おいおい だいじょうぶか? こんな質問をかかげて。余裕こいているだけでないなら 投稿します。
基本的には 《たとえ》として読むとよいでしょう。
つまりどれだけ現実のことが書かれていても そして非現実的なことについてならむろんなおさら 比喩として向き合うのが 妥当であり有益だと考えます。
★ 文献学的批判を踏まえて
☆ という考慮は したがって けっきょく素通りすることすら出来るといったところです。
もともともはや物語として向き合えばよいというようになっていたとすら考えられます。
聖書記者たちが書き終えたあとに その文章の歴史上の位置づけであるとかあるいは同じような意味になりますがそれを取り巻く歴史上の局面であるとかがあらたになってしまった。単なる伝記ではなくなった。
局面があらたまったその上では すべてを比喩として捉えて向き合ってもよいし そう向き合うとよいと思います。
そもそも《神》という言葉も 比喩なのですから。ね。
* 局面があらたまったというのは おおむねイエスの死の意味をどう捉えるかをめぐってでした。その捉え方が パウロらの解釈としての自己表現をつうじて世界に広まろうとしたとき 局面は変わったと考えられます。イエスの完敗という歴史が 逆転し始めたということですし もっとも弱いことのうちに強さがあるということなどなどが 意味を持つように成って行きます。うんぬん。
お礼
だから一時期イランにまで視野を広げてたけど私の能力の限界を感じた