かを偽善と言い切ることを躊躇させる難しさがあります。
お礼
ありがとうございます。 私自身は、 善も偽善も内面的にも外の環境への態度としても 可変的複合的に とらえていたりします。 ですが、だからこそ 同時に 善という信頼できる心の世界を明確にすべく、 いろいろ考えていますので 》めぐみ《と書いてくださった視点に関して すこし補足質問させていただきます。 いろいろなケースを想像され かつそれに対して寛容である態度に共鳴します。 だからこその補足質問です。 もしよろしければ ということですが、 どうぞよろしくおねがいいたします。 ありがとうございました。
- raiden787
- ベストアンサー率37% (179/473)
嘘偽りなく他人の幸せを願う心はあるかもしれません。 しかし、その心があるからといって他人を幸せに出来るかは別です。他人を幸せにするにはそれを可能にする能力と、他人が本当に幸せかを見極める叡智が必要です。 そして、それらを両立している人間は少ない、あるいはほぼ皆無かもしれません。 その結果、真心によって善をこなしたつもりでもその善は不確かであり、結果的に人を不幸にするかもしれません。 そして、自分が自分の善が失敗であることに気が付かずに善を振りまけば自覚なく邪悪を振りまいているとも言えます。 その結果、偽善が生まれるのかもしれませんね。
お礼
ありがとうございます。 能力の無さが お人よしと呼ばれる 人こびる気持もはいった善人と結びつくとよけいに 無能さが間違いを起こしたり 変な方向へ進んでったりしますよね。 その人自体 いよいよ、 いろいろ精神的にも経済的にも《ゆとり》を失っていって 最初は 他人の幸せを思う 偽りないあったかい気持であっても やがて ごますりだけの善人となってしまうかもしれません。 心自体は 表とは違ってしまうわけです。 なるほど、 偽善生成の端的な例ですね。 ありがとうございました。
補足
こうしたことは、 同じ弱い人間ですから 自分も自覚しなければいけないところと思っていますが、 善人が こうして《ゆとり》を失っていく場合以外にも、 善のふりをした悪(これは、要は詐欺という悪そのものとも言えますが)があったりします。 ひどいのは、 とある新興宗教のキリスト教の例、 私の母が ひっかかりそうのなってしまったのでよけいなのですが、 公然と 聖書の中のたとえ話を使って、 キリストが貧しくても精一杯の少しの寄付をした貧者のほうが よほど、ただ自慢げにたくさんのお金を寄付したりする人たちよりすばらしい といったことを 語っている部分を なんと 貧しい人でも 生活費のせめて7割出しなさいという意味ですよ とニタニタ笑いながら お説教?していたのです。 でも信者の人たちは誰も、気が付かないのですよね? まあ、こんな例もあるので、 他にも心に《ゆとり》を失う人たちの例はたくさんあるのかとも思います。 補足質問というのではないですが、 お礼に書ききれなかったですし、 観察眼が鋭い方には、 さらにいろいろ考えていただきたい気持になりました。 自我についての質問とかも してゆきますので また よろしくおねがいいたします。 ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
人にとっての価値とは、意志の達成=精神的充足感であり、 生きる目的は、法に従う事でも物を得る事でもなく、精神的 充足量の最大化にあります。 そこにおいて、社会生命化(分業・組織化)において、自己の 生命性が社会的に拡張される上で、それを自覚的に意志化 する(助け合いとしての社会行動=愛による労働)ための 認識的発達を怠り、お金や出世といった“馬車馬の目の前の ニンジン”によって他律的に社会行動を導く方法をとった結果、 その“アメ”と共に、“ムチ=法規やモラル”も発達したのです。 つまり、善悪の概念自体が、人に非自覚的に社会行動をとら せる=生きる真の目的である精神的充足(=意志の達成)とは 無縁な、次善の策であり、必要悪に過ぎません。 その本質的に空虚なデコイにとって、さらに偽善であっても、 何ら問題はありません(元々形骸的なエセ価値なのだから)。
お礼
ありがとうございます。 壮大な実際の社会改革の魂(たましい)を感じます。 》つまり、善悪の概念自体が、人に非自覚的に社会行動をとら せる=生きる真の目的である精神的充足(=意志の達成)とは 無縁な、次善の策であり、必要悪に過ぎません。《 この「善悪の概念」というのは 「道徳としての善悪の内面規範」ということですよね。 するどい端的さを持った文内容だと思います。 つい 自分で考えて道徳の善も 自発的にしていると思い込みがちですが、 まさに》精神的充足《が 相手への当たり前の思いやりを生み相身たがいの気遣いあう社会への《ゆとり》を こころにも宿すということなのですよね。 そうでない場合には、 無理に「何かに従っている」だけなのに 気が付いていない状態だとのご指摘なのですよね。 