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イエスキリストはどうやって霊的覚醒をされたのですか

よろしくお願いします。 イエスキリストが霊的覚醒・悟りを得られたエピソードと、 イエスキリストが神秘的な霊的能力を得られたのは、どういうときが始まりだったかというエピソードをお教えくださいませ。簡単でも結構です。 もし、文章が長くなるようでしたら、それを表記されてるサイトのURLをお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.1

イエスキリストは100%神の側面と100%人間の側面を持っています。つまり彼を人として知る人は彼は全くの人の子どもです。しかし彼が神であると理解するものとしては自分の罪の呪縛からの解放者であり、将来に向かっての希望のもとであり、神です。 ご質問者さんのご質問はイエスが人間として霊的覚醒・あるいは悟りを得たのであろうから、何らかのエピソードが残っていませんかということだと思います。少しばかりインターネットで検索してみましたが、私どもクリスチャンが体験するような罪の赦しとか救いの確信というようなことをイエスが体験したなどという記載はないように思いました。また悟りを開いたときか何らかの霊的な覚醒を体験したという直接的な記載もないのではないかと思います。 確か当時のイスラエルではローマの管理下にありまして、イスラエルの人々は国勢調査のために生れ故郷に帰る必要がありました。その旅の道すがらイエスは両親と離れ離れになってしまったのです。心配した両親が何日分かの道のりを戻るとイエスが人々に教えていたという記載がありました。(詳細は聖書にあたってください。)彼の話を聞いた人は彼の語る事柄に驚嘆したということですので、当方の勝手な想像ですが、彼は幼少でしたが、神の子供であったので、人々に父なる神について語ることができたのではないかと思うのです。 彼は30歳ごろまで大工でした。その頃いとこでもあるヨハネがヘロデ王にとらえられ、義理の父親の関心を買うためにサロメがヨハネの首を要求して、結果としてヨハネは殺されました。そのような状況の中でイエスは公に活動を開始しました。つまりヨハネと同様に神の道を伝える活動は命がかかっていることでしたので、人間的な見方をすれば大変な決断であったろうと思います。キリスト自身が述べていますが、「私に従って来たいと思うものは自分の十字架を背負って付いてきなさい。自分の命を救おうと思うものはそれをうしなう」と述べています。 また人間的な見方をいたしますが、イエスが自分が十字架で死を迎える決心をした時が、このころのことではないかと思います。否かれは幼少のころより死を乗り越えることができる神の子どもでしたが、現実的にしかも積極的に十字架の死に向かって歩き始めたことと彼の公的な活動の開始時期は一致するのではないかと思います。 すべてのクリスチャンが一度十字架で死んだ経験があります。一度十字架にかけられてそこから地上のはかない生活を眺め、またそこから天国の風景を眺めた経験があるものがクリスチャンだということができるでしょう。どうかご質問者さんも聖書を哲学書や何かの物語として読むだけでなく、自分に語りかける神の言葉として読んでみていただければと願います。命をかけるような決断は命を賭けても悔いないほどの歓喜を与えてくれます。 お近くのプロテスタントの教会のお出かけいただき牧師の話を聞いてみてください。喜んで対応してくださるはずです。

airi333
質問者

お礼

詳しくありがとうございます。 全く知らないもので、不躾な質問ですみません。 つまり生まれる前から既に、覚醒されてたということですね。

その他の回答 (2)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

知らないです。 そんなシーンは聖書には無かったと思う。 が、しかし、元ネタのホルスがアナトだったかにより洗礼を受けたというのが、題材なら、それは穢れを清めたという意味で使われたもの。 大洪水は穢れを清めるってのを表現したもので、地球の穢れを清めるために神は大洪水を起こしたとなっている。 40日間のお清めの後、この世には穢れたものが一切なくなったというもの。 ノアと妻と親戚とひとつがいづつの動物も穢れがないと認定されたわけだが、不純物が一切ないところにおいても、やがて穢れはつくものだとされ、それで自分の分身である子供を自分の身代わりに殺すことで、清い状態に本人が戻れるとなり、アブラハムは息子を焼き殺そうとして、何も知らない息子に自分を焼くための薪を背負わせ、聖なる山とされるところに上って、自分が清くなるため、自分の身代わりの息子を殺そうとしたわけです。 それらのエピソードが、やがて第一子は殺すというしきたりが古代にはあったとなり、悪魔崇拝といわれている宗教団体は、今でも第一子を殺しているとなり、そんでそれはできないと他の子供を自分の子供として殺し、宗教団体には自分の子供を殺して自らを清めた者だと思わせてすごしていたが、何年かたってバレてしまい、子供の命が狙われたとなり、父親は抜けられないカルト宗教の幹部たちから子供を守ろうとする って物語ができたりとか。。。 そうなると神は自らの穢れを清めるために子供を殺したってことになり、、、、 聖書って神自らも贖罪をするって内容になっちゃうわけで、、、、 神とて不完全な存在ってなるわけですね。 ただし日本は神は完全な存在という属性を付加していないので、、、、 完全なものだって属性をつけちゃうと、不完全な部分が指摘され、懸命に取り繕う論理をたてざるをえなくなり、あらぬ方角に話があーでもない こーでもないと飛び、意味のない無駄な時間をすごすことになるわけです。

airi333
質問者

お礼

なるほど・・・ちょい怖いですね・・・歪んでるんではないですかね・・・現代のどこかの聖書も・・・ ありがとうございました。

回答No.2

 こんにちは。    マタイには 悪魔によって誘惑を受けるという試練の場面がしるされています(4:1-11)。これを乗りこえたことは 霊的覚醒にあたるかと思うのですが あまりピンと来ません。すでにその前にイエスは あの洗礼者ヨハネのもとに来て 洗礼を受け そこで聖霊による証しが聞こえたともしるされています。  悟りと呼ぶには どこか違うように思いますが わたしの印象の深い場面をお伝えします。  ヨハネによる福音でしるすところの 十字架にかかるその前にイエスが 父なる神に向かって祈る場面です。  その祈りの前には 弟子たちに  ▼ (ヨハネによる福音 16:28、33) ~~~  わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」  ・・・  わたしは既に世に勝っている。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といったことなどを告げたあと 次のように独り語りに入ります。  ▼ (同上 17:1-5) ~~~  イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。   「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになる   ために、子に栄光を与えてください。    あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そ   のために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与え   ることができるのです。    永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお   遣わしになったイエス・キリストを知ることです。    わたしは、行なうようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて   地上であなたの栄光を現わしました。    父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる   前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。   ・・・  ~~~~~~~~~~~~  ☆ さらに 26節にまでつづきます。なかなか おもしろいと感じます。ここでほんとうにはりつけにおいて死を死ぬというそのさかづきを飲むという事態に直面したわけですから。人間としてと同時に神〔の子であり神である者〕として 語っているように思われます。聖書記者ヨハネはよく描いたと思います。  印象のもとにでした。

airi333
質問者

お礼

実際のキリスト様のお言葉までお示しいただき、ありがとうございました。

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