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無心状態での布教活動の可否
- 現実逃避的な救済を求める不純な動機は無心状態での信仰を阻む
- 感情移入をも払拭させた無心状態では、信仰が可能になるか
- 信仰が無心で行なわれている場合、稼ぎが発生する展開はない
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質問者が選んだベストアンサー
>>新興宗教団体の所属者達が他の教団の方々の説得を行なう過程の途上で、 >>説得相手側の【建て前】的な主張の方が自分達の【本音】に近い、と感じさせられますと、 >>逆に一部の門徒達が折伏されて裏切り・寝返りを実行するかも知れません。 それは、新興宗教側の主張もまた「建前的」だからでしょう。 よく言われることですが、「信心」と「盲信」は違います。真に信心のある方は、自身の信じる教えに疑わしきところがなくなるくらいまで突き詰めて、矛盾を解消していきます。 それが出来ていない、または、そもそもの教義に不備があるから、望んだものが目の前に差し出された時に簡単に揺らいでしまうのです。 「困難な修行を達成した者のみが解脱できるよ!」と「人間は誰でも成仏できるんだよ!」では、一般論として後者のほうが道徳的にも優れて見えるわけですが、「誰でも成仏できる」という根拠がなければそれは眉唾ものでしかありませんし、じゃあ「困難な修行をした者だけ」が正論となるかと言うと、これもまた「根拠」がなければスポ根的なもっともらしい精神論でしかありえないでしょう。 仏教なんかでも、宗祖の教えが絶対みたいな風潮が一部でありますが、その宗祖が起源であるお釈迦様の教えを曲解していたら教義そのものに意味がなくなります。実際、漢訳経典に於いてさえ訳経上の問題が散見されていますから。 >>「感情移入をも払拭させた無心状態では、信仰が可能になり得るのでしょうか?」 そもそも、宗教って人間に根ざしたもので、無心なものではありませんよね? キリスト教にせよ仏教にせよ、人々を苦しみから救いたいという「慈悲」が先とされているはずです。 お釈迦様についてはたまに、初成道時の入三昧を取り上げて「寂滅」こそ真理だとされる方がおられますが、では「転法輪」とは何だったのでしょうか。 >>※是を肯定しますと、宗教法人の代表者さえもが浄財で生活費を賄ってはいけなくなります まっとうな宗教法人であれば、浄財から生活費を賄うのはその法人を「維持管理」しなければならないからです。 それがままならないほどに法人収入が少なくやむを得ず外で会社勤務している方がいるのが実状ですが、逆にそれを賄える余裕がある規模になればなるほど、内側で運営していないと宗教法人として体を為すのが困難になっていきます。 この「維持管理」は自分自身の信仰以前に、信者の信仰基盤の為ですので、そこに私情を挟んで「自身の無心による信仰のために」それを投げ出してしまうのはいかがなものかと思います。 まあ、外部との関係を絶って自己の修練のみに専念するというのでしたら話は別ですが、その場合には宗教法人である必要がまずありませんしね。
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- xNekoNyanx
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No.3の者です。再度議題をいただきましたので不躾ながら。 >>『(燃え尽きない)自己目的的な信仰は可能なのでしょうか?』 その「自己目的」が果たしてどの程度のものを指すのかによるのではないでしょうか。 例えば、典型的な「自行(自利)」即「利他」に於いては、「自行」の内容が即ち「利他」であり、「利他」は即ち「自行」の為であるわけですから、これはある種「利他」の側面さえも「自己目的的」と言えます。 一般的に「利他」とは自己犠牲的に他者を救うことが理想的かつ究極的に捉えられがちですが、この場合には「自己犠牲」どころかむしろ「自己目的」寄りとなることは一目瞭然です。 では、自己犠牲的な色合いの強いキリストなどはどうなのかと申しますと…。 確かにその点については否定のしようがないわけですが、彼の目的はそもそも「人間に赦しを与える」ことで、其れが為に虐げられることを承知で誕生されたわけですから、自己を犠牲にしてでも人々を救おうとするその姿勢もやはり「自己目的的」であると言わざるを得ないでしょう。 以上の両者については、目標がはっきりしているのでその過程に伴う苦難は大した問題とはなりません。 マラソンで◯時間以内に完走すると決めている人が、道中で簡単にへこたれないのと同じ理屈です。想い(ご質問に対しての言葉で示せば「信仰心」ですか)が強ければ強いほど「燃え尽きない」ということになりますね。 さてさて、ところでこの「自己目的」が完全に他者を排除して成り立つ「自己利欲」を指している場合の話ですが…。 こればかりはなんとも言えません。 が。宗教の根本としてまずありえないでしょう。 おおよそこれを二種にわければ… (1) 自己の解脱のみに専念する(完全なる孤立) (2) 自己の目的達成のために他者を犠牲とすることを厭わない(自己中心の究極) となり、 (1)の場合には、解脱に至るまでは自己のみの修練であったものの、解脱の瞬間に得る真理が必ずしもその通りであるとは限らない(お釈迦様がまさにそうですから)ことから、その(自己目的の)結果はそこに至るまでどちらに転ぶ(自己利欲に留まるか衆生救済に目覚めるか)とも言い難いですし、 (2)の場合には、例えば誰かを殺さなければ自分の欲しいものが手に入らないというならば、そうすることこそが「是」とされるわけで…。これは、仏教外の「六師外道」に近いものがありますね。 付けたりですが、「燃え尽きない信仰」というのは、その強弱よりもむしろ「いつまでも決して捨て去らない」というモチベーションと確信(先に申し上げました「盲信」ではない「信心」)のほうが大事になると思います。 要するに、「あれが欲しい!!」と一時燃え上がっても、ある時ふとした瞬間に「なんであんなものがあれほどまでに欲しかったんだろう」としらけてしまうような中身のないものでは、意味がありません。
お礼
ずれが残っていますので、申し上げますが、『自己目的的』という言葉の意味は、『利己的』という意味合いと全く違います。 http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E2%80%9D%E8%87%AA%E5%B7%B1%E7%9B%AE%E7%9A%84%E7%9A%84%E2%80%9D+%2B%E5%90%88%E7%9B%AE%E7%9A%84%E7%9A%84%E3%80%80-%E2%80%9D%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%BA%AD%E5%9C%92%E2%80%9D&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=sb-kingbrw1&x=wrt
補足
有り難う御座います。 仰っている内容は『自己目的的な信仰』と違って、『合目的的な信仰(救済を求める不純な動機に立脚した信仰)』のことなのではないでしょうか?
