少し前まで、橋の設計をやっていた者です。以下は全然確認した発言ではない事を、最初にお断りしておきます。
>近代的な図面の書き方が知られていなかった前近代に於いては、
>どの様な手段で柱の位置とか区画とかが決められていたのでしょうか?
自分は、前近代どころか古代においても、現代の図面と同等な図面が存在したのではないか?、と考えています。例えば、モヘンジョ・ダロの遺跡などでは、都市計画が成されていたと思うしかないほど、上下水道設備などが整備されていたと聞きます。そう出来るには設計図が必要と思えますので、やはり現在のような図面があったと思えます。その頃の図面は、もしかすると石版を石で引っかいて傷をつけたような、それこそ読みにくいものであったかも知れません。でも現代の図面と同等であったかも知れない、と思えるのです。
自分は設計業務にAutodesk社のAutoCadが、どこの設計会社にでも導入されたであろう時期に、最初の設計会社に入りました。AutoCadで書いた図面は、恐ろしく正確です。ドラフターで自分が書いた図面とは、雲泥の差でした(ドラフター名人が書けば、遜色なかったというか、手書きの方が格調すらありましたが)。
一度、自分の設計した橋の施工現場を見に行って、鉄筋の折り曲げ方まで、自分がCadで書いた図面そのものだったので、感動したおぼえがあります。
でもこれは、古代においてもそうだったと思えるのです。何故なら図面には、「寸法線」があるからです。石版に石で引いた寸法線であろうと、Cadで書いた1mmも違わぬ寸法線であろうと、情報は同じです。古代の設計者は、現代の設計者と同じように感動し、施工現場の職人さん達に、拍手喝采したと思いたいです。
そうだったら良いなぁ~、という希望的観測ではありますけど。
補足
有り難う御座います。 確かに長安の都とかに思いを馳せますと、仰る通りに採寸が行なわれていた様に思われますが、寝殿造りの様な歪な形状の場合にもそれが当て嵌まるのか自然環境に強引に合わせたのかが分からなかったものですので、此の質問を提出させて頂きました。