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人間の本質について
- 人間の本質は自己満足を追求することであると言えます。ボランティアや愛する人のために行動するのも、最終的には自分が喜びや充実感を得るためです。
- 人は自己満足のために他者を利用することもあります。例えば、ボランティア活動や愛の行動も、他者からの称賛や自己認識のために行われることがあります。
- 人間の本能は自己保身による自己満足を追求することです。他者のために行動することも自己満足の一部であり、全ての行動は最終的には自己の幸福追求に関わっていると言えます。
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質問者が選んだベストアンサー
自己を犠牲にしても、自分の子供を守るというのは、生物学の範囲では、自分の遺伝子を未来にわたって保存しようとする自己防衛本能の変形でしかありません。 この遺伝子を保存しようとする行為は、きわめて利己的であり、すべての生物に備わっています。ちょうど、ヒトやねずみやゴキブリが条件がそろえば、爆発的に繁殖するのがあきらかなように、この世で生き残ってきた生物はすべて種保存能においては超エリートだといえます。 半生物といわれるウイルスにも備わっており、それはインフルエンザやエイズを引き起こします。
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- 雪中庵(@psytex)
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今や個人の生存は、衣食住どれも世界中の人々の営為によっており、 そうした社会性の範囲での「利己」は「利他」を包含します (組織の順調な営為こそが、その構成員の最大の利益)。 そこに求められるのは、他我(=自己の延長として他を認識する=愛)です。 生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命= 助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きることとなる。 しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるだろうか? 人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。 本来それは、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにもかかわらず、 いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを奪い合い、 お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのだ。 (その錯覚の端的な例が、取引きに於いて、役に立つものをもらう= 助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙) その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北となり、 人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。
- namekko
- ベストアンサー率26% (57/214)
その通りだと思います。 人間は自分かってなものです。 煩悩です。 でも、自分を大切にするからこそ、相手の痛み、苦しみも分かるのです。 そして、それがあるからこそ、私たちは救われている訳です。 仏教の本を読んでみて下さい。 私は昔、同じ様に悩んだ事があり、読みあさりました。 あまり頭が良い方ではないので、難しい仏教の本は読んでませんが、かなり読みました。 偽善や自分本意かも知れませんけど、でも、それで幸せになる人はいるわけですから、大事なことだと思います。
お礼
早速のお返事、大変感謝いたします。 >自分を大切にするからこそ、相手の痛み、苦しみも分かるのです。 なるほど。一般的に「自分勝手」と避難される人は、 保身をしているようで、実は自分を大切に思えていないと言う事ですね。 とても納得かつ深いです。 >偽善や自分本意かも知れませんけど、でも、それで幸せになる人はいるわけですから、大事なことだと思います。 そうですね。 少しそれますが、アダムスファミリーをご存知でしょうか? 今ふと思い出しました(^^;) 道徳や社会的なルール=広く人に受け入れられ理想とされる事を「幸せ」と感じられることが、要ですね。 仏教の本、色々と読んでみます。ありがとうございます。
補足
ご回答の補足からで恐縮ですが、 同じ質問を複数カテゴリで出してしまった事お詫びいたします。 禁止行為と思わず、幅広い見地でのご意見を頂きたいと思い、出してしまいました。 お気を悪くさせてしまいましたら、本当にすみませんでした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >自己防衛本能の変形、利己的 なるほど。とてもつじつまが合いますね。 知能の発達レベルによって欲求や出来る事に差異はあれど、 根本は同じ、なんですね。