》精神的充足量の最大化《 これは 常に そこへむかう一歩一歩の過程をも含んだ柔軟な考えが 裏に豊かに思索されていることを連想させるところだと思います。 今 情報化社会が生まれ 分業化されても 適材適所と真の教育機会均等の実現(現在とても実現できてはいない)とで、 真に お客さんの「精神的充足量」までを考えたビジネスは可能になりつつあると 私も考えています。 ただ、 言葉の理解力が足りないからだと思うのですが、 「意志の達成」という言葉の意味あいが 》意志の達成=精神的充足感《 とか 》生きる真の目的である精神的充足(=意志の達成)《 という文脈からだけでは わたしには読み取れませんでしたので そのへんだけ 補足質問させていただきます。 今 きょうはもう時間がなくなりましたが(ワーキングプアーの変則的なネットの使い方ですので) できるだけはやく、補足質問させていただきますので、 よろしくお願いいたします。 ありがとうございました。
補足
補足質問ですが、 》意志の達成《 というところの意味を教えてください。 「意志の達成=精神的充足感」 というふうには とても思えないような解釈がいろいろ出来てしまうところ、 極端な話が 悪人が権力を達成するにしても そこには意志の強さが必要だったりして、 その闘いを乗り越え、 その権力を達成した時には「精神的充足感」は それなりにありえるかと思えます。 そうしたマイナス面すら想定されてしまいます。 おそらく 助け合いとしての社会を実現する意志が達成される過程にある精神的充足感、ということではあるのでしょうが、 一番解りにくかったところがその「意志の達成」という文でしたので 補足質問させていただきました。 物事を大きな視野から捉えてそれを文章化すると、 当然具体的な面は 説明抜きには 人には解らない文章となるのは しかたがない面だと思います。 こうした御回答文の場合、 もしかしたら 質問者側が さらに質問する熱心さを試されているのかもしれません。 であれば 是非、まず「意志の達成」について その具体的内容の説明をお願いしたいところになるところです。 他にも 抽象的表現と思える言葉はたくさん使われていますね。 大体は 解るところなのですが、そのへんお 一応できましたら説明していただけるとありがたいところです。 「社会生命化」 これは文字通り 「個人の命が他の命との共同作業で 個人個人が幸せになるように働く社会への進化」を 「生命」に例えたものだと解釈できると思われます。 また、その意味合いの端的化として 一つのすぐれた表現力としても解釈できるとことかとおもいます。 がその内容のあたりも (分業・組織化)としか書かれていません。 そこで その内容の説明も欲しくなるところとなります。 その時に 》(分業・組織化《 の「分業」 というのは 生命化してゆく社会全体にとっての必然ということなのでしょうが、 また 適材適所の意味合いのものだと思うのですが、 後者の「組織化」というのは 同じ適材適所でも 教育による可変性もあり かつチームワークも個人プレーも進化してゆく組織のリーダー性が必要といったことでしょうか?( すみません、 私の考えは単純で スポーツとかにかなり価値をおいているもので、ついこうした言葉づかいになります) 次に、 》ムチ=法規やモラル《というところなのですが、 すみません、少し前に お礼文で私が書いた「道徳」という言葉は 又少し ニュアンスのあたりは違う言葉かもしれません。 例えば 愛は 最高道徳としても語られてきましたが、 これは内的規範であると同時に 自然なものとしての愛の醸成をも 道徳の名で尊んできたところがあるかと思うのです。 つまりアメとムチから発達したものではありつつ ズレも すでに庶民の中でよい方向にずれている面もあるところ、と そんなふうにも思えます。 しかし、 それだけでは やはり肝心の最高道徳は 弱いものとなってしまいますよね。 まず自分自身が 最高に充足するところから生まれる 当然他の同じ様に生きている人たちへの尊敬と感謝と気遣いの《ゆとり》パワーが必要となるかと思います。 結局 》人にとっての価値とは、意志の達成=精神的充足感であり、 生きる目的は、法に従う事でも物を得る事でもなく、精神的 充足量の最大化にあります《 という最初の文に戻ってくるところかと思います。 肝心の 精神的充足と=で結ばれた 》意志の達成《 という意味合いに ここにさらなる 何を意味しているのだろう?という強い興味、関心をそそられることになるのですが そのへんがそのあたりを特に 再質問させていただいた理由なのです。 是非とも、よろしくお願いいたします。
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お礼
ありがとうございます。 》科学の善用には「正しい嘘を認めないことです」《 この暗喩の一言 真摯に、沈思黙考してみます。 なるほど、もしかしたら 百万言よりも切れ味が鋭いかもしれません。 ありがとうございます。