resistance20のプロフィール
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- 登録日2011/05/08
- ことばの武士道
言葉で「斬る」という表現があるように、しばしば言葉は武器だと言われます。なるほど論理的に冴えている言葉は冷ややかで、刃物に喩えるのが相応しいと思えます。それでは仮に言葉とは、刀のような武器だとしてみましょう。しかし、言葉を発することが、すなわち抜き身の刀を振りかざすことであって、相手を傷つけるかもしれないとは、恐ろしいことです。そこでこの比喩を出発点に、僕が考えてみた疑問は次のものです。 (1)武器を持ち歩くからには、近世の武士のように刀を管理するモラルのようなもの、さしずめ言葉の武士道のようなものがあるのか。それがあるからこそ、皆は言葉という武器を持ち歩いていても、平然としていられるのか。 (2)よりよく斬れる刀と、あまり斬れない刀の差はどこにあるのか。鋭利な刃物である言葉は、そもそも何を斬っているのか。自分の言葉は斬れる方がいいと思うか。 (3)ラヴ・レターの言葉や慰めの優しい言葉は、本当は何か悪しきモノを断ち切っているからこそ、逆説的に心に響いてくるものなのか。あるいは優しい言葉が存在するということは、言葉が常に武器ではないことの証拠となるものなのか。 特に(3)の問いについていえば、言葉の作用の仕方はケース・バイ・ケースだと言ってしまえばそれまでですし、この設問は比喩を過剰にした遊戯なのです。ですから投稿者の方が遊びにのって下さらないと、簡単に破綻する緩い設定の質問なのです。しかし遊びから出発して、言葉の作用する性質の一端を知ることもできるかもしれません。皆さんのお考えを聞かせてください。
- 日本人はなぜあほとばかとが多いのか?
ばか丸出しのわたくしから見てもそうであり 目立つ場合に極論したらということです。(ほかの国の人びととは特には比べていません)。 昔の日本人を思い描いてみるに こうだったのではないか: 1. きわめて話し下手である。 2. 知らない人とは容易に口を利くことをしないし できない。 3. そのくせ 人のことをよく見ている。見知らぬ人が困っているのを見たら むしろ何のためらいも無く声をかける。 4. 向こうから人が歩いてくれば道をゆづる。お年寄りには席をゆづる。 5. 報酬が決まりより多く支払われると 突き返す。決まりとは違うという意味らしかったが 怪訝な顔をして 突き返す。 6. こちらが勘違いしたりほんとうに間違えたりしたとき こちらがあやまると いいえこちらこそ気がつきませんでと応え返す。 7. (1)(2)より:外国人に話しかけられても 何も言えない。あほうとばかとを掛け合わせたように ただしにこにこ顔で だまっている。ただし困っている様子をみたら 自分がパニクったごとくその人のために何とかしてやろうと奔走する。 いまは 8. ぺらぺらべらべら しゃべり過ぎる。ところが中身にとぼしい。 9. 相手の粗さがしを考えている。 10. 道は相手がゆづるものと思っている。 11. かっこうをつければ人は 自分にしたがうものと思っている。 12. とにもかくにも あほうとばかとを掛け合わせたごとくに中身のないことをしゃべりまくって 人を手なづけようとする。 13. ・・・(みなさんのご意見を)・・・ 原因について マクロとミクロとそのおまけとをたたき台に述べます。 14. 言わずと知れた《アマテラス公民主導 ‐ スサノヲ市民従属》なる連関制として社会が築かれてしまったから。 15. この《 A ‐ S 》連関制のもとで やっと本来の主役で主導するはずのスサノヲ市民圏に主権があるとうたわれるようになったけれど アマテラス公民圏による主導体制はいまだにつづいている。その昔は このアマテラス公民には 無謬性が付与されていたわけです。神聖にして侵すべからずに近い感覚で 公務員はあやまつわけがないというけっきょく神話が世の中を覆っていました。 16. 要するにスサノヲ市民は 阿呆だと思われていた。その長い歴史の影響で おんぶにだっこの甘え癖がついてしまった。これが マクロの観点から見たあほうとばかの製造過程である。 17. 人と人との関係においては それが特にすでに組織の中にあっては つねに何らかの上下の関係が 権威や権力や権限をともなってでもあるいは伴なわないかたちででも 出来て来る。 このようにまなざしを上からそそぐ側と下にあってそそがれる側とに ふたりの人間は分かれるのがふつうである。 18. ならばすでにそのまま人間と人間の関係は ときとしてガミガミ役とアース役とに分かれる。ガミガミ役はところ構わずアース役に対して 自分の意識を排泄するというのが ガミガミの中身を成す。 19. アース役がこのゴミを受けて処理せねばならない。このゴミ処理に失敗すると 精神衛生上よくないことが起こる。 20. けれども 感受性のするどくて懐の深い人間に限って このアース役をいつのまにか引き受けている。 21. ただしアース役になる人間も 別の人間に対しては ガミガミ役に回ることも考えられる。よって世界は意識の排泄なる社会廃棄物とその未処理によって ガミガミ電磁波による感染列島と化す。 22. この《ガミガミ役 ‐ アース役》連関は むろん言わずと知れた《 A - S 》連関制の擬似形態なのである。これが ミクロの問題である。 23. 引きこもり役までをわれわれの社会は製造してしまった。《アース役はつらいよ》という大合唱を始めてもよいくらいだ。 おまけ: 24. ところが ここまで来ても誰も――愚痴のほかは――何も言わないししない。あほうとばかばかりが目立つ。どうしたことか? 25. 世の中にこの《 A - S 連関制》のむなしさをちゃんと知っており それでも さらに世の中の無常をさとって この連関制は変わらないと決め込んだ存在が何人かいて その人びとのもとに このひと言で《死》というべきあほばか状態を保とうとする勢力がいるのではないか? 26. というのは 所謂る陰謀説で どうも実際はそうではなく そのような無常観としての《さとり》が 観念となって・つまりは幽霊のごとくに 世の中を飛び交いまた歩きまわっているのだろうか? 27. このインフルエンザに人びとは感染してしまっているのか? だとしても ただそれだけではないのか? とことん自由で建設的なご批判をどうぞお寄せください。
- 哲学を学ぶことは精神にとってよいことか
52歳、主婦。ずいぶん昔ですが大学の一般教養で倫理学を学んだ時に 知識が増えてとても楽しかった記憶があります。 最近教育テレビで「ツァラトゥストラ」を見て、その楽しさを思い出し 本を読んで勉強してみようかなと思いましたが 40代で一度トンネル内でパニックを起こして以来、ずっといつか心を 病むのではないかという漠然とした不安があります。 ニーチェ自身が精神を病んだと聞きましたが、ニーチェに限らず 哲学を学ぶことが精神にとって悪い影響を及ぼすことはありうるでしょうか。