- ベストアンサー
なぜ善悪の智慧の樹は食べてはならなかったのか?
- 善悪の智慧の樹はなぜ食べてはならなかったのでしょうか。神は、園のどの樹からでも好きなように食べてよろしいと言いましたが、善悪の智慧の樹だけは食べてはならないと言いました。
- 人は善よりも悪を好む、コントロールできないものを得てしまったと神は言っています。智慧が人を滅ぼすということを暗に言っているように思えてしまいます。
- キリスト教における善悪の智慧の樹の解釈には、さまざまな意見があります。例えば、人が神に対して服従することを意味すると解釈する学者もいます。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
んーー、神学とは無縁ですが・・・(酔滝汗) 善と悪の両方を知る事で、 善悪両極の有り様を秤にかけて(比較検討して)損得勘定を 行うという考え方・行動原理が生じてくる。 → 結果的に善悪の判断を無視する傾向が強まる。 → 自身が求める結果の為に手段を選ばない人間になる。 ・・・という危険性を孕んでいる事を示唆した エピソードなのではないか、と(´_`;b
その他の回答 (2)
- michael-m
- ベストアンサー率50% (2724/5433)
神学と言っても一つじゃないです。各宗派、各学派、各修道会などなど、更に個人レベルでも少しずつ違うのです。もし統一されているなら、キリスト教はこれほど繁栄しなかったでしょうね。 教科書に載っているようなものは他に任せますので、これは私見として考えて頂いていいでしょう。だから教科書がお望みならスルーしてください。 前置きは長いですが結論はシンプルです。 白だけの世界でも、黒だけの世界でも「色」という概念は存在しません。 同じく、絶対善しか無い世界に善悪や智恵という概念は存在しません。 善悪や智恵を認識するのは単一の世界から離脱したからです。その鍵が木の実なんでしょうね。 聖書はあくまでも比喩なので、「なぜそんな実があったのか」と聞かれても困りますが。 善・悪・色・智・・それらは有限です。だから人もまた有限となり、死を迎えるのです。 神の世界だから幸せ・・確かにそうなんでしょうね。 でも実際は「幸せ」という感覚も神の世界では存在しないでしょう。なぜなら幸せ・不幸せという概念も無いのですから。 それを詰まらない世界だと感じるのも有限の世界にいるからです。
お礼
お返事ありがとうございます! 善という概念は悪という対立概念がなければ存在しえないということですね。大変勉強になりました。 ただ、私の質問と回答者様の回答との関連付けが、私の勉強不足で不明瞭でした。 私の質問のエッセンスは、 キリスト教では、善悪の判断は人間の手に余るものだと教えているのか?というものでした。 私は智慧の実のくだりを見て、 神は、人間は善悪を知るべきではなかったといっているのか?と解釈して、そして、そうだとすれば、 人間がなぜ善悪という概念をもってはならなかったのか? ということが疑問になったのです。 その回答としては2つであると認識しました。 1、善悪や智恵を認識するのは単一の世界から離脱したか ら。 2、善という概念は悪という対立概念がなければ存在しえな い。 つまり、別になぜ食べたのか、というのは 1の、人間が単一世界から離脱したから(もしくはしたかったか ら)でしょうか?2は前提の話だと思います。 もっといろいろ勉強してみます。ありがとうございました!
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
善悪を知るとは 善悪を区別できるということ。 それは善悪を決めることに繋がり、善悪を決めることは神の御業である。
お礼
お返事ありがとうございます! 善悪を知るという段階で、誤解してしまうのですね。 善悪を誤って知れば、区別も異なる。それが独自の善悪を決めることにつながる。このように解釈しました。 神の智慧には人間には永遠に理解できない。 理性をいくら詰めても、神には決して届き得ない、という啓蒙主義への警告に見えます。 勉強になりました。ありがとうございます!
お礼
お返事ありがとうございます!。 人間では、神がもとめる善悪を誤解して、単純な個人の損得勘定でとらえる危険性があるから。と解釈しました。 善悪を天秤にかけるという発想は功利主義的ですね。 いろいろ考えさせられます。 ありがとうございました!