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浄土に往生する主体 (浄土真宗)
浄土真宗のいち門徒です。 浄土真宗門徒は命終わる時、阿弥陀様のおはたらきにより浄土へ往生させていただく身でありますが、 わたしたち衆生の「なに」が往生するのでしょうか。 その主体とはなんなのだろうと考えることがあり、質問させていただきました。 私個人の考えは、「迷いの世界から救われるには阿弥陀様のはたらきにおまかせするほかないという信心」が往生するのかな、というところで止まっています。 どなたかお考えがあれば、お伺いしたいです。 できれば大まかな年齢・性別・社会的立場なども書いていただければと思います。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ 浄土 ☆ が持ち出されているのは 方便です。 往生は すでに――信じたその一瞬において――成っています。 あとは その往生したすがたで この生身の存在が どれだけブッダの状態を磨いて行けるか ではないでしょうか。 そういうたのしみの共生を実現させるという阿弥陀如来の願いのもとにわれわれは生きているのではないでしょうか。 往生したと言えば 全部が往生しています。何もかもです。 あとは 人びととの関係において どうなのか。これになります。阿弥陀やブッダには関心のない人びととも共生するという願いが成されているということではないですか。
- ks5518
- ベストアンサー率27% (469/1678)
>わたしたち衆生の「なに」が往生するのでしょうか。 それは『生命(命)』です。 しかし、称名念仏を唱えたところで、「極楽浄土」には行けません。 これはまやかしです。それどころか、念仏を唱えれば地獄の相と なり、無間地獄は疑いないでしょう。要するに、十界である地獄界 から永遠に浮かび上がる事は無いでしょう。
- born1960
- ベストアンサー率27% (1223/4397)
50代 男性 会社員 四十九日の間、私たちの魂は此岸にいるわけですね。まだ迷っている状態なのでしょう。 そして四十九日を迎えて、晴れて彼岸へと渡り往生します。いや、往生したことで彼岸に渡れるのかな? なので、往生するのは現世に残してきたもろもろの心残りなのでしょう。
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