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国語 教科書

安部公房の赤い繭についての質問です。 単刀直入に聞きますと、 なぜ、 繭になったのですか? 山月記では 『羞恥心や自尊心』で 猛獣の中から「虎」 になったように なぜいろいろある中から 繭になったのかを 説明とともに教えてください。

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  • TANUHACHI
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回答No.1

 こんばんは、始めてお目に掛かります。 安部公房の作品はチェコの作家フランツ・カフカと類似性があると言われています。カフカは『変身』や『城』などで知られるように「不条理性」と「孤独」に主眼がある作家として知られています。  さて、この『赤い繭』に登場する人物は実際に何人でしょう。「おれ」として語られる人物が登場するだけです、他には主立った人物の姿はみえません。この「おれ」を今の世相に喩えるならば「ホームレス」になるでしょう。つまり多勢の人が行き交う夕暮れの街中に「おれ」はいても、他の人の目には留まらない存在として描かれています。  質問者様が「変身譚」の事例として挙げられている中島敦の『山月記』とは異なる性質の文学作品ということができます。『赤い繭』は作品の終盤で「おれ」の肉体が何時の間にか「ねばりけのある絹糸」となり、やがて全身を包見込み、遂には肉体の全てが繭となることで「おれ」という存在は現実の世界から消滅してしまう。生物としては生命活動を営んでいても、社会的存在としては既に現実の世界では生きていくことも叶わないほどの孤独の中にいる。つまりは生きていても死んでいることに等しい状態を生きながらえているのが繭に変身する以前の「おれ」の姿であり、「安心できる居場所」を得たいとのせめてもの願望が結実したモノが「赤い繭」だった。けれどその安心できる居場所の主であるはずの「おれ」はそれと引き替えに存在を失った、とのストーリーです。「繭」はその中にサナギを宿しますが、この赤い繭にはそのサナギがいません。有るべきはずのモノがそこにない不自然という点からこの作品のテーマは「現代の孤独と疎外」を描写したものと理解する事ができます。  『山月記』の主人公はエリートでした。そして彼はその自負心から家族を困苦へと招き、しぶしぶと宮仕えしますが、心の何処かで「自分はこの程度の人間ではない」との思いを抱き続けた結果、出奔して虎と化してしまう。けれど『赤い繭』の主人公はエリートではありません。単に行き場を失った普通の人をカリカチュアした姿です。  高校の教科書で安部公房の作品が採り上げられること自体が珍しいのですが、殊に文学作品に接するには、頭の中を一度クリアな状態で真っ白にして読むことで、より確実に作者の声を聴くことができますよ。  もし安部公房に関心がおありでしたら、彼の作品に象徴的に使われている「砂漠」の文字に注目してみて下さい。「砂漠」→「見渡しても誰も見えない」→「寂寥感」→「孤独」とイメージは広がっていきます。同時に彼の作品とカフカやベケットといった作家の作品や実存哲学のキェルケゴールとの結び付きも参考になります。

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