- ベストアンサー
キリスト者は猿回しの猿か?
- キリスト者は楽しみを与える存在なのか、それともののしりの言葉を浴びせる存在なのかを問いかけます。
- キリスト者は微笑みながら人々の言葉に応えることができる存在なのか疑問を投げかけます。
- 猿以上の存在だと思っている人たちが喜びの楽園を見つけるためにキリスト者に猿回しを求めるのかを考えます。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
( a ) キリスト者は 猿回しの猿か? もし真にキリスト者が猿であるならば、私は猿になりたいと思います。しかしそれは叶わぬ願いなのだと思います。私どもクリスチャンは神様の命令がよくわかりますが、それを必ずしも実行していないというジレンマにあります。聖書ではそれを罪と呼んでいます。もし罪を犯さなくなるようにならないのであれば、クリスチャンになることと、クリスチャンにならないでいることに間にどんな違いがあるというのかというのが多分クリスチャンでない人の疑問だと思います。クリスチャンになって気付くことそれはキリストをイエスを信じる者は罪に定められることが無いということです。これは罪を犯さなくなるということとは違います。 ( b ) 猿として動き回っているそのことが 仕事なのか? キリスト者が神様の指示通りに動きまわること、それは仕事なのかといえばそれは仕事ではございません。私どもクリスチャンは語るべきことが山ほどあっても語らないことの方が多いと思います。そのようにすることは私どもの自由意思に任されているからです。このシステムを楽しんでいる方々の中にも多くのクリスチャンがいると思いますが、ほとんどの人が語るのを控えているという印象を持っています。「真理はあなた方を自由にします」と聖書にありますが、ほとんどの場合その自由を単に楽しんでいるというのが現状と思います。つまり猿のように猿回しの命じるままに仕事をしているわけではございません。 ( e ) なぜって自分は猿以上の存在だと思っている人たちにとっては その自分たちが落ち入っている深い地の底こそがよろこびの楽園だと思わずには生きて行けないようだからである。 ご説の通りと思います。人々は通常ご自分を猿どころか、無意識的に神よりも優れていると思っております。従って自由や幸福を探すのもご自分でできると思っておりますし、平安と喜びに満ちた神の世界があるなどと通常は思いもしないと思います。 ( f ) キリスト者は その人たちにすすんで猿回しを催して声をかけ続けているその存在のもとに猿であることを欲した。 その通りだと思います。イエスキリストのことについて義務感でお話をしたり、理論的に正しいからそのようにするというのは大変なことと思います。キリスト者が聖書のことを喜んで語るのは単刀直入にいえば「語りたいから語っている」というのが動機のうちの大きな部分をしめております。語りすぎることに申し訳ないと思いますし、語らせていただくことにありがとうございますとお礼を述べざるを得ません。自分が真に幸いな人生を見つけたと思ったら、外に出て行って大きな声で叫びたくなるでしょう。キリスト者はそれを行っているにすぎないと思います。
お礼
しんしなちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 変わった表題の質問におつき合いいただいたことにあらためてお礼申し上げます。 ★ ~~~~~ ( b ) 猿として動き回っているそのことが 仕事なのか? キリスト者が神様の指示通りに動きまわること、それは仕事なのかといえばそれは仕事ではございません。・・・(中略)・・・つまり猿のように猿回しの命じるままに仕事をしているわけではございません。 ★ ~~~~~ ( f ) キリスト者は その人たちにすすんで猿回しを催して声をかけ続けているその存在のもとに猿であることを欲した。 ・・・キリスト者が聖書のことを喜んで語るのは単刀直入にいえば「語りたいから語っている」というのが動機のうちの大きな部分をしめております。 ~~~~~~~~ ☆ ( b )の命題についても もともとは(心つもりは) ( f )についていただいた評言の内容を想定していましたが 舌足らずでした。 そういう意味合いの務めを 《神を愛し 隣人を愛せ》の命題を果たすことと見なしてよろしいかと考えました。そういった実情の中にあると思いましたし そういった実情がまとわりついているとも思いましたので 質問してみました。 そう言えば 最後に競技場に連れ出されて来る剣闘士でしたか そういった聖句もあったかと。 ( e )はちょっと皮肉って言っていますけれど。揶揄が入っているかも知れません。でも こういうかたちにおいても 交通が出来るのではないか。こうも考えました。 ★ クリスチャンになって気付くことそれはキリストをイエスを信じる者は罪に定められることが無いということです。これは罪を犯さなくなるということとは違います。 ☆ これは おっしゃるとおりであるとわたしも考えます。 ( e )のような見方は まだまだ情況として続くと思われ そのような見方によって世間の人びととの食い違いも出て来るでしょうが こうやって対話をつづけてすすむと見ることになりましょうか? そういう確認を得ておきたかったのでした。ありがとうございました。