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国分寺、国分尼寺。
聖武天皇は、天平9年(737年)、国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔を出しています。 また、天平12年(740年)には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出しています。 質問です。 1.全国各地に仏師がいたのですか。畿内から遠く離れた出羽・陸奥・越後・佐渡あたりまで、専門集団が制作に出かけたのですか。 2.瓦は重たいですから運搬困難なので現地で作ったと思いますが、出土品などから証明されていますか。 3.五重塔ではなく七重塔にしたのは、なぜですか。 質問ばかりしてすみませんが、よろしくお願いいたします。
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>全国各地に仏師がいたのですか。 当然、全国各地に技術集団は居ません。 多くの技術者は、平城京に集中して住んでいました。 天皇から命令された全国各地の国司は、悩んだでしようね。 「カネも出さなきゃ、技術者もださぬ。期日だけ決まってどうしよう?」 ※建築費用の5%程度は、朝廷が支給。残りは、国司が工面する。 そこで、見習いとして平城京で学ばせたり+平城京から技術者を呼び出しました。 結果として、全国各地の国分寺完成年月はバラバラ。 完成しても、維持費が無いので直ぐに廃寺の運命に・・・。 >瓦は重たいですから運搬困難なので現地で作ったと思いますが、出土品などから証明されていますか。 証明されていますよ。 讃岐(香川県)国分寺では、技術者集団や瓦職人及び瓦を焼いた府中山内瓦窯跡(大正時代に発掘)が残っています。実際、そこから割れた当時の瓦も出土しています。 讃岐国分寺・讃岐尼寺では、14基の瓦窯が必要だろうとの事です。 >五重塔ではなく七重塔にしたのは、なぜですか。 不思議ですよね。 一般的な塔は、仏教思想では五重ですよね。 何故、全国各地の国分寺の塔は七重なのか? 簡単に言うと、「本山の東大寺が七重の塔」だからです。 また、豪族の力が強かったので「天皇の権威を見せる」事も重要だった様ですね。 日本人は、特に「見た目重視」です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 「讃岐国分寺・讃岐尼寺では、14基の瓦窯が必要」ということですね。 よい土を探して、まずは試作してと、大変な作業だったと思います。 燃料となる木を切って乾燥させておかねばならずと、想像は膨らみます。 「本山の東大寺が七重の塔」だからという理由はなるほどと思いますが、ではなぜ、東大寺は七重の塔なのかという疑問が出てきます。 ただし、この疑問は独り言ですから無視してください。