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国分寺建立の詔
自分なりにいろいろ調べてみたのですが、わからなかったので質問させていただきます。 741年に国分寺建立の詔がだされ、各国に国分寺・国分尼寺をつくることになりました。 そこで質問なのですが、各国ごとに『国分寺と国分尼寺の両方』をつくるのか、もしくは『国分寺か国分尼寺どちらか』をつくるのかがわかりません。 国分寺建立の詔はどちらを意図していたのでしょうか。 ご存知の方いらっしゃいましたら、お願いいたします。
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今晩は、学生時代に日本史を専攻していたオジサンです。遙か昔の事なので学説としての記憶が定かではないのですが、手許にある史料から考えてみました。 御指摘のように天平13年(741年)国分寺建立の詔が出されました。少し長いのですが史料からその部分を抜粋してみます。 「(天平十三年)三月、乙巳詔曰 朕以薄徳、悉承重任。(中略)宣令天下諸国各令敬造七重塔一区、并写金光明最勝王教・妙法蓮華経一部。(中略)又毎国僧寺、施封五十戸、水田一十町。尼寺水田十町。僧寺必令有廿僧。其寺名、金光明四天王護国之寺。尼寺一十尼、其名為法華滅罪之寺(後略)」。 大意としては「天平十三年三月乙巳、私(聖武天皇のこと)は今日ここに以下の事を命令し宣言する、国毎に七重の塔(寺の意味)を建てそこに金光明最勝王教および妙法蓮華経の写経を収めること(中略)。又国毎に建てられた寺(国分寺)には財源として食封(じきふ)五十戸と水田一十町、尼寺(国分尼寺)には水田十町を与える事とする。そして国分寺には必ず二十人の僧を置かねばならず、寺の名称を金光明四天王護国之寺とする。国分尼寺に関しても十一人の尼を置かねばならず、寺の名前を法華滅罪之寺とする(後略)」。 となります。 少なくとも此所から読み取ることのできることは「国分寺」「国分尼寺」の双方を造れとの意思です。そのために財源としてそれぞれに食封(又は封戸)や田畑を支給する形が見られます。 しかしながら実態としては当初朝廷としても国分尼寺には「国家公認の尼僧」を置く構想を持っていたものの、この後に中国からもたらされた「戒律」の存在により国家による僧侶の資格は「受戒」を受けた者のみとされ、国分尼寺に常時在籍する尼僧の数を揃えることが不可能となり国分尼寺そのものの存在が否定される形となりました(中国からもたらされた戒律そのものにも“女人禁制”の色彩が色濃く反映されていて、高野山などは「女人禁制の寺」としても有名です。その逆に奈良の宇陀にある室生寺は女人高野としても有名です)。 奈良の佐保路に残る法華寺は当時の面影を今に伝える尼寺として有名ですが、国分尼寺の名残は全国に点在する「法華」「法花」などの地名からうかがい知ることができます。 尚、史料の出典は「続日本紀」及び「類聚三代格」です。
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- oska
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>国分寺建立の詔はどちらを意図していたのでしょうか。 他にも回答がありますが・・・。 聖武天皇が全国に国分寺と国分尼寺を建てるよう命じたのです。 「国分寺と国分尼寺を、一緒に造れ」ちゅう事ですね。 当時の世の中が(平成の世と同じで)腐っていたので、政治的混乱・社会不安を「神頼み(この場合は、仏頼み)」した訳ですね。 国民の視線(天皇・豪族への批判)を、仏教に向ける訳ですね。 中国・南北朝鮮が、反日政策で「国内政治批判の矛先を外部(日本)に向ける」のと同じ事です。 続日本書紀などでは、時の権力者に都合の良い記事しかかきませんけどね。 藤原一族の正当性を書いた、日本書紀と同じです。 (中臣鎌足は、百済から亡命していた王子です。全方位外交を基本としていた蘇我を滅ぼて、百済目的で勝ち目の無い軍事行動を起しましたよね。) 「国民皆で、(奈良)大仏を建立しよう!」という企てが成功したので、二匹目の泥鰌を狙った訳です。 まぁ、当時としては「水素よりも軽い某国の首相発言よりは、効果があった」のでしよう。 余談ですが・・・。 香川県高松市国分寺町の旧国分尼寺金堂(現・法華寺)周辺で、講堂跡・尼坊跡のものと思われる礎石を確認しました。尼坊跡は、四国初の確認です。
お礼
政治混乱の天皇批判を仏教にむける…。 なるほどと思いました! 具体例や余談話も私の理解の助けとなりました。 ありがとうございました。
- fumkum
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簡単に言いますと、各国々に、国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を、一つずつ造る、つまり両方造るということです。実際に両方造られています。中には既存の寺院を利用したものもありますが。
お礼
すごくわかりやすいご説明ありがとうございます。 結局は『両方つくれ』ということなのですねっ(^^) これですっきりとしました!
お礼
なるほど! 私も史料を確認してみたところ、 『金光明最勝王経・妙法蓮華経各一部を写さしむべし。』のところからも、それぞれを写させる。つまり両方のお寺をつくるということがわかりました。 丁寧なご説明ありがとうございました!