詳しく的確なご回答に付け加える事はありませんで、四方山の話に為ります。
1. 山窩とかくとどうしてもサンカとして清音でよんでしまいます。先日老舗のすし屋の板さんが、“さんが”と濁音で話してくれました。
私はやはりサンカだと存じますが、山窩を本当にはどう呼称したかはわかりません。
2. サンカが被差別の方という“類分け”が妥当かどうかはわかりませんが、そういう“類分け”をする方も多いようです。
定住しないで遍歴してくれば、中には差別的に見る人もいたろう推測はします。
3. 旦那場というタームを使って、友人のお父様(物故者:ご存命なら115歳)と会話したことがあります。
友人のお父様は、木挽きで山々を経めぐっていたそうです。
友人は大工です。
4. お江戸、そして東京は新開地です。江戸期もどんどん新開の地域を増殖していました。
(ちなみに余りに増殖するご府内に困った与力・同心はご府内として自分達の所轄範囲を限定して欲しいという願い出をしています)
そういう新開地ではあまり過去や経歴を問いませんから、たくさんの遍歴の方やいろんな所属の方もおられたようです。
子どもの頃、四十八組の一つの組の一番筒先のおじさんの奥さんは鳥追いさんでした。
(おちんちんだけ残して体中彫り物:刺青は罪人のにいいますからね。風呂は早く来るので、子どもたちとぶつかり、うめると怒る。)
○○ちゃん、せんべぇ食いにおいで。いくと長火鉢に座って、日比谷の最初のメーデーに参加した話や哲学やら、三太郎や倉田さんの話をしてくれます。読書家です。未だ中1でした。
未だに近所にもちょいと先にも竹細工だけのお家もあります。
サンカの方や遍歴の門付けさんが差別視されたかもしれませんが、いわゆるエタ非人であったということは疑問を持ちます。
みなさんとても誇りが高い方々です。そしてこどもにはとても優しい方々でした(もう65年も前の付き合いですから。)。
5. 信州の県民性の一側面は納得できます。それはまた日本人やいろんな国々の心性でもあります。
しかし確かに信州の方にはよく経験させられます。その個人にも拠るのでしょうが。
厳しい生活を生き抜いていくことで、そういう極が出る人と、反対の極が出る人とがいるようです。
6. 信州にはそういう山々を国境なく歩く人や職業の方も多かったでしょうし、多いと存じます。
言語的にも中部に属すると存じます。
サンカの方も中部に多いですし。エタ・非人は知りません。かぐや姫の竹とりの翁ってサンカだったかもしれませんね。多分サンカは朝廷と深い関係があるようです。
お礼
すばやく、且つ非常に興味深く、且つ詳しい解説をいただき、ありがとうございました。 おおきな御寺の近くに非人が集められるというのは、特に面白いと感じました。