本当に無心であるならそもそも団体等は結成しないです 布教好意そのものが既に勢力を広げようとするための行動であって無心とはかけ離れた物です 故に裏切りや寝返りがおこるのです
補足
有り難う御座います。 無心状態への解脱を欲する心の存在が、 寧ろ逆に、無心状態への解脱から疎遠にするのでしょうか?
信仰とは、つまるところ体験の積み重ねによるのではないでしょうか。 知識だけの信仰は、信仰ではないと思います。 知識とは裏付けのない情報にすぎません。 教義を知識として得ることは、信仰の入口に立つことです。 体験による教義の実証の積み重ねによって、信仰が確かなものになっていくように思います。 体験による実証が得られなければ、信仰には至らない教義という知識の段階に留まるものになるのでしょう。 実証には二通りあるように思われます。 自内証ともいわれる主観的実証と、現実的な変化をも示す客観的実証です。 この両方を経てこそ、信仰といえるのではないでしょうか。 知識から入って体験を経て信仰に至る、というのが一般的だと思われますが 知識や教義を知ることに先立つ体験のみによって信仰に入る場合もあると思われます。 主観的実証による入信ということになるのでしょう。 そこにおいて得られたものを、教義の中において解釈して理解してゆくといったものです。 このようにして深められていく信仰とは、体験主義的になりがちであり、体験や経験以外の領域の教義を否定しがちな面があると思われます。 >本来的な無心状態 >「感情移入をも払拭させた無心状態では、信仰が可能になり得るのでしょうか?」 無心というものですが 前提とする知識や情報を排除した状態だけでは、無心とは呼べないもののように思います。 それは、既にある蓄積されたおびただしい量の知識や情報の一部を隔離しただけにすぎないからです。 また、感性的な情報の検索を自由に行える状態にしておく、といったことにしても、何らかの検索的傾向が現れてしまうのではないでしょうか。 そうした見方からすれば、通常意識においての最大限の受け入れ態勢というべきでしょう。 そこには明らかな個人差というべき特質や傾向が存在し、入ってきた情報の解釈や整理がそれに基づいて行われていくと思われます。 このような場合には、知識の習得という範囲を越えるものではないので、信仰に直ちに至ることはないと思われます。 しかしながら、その相手とする人によっては別な場合もあるかもしれません。 言語入力以外の情報伝達といった可能性も否定できないからです。 禅でいうところの以心伝心というものです。 「維摩の一黙雷の如し」とあるように、文字や言葉によらない直接伝達の世界です。 それは直観の働きによる閃きと呼んでもいいかもしれません。 その場合には、そうしたものが生じ得る状態の中に両者が置かれる、という特異な状況の場合のみだと思われます。 また、そうした状況内における言葉は通常の言語感覚ではないものがあるかもしれません。 禅における入室では決定的なやり取りがなされるようですが、こちらは一般とは違った別世界です。 一般的な場合でも、人によってはそのような状況が生じる可能性があるかもしれないという事です。 その場合、主観的実証の一部を得たとするならば、信仰に入りうる可能性はあると思われます。 以上ご参考になさってください。
補足
有り難う御座います。 人間的な言語を利用していない動物達の群れの場合にも、同時に近くで同じ状況を経験しますと、其の情報を共有出来ますので、類似の状況に立ち会った際に、判断の傾向を揃えやすくなりますね。 従いまして、そういう条件によりましては、【以心伝心】が成り立ち得るのでしょうけれども、若し過去の同時点に共通体験を味わった事情が記憶されていませんでしたら、其の場合には、伝達の可否を御互いに予想し得ませんので、異教徒達への布教の時には、【以心伝心】が起こらないのではないでしょうか?
お礼
http://okwave.jp/qa/q6985389.html http://okwave.jp/qa/q6988591.html http://okwave.jp/qa/q6988817.html http://okwave.jp/qa/q6930809.html http://okwave.jp/qa/q6988614.html 此方でも御協力を賜れますと、非常に幸いに思われますから、畏れ入りますが、若し支障が御座いませんでしたら、御覧になって下さいませ。
補足
有り難う御座います。 若し宗教の修行者達が無心状態への解脱を獲得し終えたのでしたら、其の場合には、「(衆生を)救おう」と願う【慈悲心】さえもが、彼等から払拭されているのかも知れませんね。 因みに、仰っている内容を更に深く学ばせて頂きたいものですから、宜しければ教えて下さい。 『(燃え尽きない)自己目的的な信仰は可能なのでしょうか?』