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両立の可否
進化論の肯定は必ず聖書無謬性を損ねてしまうのでしょうか?
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「無謬性」の解釈によるのではないでしょうか。自然を研究した結果、進化論が正しい信じてしまうような仕方で神は世界を作ったのだ、と言われれば、原理的にそれ以上の反論はできないように思います。 エリオット・ソーバーの本などを参考にされてはいかがでしょうか。
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- cincinnati
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聖書の見解は見てみますと、人は以下のような神の意図により創造されています。 創世記26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 進化論によれば、「地球の発生後に何らかの微生物が同様に発生し、時間の経過と共に微生物が自然の淘汰の結果、徐々に高度な生物になり、その経過においてあるものは植物になり、動物になり、あるものは微生物、細菌のまま淘汰された現在の地球上の生物の分布になりました」ということなんだと思います。 このような見解を同じ議論のまな板に載せてみても同じ包丁では料理ができないように感じます。科学は科学の世界の道具である数学やロジックを用いて議論する必要があるでしょう。聖書が扱う領域は科学的な手法ではアプローチすることができないと思いますが、いかがでしょうか。 クリスチャンが進化論を肯定するとしてもそれは理論として正しいように見えるということを受け入れることに過ぎないと思いますし、クリスチャンでない人でも同時にそのような理論を組み上げていっても自分の内側にある心の叫びには科学は答えられないことを知っています。 この二つは互いに接点を持っていないということが言えると思います。最後に聖書の世界をFM放送の世界、科学の世界をAM放送と例えてみますと、両者の関係がよくわかると思います。つまりクリスチャンの方はFM放送でなされている聖書の言葉を理解出来ますが、科学のみを信奉している方はAM放送でしかコミュニケーションできないといえます。 私どもクリスチャンの務めはAMもFMもわかるものとして、AMの言葉でFMの世界を語り続けることではないかと思っております。私はプロテスタントのクリスチャンでエホバの証人、統一教会、モルモン教とは関係ございません。
お礼
別のページ(http://okwave.jp/qa/q6895564.html)にも、 類似の質問を提出させて頂きました。
補足
有り難う御座います。 本来の【聖書無謬性】の考え方によりますと、たとえ聖書の解釈の為にどの様な尺度が持ち込まれましょうとも、経済学のパックマンディフェンスの如くに、聖書がそれを飲み込んでしまうのではないでしょうか?
お礼
http://okwave.jp/qa/q7554125.html 上記のページでも、御教授を賜れませんでしょうか?
補足
有り難う御座います。 上手い抜け道が残っていたものですね。