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「若さとはこんな淋しい春なのか」の解釈を
以下の自由律俳句の「こんな淋しい」がどんな淋しさなのか判らないために全体の鑑賞ができません。鑑賞のポイントなどお教えいただけませんでしょうか。「天才」と云われているようですが、この句のどこが天才的なのでしょうか。 ・若さとはこんな淋しい春なのか 顕信 (句集『未完成』) 〔住宅顕信(すみたくけんしん)(1961~1987)白血病で死去、享年26〕
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- HNKN45
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素人の勝手な解釈ですが、 若い時は、親友、悪友、そして彼女と付き合ったりするものだと思っていたが、現実の自分は病床につき、同年代の人間は、青春を謳歌している。自分だけが世の中から隔離されている状況に言い知れぬ淋しさを感じている。 折りしも、季節は春。病気でなければ、新たな出会いがあるはずなのに・・・ 「こんな淋しい」という表現になったのは、淋しいを修飾する言葉は、いろいろありますが、一語の修飾語で表現しきれない混沌とした淋しさだからだと思います。「とにかく私の淋しさをわかって・・・」という魂の叫びだと思います。 以上が、私の勝手な解釈です。 俳句で愚痴を言う程、淋しい彼を想うと胸が締め付けられます。人の感情を揺さぶる歌だから、この句に関しては「天才的」と云われているのでは、ないのでしょうか?
- snowbees
- ベストアンサー率22% (173/760)
1)素人ですが。俳句や和歌の鑑賞は、読む人それぞれの言葉の感性、古典を含む読書経験、人生経験、世代の違いなどで異なると思います。 2)「天才」かどうかは、外野の声であって、無視すれば良い。自分の好きな自由詩を繰り返し読む。私も、山頭火や放哉の自由詩やTVドラマが好きですが、私流で楽しみます。
お礼
ありがとうございました。 わかりにくい質問になりました。 「美しい」とか「悲しい」と書かずに、美しさや悲しみを表現するのが文学であるとは、よく云われますが、この流れで「こんな淋しい」の具体的な意味が知りたかったのです。 「天才(性)」云々は二義的なもので、実は最初の質問にお答いただきたかったです。
- slippinegg
- ベストアンサー率36% (423/1150)
前知識のない、ただの解釈です。 「若い事が、それだけですばらしい事もわかるし、 現実に今、若いという事で、幸せを感じる気持ちもある。 まるで春のような時間である。 でも、 これをいつしかと比べて、 幸せを痛感したり、 幸せを嘆いたり、 今の儚さを悲しんだり、 今の儚さを懐かしんだり、 そういう感情を、覚えることのない、この春は、 なんて淋しいんだろう。」 という意味かと思います。 死ぬのを知っていたのか、 知らずにまた来る春と比べて悲しんだのかはわかりませんが。
お礼
ありがとうございました。 拝誦しました。
- kuhoho_days
- ベストアンサー率23% (25/107)
こういう句は人の数だけ解釈が出てきそうなものですが。 まずわかりやすい「天才的」から。 ・初期からある程度以上の才能を認められてる =要するに「努力=秀才型」ではない ・夭折してしまった =年をとって老成、もしくは才能が無くなった姿を見られてない この二つに当てはまる人は「天才」と呼ばれやすいです、シューベルトとか。 この句が天才なのか天才と呼ばれた人が作ったから天才なのか、は見る人がひがんでるかどうかによるかと。 句の内容は感覚的にはわかるんですが説明しにくいです。 国語の文章題の回答に「どういう句なのか」が必要なら私はこう書きます。 「若いがゆえにまだ慣れていない寂しさ、人恋しさ、そして若いがゆえに早く過ぎ行く時の流れをただ呆然と見守る青年の心を述べた歌」 ただ、年取ると本当に人恋しさがなくなるのかといえばどうなんでしょうねえ。 まだそこまでいってないのでわかりません。
お礼
ありがとうございました。 尾崎放哉の句は1歳年上の師・井泉水の添削を受けて発表されているものが多いのですが、山頭火・放哉の天才性が語られるとき、井泉水の添削を受けたものに価値があるとすれば井泉水の才能、手柄であると考えるのがむしろ自然かとも思えるところがございまして…… 彼等の「境涯」と無縁のところで山頭火・放哉・顕信の佳品を鑑賞したいと念じております。 「こんなに淋しい」の「こんなに」は単純考えて「非常に」の意で受けとめればいいのでしょうか。
- elkiti
- ベストアンサー率17% (53/300)
この句を読んで私の感想を・・・(なので参考にはしないで下さいね^^;) あまり年齢を重ねていない、若い時には、思い出す過去、思い出が少ない。しみじみと過去を懐かしんでみたいけれど、しみじみ思い出せるほどの歴史が自分にはない。けれど、死期は迫っている・・・。若くして死ぬとは、こんなに淋しく、何もない自分のままで死ぬのか・・・。 という感じを受けました。もしも自分の死期を分かっていない時期の句だとしても、思い出すような自分の過去がない、という淋しさだと思います。 この「春」は、季節的な「春」であるならば、命萌える楽しむべき、心浮き立つ春にあるにもかかわらず、ふと自分を省みたとき過去がないことに気付き、周りの楽しげな雰囲気とはうらはらな自分がいる事の淋しさ、とも思えます。 「青春」としての「春」としてならば、「青春」という、なんとなくほろ苦くもきらきらと輝く時期に、ふと・・・。ともとれるような気がします。 以上、私の私見ですので、こんな読み方をする人もいる、ということで(^_^;)
お礼
ありがとうございました。 多々、示唆を頂戴いたしました。
お礼
ありがとうございました。 反応の鈍いわたくしにも合点がゆく御解釈でした。 他例: ・病んでこんなにもやせた月窓に置く 顕信 ・何でこんなにさみしい風ふく 山頭火 ・一人だけの淋しい物音たてている 顕信 もしかしたら山頭火の「こんなにさみしい風ふく」あたりが参考になっているのでしょうね。顕信は自由律俳句の先輩の作品を読んでいるでしょう。だとすれば、発想は類型的で天才の営為とは思えませんね。